5話「弓」
長嶋君は滔々と語りだした。
「僕は高校一年生を成り行きで過ごしました。一般の人々が送るような、波風の少ないけど決して何もないわけじゃない、極めて健全な生活です。そして高校2年生に上がったわけですが――ええと、僕の誕生日は4月の頭で、僕にとって学年が上がることはすなわち1つ歳を取ることでした。そんな誕生日に、僕は彼女と出会いました――ええ、転校生でした。巻雲みたいに薄かった僕の人生が、それからは積乱雲のように潤いと激しさを増したものとなりました」
彼女、17歳、薄い人生……なるほど似ている。しかし、僕の場合の彼女――四辻楓は幼少から深層で蓄積された思念の奔流だったが、転校生とやらのそれとなれば急激な濁流が関の山で、僕の描いた軌跡とは異なりそうだ。
「自己紹介の席でクラスの衆目を集める中、辺りを見回して、僕の視線を見つけると、優しく微笑みました。僕の存在を確認し終わったかのように視線を全体に戻すと、一通りの挨拶を終えて、偶然空いていた僕の隣の席に座るよう先生に促されました――まるで漫画みたいな話ですね。今でも笑っちゃいます。それで、授業の傍らこっそり彼女に聞きました。なんで僕に微笑んだのか。すると、彼女はさっきと同じ微笑で僕の耳元で囁きました。『ごめんなさい、私の大切な人にとてもよく似ていたから』と」
長島くんはここで深呼吸をはさんだ。僕も息を呑んだ。
「まるで天使の吹聴のようでしたよ。すぐに学年中で噂になるくらいには端麗な顔立ちでしたし、いつも朗らかで思いやりもある。すぐに人気者になりましたよ。そんな光の世界に生きる女性に優しく語りかけられたら、それはまぁ誰でも落ちますよ。――失礼、あまり関係ありませんでした。ともかく、僕は思いきって彼女に告白してみました。真っ白だった人生に彩りをつけたくて、目の前の天使に着色を頼んだんです」
「……結果は?」
「それが、大丈夫でした。互いに互いのことをほとんど知らなかったけど、付き合ってくれると彼女はいいました」
「それはいい話だな」と僕は月並みな感想を述べた。別に何も思わなかったわけではない。
いつの間にか、僕は腕を組んで、食い入るように話を聞いていた。今まで他人より優れていると思ってひいき目で彼を見ていたが、僕と似通っている部分があると分かると、かえって対等に近づくように思われる。
「まぁ、それで終わりならただの自慢話ですよ。肝心なのはここからです。――先輩は幽霊とかって信じますか?」
「待ってくれ、まさかその彼女が幽霊だったのか?」
「そう断言できるほど電波に生きていませんが、少なくとも霊能的な捉え方をしないと理解できない事象だと思います」
僕は天井のシミを眺める。割と年季のある家だ。
「霊ね、信じるよ。少なくとも僕の想像できる範囲では」
霊。僕はそれを信じなければならない。信じなければ、夢に出来た彼女は空想の産物となってしまう。彼女を夢の中に顕界させるために、霊的なものを信じるしかない。
「そうですか。やっぱり先輩ならそうだと思ってました」
その長嶋くんの言葉に少しむっとしたが、言葉には出さずに話の続きを促す。
「まぁ、結論から言いますと、彼女は肉体と精神をこの世界に固定させている地縛霊みたいな物だったんですよ。それだけ言っても到底信じられないでしょうけど、明らかに事実です。証拠と呼べるほどの物ではありませんが、彼女の残した爪痕があります。見ますか?」
「是非とも。その話が荒唐無稽な作り話だったら、君はいい創作家になれるよ。事実だとしたら、悲しいもんだね」
「ええ。とてもとても悲しい話です」
僕の冗談染みた発言を意に介さず、長島くんは先程通過した廊下に面する部屋に入っていく。
さて、彼は一体何者だろうか。目線が同じという抽象的な言葉が、霊という抽象を超えた概念の言葉によって具体性を帯びる。
彼が爪痕とやらを持ってくるまで手持ち無沙汰になったので、ビールを片手に彼の部屋を見渡してみる。
薄暗い蛍光灯に照らされる丸テーブルや絨毯は、まるで彼の生き写しのような侘しい光で照っている。ビール缶のアルコールの匂いがゆっくりと理性を吸い取る。視点を地面と平行にする。柏の壁には予定の入っていないカレンダー、型通りに笑う家族写真、表彰状らしきものがバラバラに飾ってある。気まぐれに表彰状の文面を追ってみる。平成何年、何月何日、長島明、貴方は全国弓道大会において以下の成績を云々――。
――全国弓道大会? 長島くん、君ってやつは……。
「お待たせしました、先輩。これが彼女の爪痕です」
彼が持ってきた、やけに見覚えのあるその三日月型の物体に、僕は仰天を隠せなかった。
「こ、これは?」
「見れば分かるでしょう、弓です。これだけじゃ何のことかわからないでしょうけど、これは――」
彼は僕が弓道をやっていたことを知らない。いや、知らないはずだ。彼が弓道をやっていたのは偶然で、僕と彼が出会ったのも工事現場の仕事とアルバイトが偶然一緒になっただけだ。全て偶然の掛け合わせだ。
なのに、彼が提示したそれは、偶然と呼ぶにはあまりにもできすぎていて――彼が例の彼女の隣の席になったことよりできすぎている――僕は息を振るわせ、口を閉じることを忘れて、何度も目で追って、何度もその弦がしなるのを見て、何度もそれを引く主を見続けていた、その弓に目線を合わせる。あの時と同じく、目線が右往左往してしまう。しかし、もう逃げない。あまりにも非現実な現実に向き合うしかない。
四辻楓の弓。カラーオーダーで、蘇芳と茜の重色目――つまり椿色の、唯一無二の彼女の弓。
十年を経て彼女の命と同様に淡く朧げな形で、それでもなお力強く弦を張っている。まるで十年間からずっと時が止まっているみたいに。
「先輩、聞いてますか?」
長島くんが混乱で俯いていた僕の顔をのぞき込む。彼は背が高いから、大分首を曲げている。
「どうしたんですか? 僕は弓を見せただけですよ。まさか、先輩は霊能力があって、この弓に取り憑いた彼女の幽霊でも見えるんですか?」
「いやまさか……いや、そうかもしれない」
「えっ」
頭の回らない僕の発言に彼も顔を青くする。その表情に見当違いな滑稽さを見出したので、僕は少しだけ正気を取り戻した。
「で、その弓が、弓――弓が、なんだ?」
僕は、白々しさを通り越してもはや挙動不審な態度で弓を手にとる。
間違いない。何度も触らせてもらった、彼女の弓だ。
かつて僕が付けた他愛もない傷跡がはっきりと残っている。あの時僕は本気で楓に謝ったけど、彼女は歯牙にもかけない様子で首を垂れる僕を撫でるだけだった。
「あ、はい。この弓、製造会社が個人企業の所らしいんですけど、そこは6年前に廃業しているんですよね。だから、彼女がこの弓を持っているのはおかしいんですよ。僕の言っている意味分かりますか?」
「分かるけど、親とか知人のおさがりかもしれないだろ」
無駄に思考がはたらく。ただし、細かく詰問する気は微塵もない。明らかに彼女の弓なのだから。
「確かにそう思うでしょうから、僕はわざわざこの弓の製造者を訊ねました。なんせこの色はオーダーメイドで、この世に1つしかありませんから。その製造者に無理を言って昔の名簿を探ってもらったところ、10年前に、例の彼女の注文を受けて作ったと断言しました」
「そうなのか。それは奇妙な話だ」
「そうでしょう。この場合の最も合理的な考えは、彼女は十年前に死んだ地縛霊で、人の形を保ちながらずっと弓道をやっていたんです。僕を恋に落として、全てを壊しながら。――勿論、こんな話信じようがないですけど、それでも先輩なら分かってくれると思っています。僕が彼女に抱いた思いと失った心は、体験した僕自身にしかわかりません。なのに、僕はこの気持ちが先輩になら分かると思っているんです。――これも霊的な話ですね」
最後に小さく自嘲して、彼は口を閉じた。僕の反応を待っているのだろう。なら、期待に応える。ただし、混乱と驚愕を上乗せしてだ。
「長嶋くん。その子の名前は、四辻楓、だろう?」
「はい。――え? どうしてそれを? え?」
期待通りの反応だ。上擦った声がエアコンで冷たくなった天井を撫でる。
「本当に、僕と君は同じ視点だったようだな。おそらく、君が思っていた以上に。そして、彼女――楓が霊のような何かだというのも、間違いないだろう。楓は僕の同い年の幼馴染だ。それが十年の時を超えて君の同級生になったんだ」
「そうなんですか! やはり……。しかし、えぇ、そうですか……」
彼は自身の予想があっていたと頬を緩ませながらも、僕の言葉の意味を図りかねて身動ぎする。その相反する奇妙な複合状態を僕は冷ややかに見つめる。
「ただし、彼女は死んでいないはずだ」
「どうしてですか?」
もう、全てをぶちまけてしまおう。彼ならきっと大丈夫だ。
「彼女は昨日僕に懇願してきた。殺してくれと」
「えぇ!?」
彼は素っ頓狂な声をあげた。
「本当だ! 夢の中で彼女は生きている! 僕は彼女を殺さなくちゃならない!」
混乱のあまり過呼吸になりそうな長島くんと、興奮のあまり倒れそうな僕。互いに限界状態だ。酒も回っている。四辻楓を巡って、世界は熱狂に包まれる。3LDK程度の、小さな世界。そこが僕と長島くんの全世界。
「詳しく話を聞かせてください。――いや、やっぱり駄目です。これ以上は僕がもちません。明日大学もアルバイトも休みますから、僕が落ち着いた後で説明お願いします」
「勿論だ。それと、君の話を聞かせてくれ。君と楓に何があったのか、十年のタイムラグで何が起きているのか、僕も知りたい。後、君の貰っていた表彰状だが――」
僕がそこまで言ったところで、彼は柔らかい絨毯の上に倒れた。宣言通りもたなかったようだ。
僕も視界がひどくぼやけ、膝が崩れた。丁度傷跡が床にぶつかり、絨毯とはいえ非情の痛みに耐えきれず、気を失った。




