表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/13

6話「露見」

「がんばってるね。この調子で私を殺してね」


 これは夢だ。直感でそう理解した。


 この前と同じカフェテリアに彼女――四辻楓が座っている。この前と違うのは、時間が昼から夕方になっていることと、彼女の右半身が融解していることだ。右手も先端がゲル状になっている。


「あんまり時間かかると、私は私じゃなくなっちゃう。だから、私が私でいられるうちにお願い」


 彼女は顔に右手を添えて肘を机につくと、どちゃっ、と右の頬の肉が垂れた。彼女はまともそうな左手で落ちた肉片を持ち上げ、まるで慣れているかのように右の頬へねじ込んだ。水分を含んだ肉のぶつかる音が僕の鼓膜をぬちゃぬちゃと愛撫する。左手を右の頬から取り出すと、今度は左手の先端がぐずぐずになって、爪がぼとりと剥がれた。


「あは、今の見てた? 恥ずかしいなぁ」


 羞恥の基準が微塵みじんも分からない。


「なぁ、僕は君に近づけているのか?」と僕は尋ねる。


「勿論。勇気を出して長島君に近づいたでしょ。それに慣れないインターネットカフェも使った。そこまで行動してくれるなんて、嬉しいなぁ」


「当然だ。君を殺すことだけが僕の生きる理由だ。殺すためだったら何でもするよ」


「うん。待ってるよ」


 彼女は朗らかな笑顔――ただしその右側は腐っている――で微笑み、先端の溶けた手で僕の手を取る。互いの頬を触る、いつものポーズ。いつもと違うのは、僕に触れる彼女の手は崩れて、僕の頬にぬるぬるした彼女の一部を擦り付けて、僕が触れる彼女の右頬は肌を通り抜けて、熱っぽい舌に直接僕の手が触れている。手に付着する粘液が唾液なのか融解したタンパク質の一部なのか分からない。


 僕たちはそうなるのが当然のようにキスをした。彼女の唇は、ゼリーよりも柔らかい。比喩ではなく、とろけている。僕と楓は渾然一体だ。


 あと少し。彼女を殺すまで夜は明けない。


*


 十七歳。それを人生の絶頂期と捉える人もいるし、これからの起伏ある人生への準備期間と捉える人もいる。いずれにせよ、青春の一時代を熱烈に過ごせるかは、その後の人生の熱量を決定すると言っても過言ではない。


 その時代がありとあらゆる幸福を強引に詰め込んだいびつな塊となって僕の喉を通り、腹が満たされたところで気持ち悪さに耐えかねて、幸福は胃液に塗れた汚物となって辺りに飛び散った。今、僕は飛び散った汚物を回収している。吐瀉物のような幸福だ。それについて回るのは、四年間を無為に捧げた哀れな大学生。孤独は共有できる。しかし絶望というものは互いにこすり合わせても交わらない。互いに抱えた孤独を目の前の汚物にぶつけるしかない。


 さて、目が覚めた時にまた一つ思い出した。正確には、おぼろげだった記憶の刺繍ししゅうを糸で繋ぎ止めた。


 四辻楓は巧妙にいじめられていたわけだが、その主犯は一つ上の先輩の日比谷直子と、意外なことに、同級生で僕とも顔馴染みの、天坂あまさか穂波だった。その他多数の先輩達が関わっていたのは驚くに値しない。もっとも、全部後から知ったのだが。


 特に、天坂穂波は中学からの仲だった。腐れ縁ではないが(それを言ったら四辻楓の方が近い)、二、三年のクラスが一緒だった。学生特有の、席替えで隣の席になった時から始まる、なんとなく機会があれば他愛ない会話を繰り出す程度で、知り合い以上友達未満の関係だった。卒業式の後の打ち上げのような催しの席で立ち合い、僕と天坂は同じ高校に行くと知って驚いた。


 高校に入り、彼女も弓道部を選んだ。始め名前も顔も知らない人ばかりだったので、僕と天坂は自然と二人でいることが多かった。その時はまだ楓には話しかけられなかった。二人きりでゲーセンやらカラオケやらに行ったこともあったけど、決して僕と天坂に部活の仲間以上の関係があったとは思えない。しばらくすれば他の部員と打ち解けたけど、天坂は僕に構うのを止めなかったから、何だか過去に縋り付いているようで鬱陶しかった。程なくして部活を辞める決心をして、楓と初めて会話をしたあの茜色の夕方以来、自然と天坂と距離を置いた。


 思えばそれからだ。楓は部活での自分の身の上をおくびにも出さなかったが、周囲が徐々に変わっていった。僕は違和感を脳裏で感じ取りながらも、目の前につらつらと流れる愛の息吹に盲目にされた。


 全てが変わったのは17歳の誕生日を迎えた後の夏。学期末テストが目前の金曜日、蝉のうるさい放課後。一応僕と彼女の仲は隠していたので――天坂にはバレていたらしいが――できるだけ学校内での接触は避けていたが、公共の場所で私的な行為をする背徳感を楽しみたくて、部活のことで個人的に聞きたいことがあると適当な口実を掲げて彼女のクラスまで訪ね、偶然彼女と同じクラスだった男子部員に取次を頼んだ。


 ホームルームが終わってから幾ばくも無いから、よっぽど学校を毛嫌いしていない限りはまだ残っているはずだ。部活のことなら俺が聞くよとそいつは言ったが、個人的なことなのでお前に話しても意味がないとでっち上げた。そいつは「まぁ何でもいいけど、四辻なら先輩に呼び出されてもういないよ」と言った。


 その時は先客がいるとは思わなかった程度の感想だった。しょうがないと諦めて、勉強はしたくなかったから、暇つぶしも兼ねて校庭をゆるりと散策してみた。人が立ち入らないような所にでも忍び込んで、子供の喧噪と離れた閑静な世界を学校の中に見つけたかった。その音のない世界で一人深く息を吸いたい。忽然こつぜんと沸いた不思議な感情だった。――今思えばこれすらも霊的な要素なのか。運命の神は霊に厳しいな。


 はっきりと見た。曇天の空をカラスが飛び交い、無駄に生え揃っている木々に視界を隠され、滅多に人の来ない校庭の隅の角で、日比谷直子が彼女の長い髪を引っ張り、天坂穂波が汚れた靴で素肌を露にした彼女の腹に蹴りを入れていた。陰鬱な鈍色の空と、ドブに付けた服を乾かしているような生温い微風が僕に降り注いでいて、眼前には、僕に見られたのが心底めんどくさそうに、マスクの裏で舌打ちをする日比谷と、今が人生で最悪の状況だと言わんばかりの苦痛に歪んだ表情の天坂がいた。もし穴があったら、迷わず入って息を詰めて窒息死を選んだろう。


「これは、なんだ?」


 僕は分かり切っている質問を風の流れに任せて二人の耳に運び、その間に体を二人へ詰める。有無を言わさず殺意をもって殴りかからなかったのは、理性が止めたからではなく、理解が追い付いていなかったに他ならない。


「笹本……違うの。お願い、聞いて。違うの。これは私じゃないの」


 天坂は意味を伴わない言葉を泡のように吹いていた。


「おい、笹本。天坂から聞いたぞ。なんでもこいつと付き合ってるそうじゃないか」


 非道を貫き通すと決めたのか、日比谷は用途不明のマスクからくぐもった息を吐いた。そして無駄に短いスカートを振って、楓の髪を掴んだまま、こちらに視点を合わせた。楓の顔は傷つけられていなかった。代わりに腹部は毒々しい紫色に腫れ上がっている。


 天坂を見る。無意味なのに、反射的に右足を後ろに隠した。


 無視して楓を見る。ゴボッ、と吐くような咳を出して、ゆっくりと顔を上げる。その顔は隠していた弱点を見られた羞恥とか、助けて欲しいと懇願する色ではなく、ひたすらに自分自身への失望を映していた。天坂も相当だが――いや、加害者の分際でなんでつらそうにしているんだが――負けじ劣らずの陰鬱な、正気のない目だった。元々いつかばれてしまうとかそういう問題じゃない。楓はすでに心が砕けていたのだろう。


 僕は日比谷に殴りかかっていた。しかし、体格は向こうの方が上だった。女子らしからぬ肥えたクマのような体からなる、膨らんだ腫瘍みたいな腕で僕の拳を弾き、肩を振り下ろして僕を殴り返した。


「おいおい、何をしようとしてんだよ。いいか、お前とこいつの関係、そしてこいつの惨めな写真をバラされたくなかったら黙ってろ!」


 日比谷は太い腕でスカートのポッケからスマホを取り出し、僕に、見るに堪えない楓の悲壮の集積を見せつた。吐き気と憎悪が胃から込み上げて、たまらずその場で吐いた。それを見た日比谷が、でっぷりとした大根のような膝で僕の鼻を蹴飛ばした。地面に仰向けで倒れ、鼻血と胃液と吐瀉物で僕の顔は汚物まみれだった。


 あぁ、これが僕か。何も気づけない、何もできない、何も救えない、何も考えてこなかった、世界の塵のような存在。絶望に駆られる楓は美しい花弁で、塵が花弁を腐らせて、憶病な子猫に足蹴にされて、人の心を持たない霊長類に踏みつけられて、かつての美しさは残っていなかった。その美しさは、塵に比べれば美しいだけだった。


「あっ、あっ、駄目、駄目です先輩。それ以上は、止めてください」


 天坂が生まれたての小鹿のような足つきで日比谷の服を引っ張る。日比谷は楓の髪を離し、冷ややかに天坂を見下して、「それ、片しておけよ」とだけ言い残して四人だけの世界から消えた。


「えっ、えっ、えっ?」


 狼狽する天坂、死んだ目で地面にうずくまる四辻、死んだ方が幸せな僕。ちっぽけな世界の片隅で、地獄の入り口が牙に涎を含ませてじっとりと見守っていた。


「えっと、あの、その、笹本――」


 天坂は楓ではなく僕に近づいてきた。それがどうしようもなく腹立たしくて、天坂を殴った。殴り続けた。僕が我に返った時には、天坂はぐちゃぐちゃになっていたが、息はしていた。皮肉にも、ここで一番きれいな顔をしていたのは楓だった。


ホラー色が深まってきました。秋です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ