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7話「『楓』の死」

 その後は奇跡なのか、運命なのか、この四人に取り巻いた事件は誰の口からも漏れることなく、互いが互いに沈黙を保ったまま定期テストまで過ぎた。僕は元から勉強していなかったし、事態が事態だったから集中できるはずもなく結果は当然散々足るものだった。しかし、一回のテストよりも大事なことが待ち構えていた。僕は真っ先に楓に会って話をしなければならなかった。しかし、すでに入ったヒビを治すために手を出して壊すのがひどく恐ろしかった。――ああ、この期間に楓に声をかけていれば。後の祭りはひどく虚しい。


 恐ろしくて前に進むことも後ろに下がることもできなかった僕は、進む未来なんか存在しないのに、時の流れの力にすがるしかなかった。


 まるで何もなかったかのように、テスト終わりの部活に出向くことにした。


 あえて遅れるためトイレで数十分を過ごし、血管が皮膚まで浮き出そうなほど激しい心臓の脈動を手で押さえながら、弓道場に足を運んだ。そこには、相も変わらず的に向けて弓を放つ部員が並ぶ光景が、当然のように広がっていた。


 いつもと違うのは、そこに楓と日比谷の姿がなかったことだ。


 周りは知らん顔で部活に勤しんでいる。普段楓をいじめている先輩は、主犯の日比谷がいないとそこまでいじめに関心がなさそうだった。反対に同級生からは楓の不在をいぶかしむ声が上がっていた。中には、前から楓の様子が変であることに気付いていたらしい部員もいたが、「まぁ、テストで気が滅入ってたんでしょ。テストも終わったし、そのうちやってくるでしょ」と一蹴いっしゅうして深く切り込まれることはなかった。


 楓の身に起きている現状を察するのに時間はいらなかった。すべては何もしなかった僕が悪い。まだ間に合うか、部活のない貴重な時間を無駄にした僕にできることはあるか。


 ふと弓道所の奥を見ると、包帯を顔に巻いて、皆の練習を遠巻きに見る天坂の姿があった。すかさず僕は、他の部員の遅れてきた僕に対する怪訝な目を無視して、画鋲で打ち付けられたように僕に視線を固定している天坂の前に、ゆっくりと迫った。


「あ、ああ、さ、笹本。どど、どうしたの?」

 笹本は、、怯えた猫のように肩を震わせていた。


「本気で何か分からないと思ってんのか? ちょっと来い」


 強引に天坂を弓道場から連れ出した。部員は多少は変に思ったかもしれないが、僕と天坂という組み合わせは別段珍しいことではなかったので、きっと目を引く顔面の怪我の理由を聞きたいのだろうと思ったのか、大して気にされなかった。


 あの日と同じ校庭の隅で天坂と二人きりになる。天坂は今にも倒れそうなくらい怯えている。


「簡潔に聞く。今楓と日比谷はどこにいるか知ってるか?」


 天坂はその質問が来ることをすでに分かっていたはずなのに、いざ目の前にしてかかる重圧に耐えきれずに崩れ落ちた。息を切らし、喘ぐように呼吸をする。


「ごめんなさい。ごめんなさい。ただ、私はアイツが邪魔で……」


「アイツ? そんな呼び方をしているのか?」


「あっ、ごめんなさい! 違うの。その、私は――四辻さんに負けたくなかったの」


「負けたくなかった? つまり、部活で勝てないから、先輩を使って楓を潰したっていうのか」


 僕も冷静でいられるわけがない。天坂の胸倉を掴み、無理やり立たせ、すでに傷だらけの顔にさらに傷をつけてやろうという怒気を見せる。


「違う、違う。違うって。――い、いや、そうかも。きっとそれもあるかも、たぶん」


 天坂は涙で包帯を濡らしながら必死に弁明する。彼女の言う「違う」の指す意味が分からない。


「そもそも、そんなことはもうどうでもいい。結局楓は今どこにいるんだ? 日比谷と一緒にいるのか?」


「たぶん……」


 天坂のみぞおちを殴る。彼女はカエルのような汚い声をまき散らしながら地面を転がる。


「ごぶっ、ご、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。わたっ、私にはっ、止められなかった。ごめんなさい」


「どこにいる?」


「それは――」


 彼女は金魚のように口をぱくぱくと開くが、言葉が出てこない。極度のストレスによる一時的な言語障害が発生したようだ。


「ちっ!」


 このときの僕は体の細胞全てが殺意で満たされていた。仮にここが外界と完全に切り離された密林なら、一切の躊躇なく天坂を殺していただろう。それでも、ちょっとした琴線の振れ幅で彼女を殺してしまう勢いだった。




「……楓?」




 しかし、幸いにも──幸いにも、黒い長髪の可憐な少女、四辻楓はそこにいた。椿色の弓を大事そうに抱えながら、ふっと柔らかく微笑んだ。


 風が強い。彼女の髪がなびいた。靡く髪に揺れて見え隠れするその瞳は暗い。その風貌には麗しさよりも、古典の怪異のような妖しさがあった。彼女の体に広葉樹が陰を作り、薄汚れた清楚の」雰囲気をを与える。その狂気的な芸術に、顔を紅潮させてたかぶる僕は、動きを止めて目の前の奇跡的な情景に恍惚とした。


「お疲れ様、圭」


「お疲れ?」


「うん、圭はずっと辛かったでしょ。だから、お疲れ様」


「辛かった? 辛かったのは楓の方じゃないか。僕なんか楓の苦しみを毛ほども味わったか?」


「ううん、私は大丈夫になったから、今一番苦しいのは圭なんだよ」


 彼女は一縷いちるの疑問も持っていないような口ぶりで答え、膝ほどの高さのある石の上に弓をそっと置いた。天坂には一瞥くれたが、何も言わなかった。が、代わりに深い軽蔑を含んだ鋭い目を突きつけた。天坂はそれに気づいたのか気づいていないのか定かでないが、程なくして気絶した。


 流れる風、揺れる木、佇む僕と彼女。


「大丈夫になったって、どういうことだ?」


「そのままの意味。もう、私は誰にも邪魔されない。誰にも汚されない。誰の目にも止まらない。全部終わったから」


 不敵な微笑みが僕の瞳をそっと撫でる。


「でもね、これだけは残っちゃった」


 楓は石においた弓に目をやる。僕もその弓を見る。さっきは陰で隠れていたが、陽に晒されてそこで初めて、椿色に擬態している朱色の飛沫を見つけた。


「楓、何があった? ──いや、今更そんなこと聞いても意味は無いか。何をした?」


 心臓がうるさい。これは緊張か、恐怖か。


「ふふ、そんなこと聞いてどうするの? 全部終わったのに」


「全部終わったって、どういうことだ?」


「そのまま意味だよ。もう、全部終わり」


 楓の大切な何がが終わった。正体の掴めない靄のような言葉が風に揺れて霧散する。


「……いじめがか?」


 ついに斬り込む。楓の眉が神妙に垂れる。


「あはは、そうだね。終わったね」


「日比谷に何をしたんだ?」


「あははははっ! はははっ!」


 楓は一段と笑った。笑いながら、泣いていた。僕は楓が日比谷に何をしたのかなんとなく察した。金曜のあの日からずっと、ずっと、ずっと、そうするのではないかと念じ続けていた事だったから。


「どうして?」


「楓、はっきり言ってくれ。君は日比谷をどうした?」


 楓は体を硬直させた後、僕と手を絡ませながら少し屈み、上目遣いで僕を見つめた。僕は彼女の双眸そうぼうを睨むように、冷たく愛しく見つめ返す。彼女は手をほどいて僕の頬に添えて、艶のある湿った息を僕にかける。


「どうしたと思う?」


「……殺した」


「正解、やっぱり圭は圭だね。でも、それ以上は知っちゃだめ。圭には、私の代わりになってほしくないから」


 僕が彼女の言わんとすることを理解するより先に、彼女は僕を突き放し、僕が尻餅をついている隙に弓を拾って逃げ出した。


「あっ、おい、待て! 楓!」


「あははははっ!」


 ほとんど狂気を孕んだ笑い声をあげながら逃げる楓を追いかけて校庭を飛びだす。横断歩道を突っ切り、赤信号を駆け抜け、曲がり角で老婆にぶつかりながらも構わず楓を追いかける。息が荒い。足が痛い。肺が震えている。何だって彼女に追いつけない。僕の方が足は速いはずなのに。


 気がつくと、楓は止まっていた。そこは公園。本来市民の憩いの場になるはずなのに、その時は、公園が死んでいるかのように人気がなかった。


「はっ、はっ、楓、なんで逃げる? 俺なら、誰にも言わないし、何なら、共犯者にだって、なるよ!」


「ごめんね、嬉しいけど、これ以上はダメなの。近づかないで」


 楓は閑散とした公園で弓を構える。いつの間にか矢が装填されている。


「……正気か?」


 既に人を殺した人に正気を問うのは愚かだと知りながらも、問わずにはいられない。


「正気も正気、私は私の意思で圭に弓を向けてるよ」


 楓はじりじりと距離を詰める。ここで脱兎の如く逃げ出す勇気があったらどんなに楽か。


「なあ、楓。一体どこで間違ったんだ?」


「さぁ、何も間違って無いと思うよ。初めから私と圭はこうなる運命だったの」


 運命は悪魔より悪魔らしい。楓、僕、天坂、日比谷。誰も幸せにならない。


「こんなのが運命なんて僕は認めない」


「そ。じゃあ、死んでくるかな?」


 楓は弓を引く。彼女が自身のか細い手を離せば僕は死ぬ。木々のせせらぎが僕をあざ笑っていた。

残りあと大体半分です。

笹本は四辻楓を殺すことができるのか・・・

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