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4話「長嶋くん」

 猫も殺しそうな好奇心で、仕事場を覗いてみる。途中顔を知る作業員とすれ違ったが、マスクとサングラスのお陰で気づかれなかった。


 相も変わらず耳を穿うがつ爆音と、脳を揺らす震動。改めて、よくここまでやって来たもんだ。つばを吐き捨てて、忌々しいその場を後にする。心の迷いは完全に切り捨てた。


「あれ、笹本先輩ですよね?」


 体を仰け反らせる。ゆっくりと首を回すと、そこには猫背の男が薄ら笑いで屈み込み、街路に隣接する高い足場からこちらを見下ろしていた。作業着が彼の高い身長によく似合っている。惜しむらくは彼は一般的な作業員に求められる快活さはなく、物陰にあるような濁った光を顔に忍ばせていることだ。


 彼は、長嶋くんだ。


「長島くんか。頼むから、他の人には言わないでくれ」


「勿論ですよ。笹本先輩がいないと皆忙しそうですけどね」


 長島くんは後ろをちらっと見る。不都合だが、確実にやらなければならないなことを押しつける人物を見つけるのにあくせくしている主任の姿があるらしい。なんだ、僕の代わりはいないじゃないか。楽に怒鳴りつけられる都合の良い存在の代わりが。


「明日は来ますか?」


「いや、もう行かない」


 僕ははっきりとした口調で言った。


「そうですか。そのことも全部主任達には黙っておきますよ。それとも伝えた方がいいですか?」


「いや、黙っててくれ」


「分かりました。……その代わり、今晩空いてますか? 先輩が今日いきなり無断欠勤して、……それも驚きですけど、さらに休んでおいてここへやって来るとかいう図抜けた行為の理由も聞きたいですし」


 長い前髪に隠された彼の瞳が妖しく笑う。どうやら逃がすつもりはないらしい。本当、どうしてわざわざ僕に構ってくれるのだろうか。


「今晩……今晩ね、いいよ。どこで?」


 本来断るべきだが、彼が僕に構う理由を知りたい。死を前に、現世に残してきたことはできるだけ精算しなければならない。


「それじゃあ、先輩の家にしましょう」


 何だ、意外と図太いな。もっと臆病な奴だと思っていたが。


「僕の家か、――駄目だ。第一君は僕の家を知らないだろう?」


「駄目ですか、そうですか。じゃあ僕の家にしましょう。住所、後でメールします」


「待て、僕のメールアドレスを知っているのか?」


「そうでしたね、じゃあこれをどうぞ」


 そう言って、彼は作業着のポッケに入れていたメモ帳とペンを取り出す。自分のメールアドレスと住所を書き込み、メモ帳を一枚千切って僕に手渡した。


「おーい、長島ァ! いつまでそこで油売ってんだ。ちょっと来い!」


 遠くから、露骨に苛立っている主任の声が飛んで来る。今までは狼のような恐ろしい咆哮だったが、物理的にも精神的にも距離を開けて聞くと、滑稽な子犬の遠吠えに聞こえた。


「あぁ、呼ばれちゃいました。それじゃあ先輩、また後で」


 長島くんは普段見せないニヒルな笑みを浮かべて僕に別れを告げ、主任の方へのんびり向かった。


 主任は僕の代わりを長島くんに求めたいようだが、彼ならきっと大丈夫だろう。帰り道、工事用フェンスの上で寝そべる野生の猫が「にゃあ」とのんびりあくびをしていた。好奇心には殺されなかったようだ。


*


 どうするか迷ったが、結局アパートに帰った。硬いベットの上で、四辻楓の手がかりを見つけたらしい例の人物の連絡を待ち、同時に長島くんからの連絡を待った。


 先に連絡が来たのは長島くんだった。『僕の住所です』という件名の下の本文に、ネットの地図で自分の住所を検索して出てきたであろう画像が張り付いていた。


 僕は長島くんの家へ向かった。猫どころか虎でも殺しそうな尊大な好奇心だ。この好奇心は羞恥心しゅうちしんに置き換えられる。バスを二駅ほど乗り継ぎ、名前は知っているが初めて訪れる異邦の町並みに食ってかかられる。名前のない無機質な自然と、心を感じない人工物の数々が僕の推進力を奪う。何も知らない異形の世界は隣町程度の距離の場所にこれでもかと広がっている。


 長嶋のくんの住んでいるらしい家に着いた。


 僕の住んでいた、社会に正気を抜かれて萎びた亡霊や、テレビの音量の下げ方を知らない無職が蠢く五月蝿いアパートと違って、他の家々とゆったりとした空間を置く孤高の一軒家だった。長島くんからのメールの追記で、今日は自分しかいないと書かれていた。名字プレートを確認した後でインターホンを鳴らし、防犯目的か見栄えかよく分からない小石道をじゃりじゃりと音を立てながら進む。しばらくして家の内側からのたのたと歩く音が聞こえ、ドアが開かれた。


「あ、先輩。来てくれてありがとうございます」


 長島くんは物憂げな笑顔を貼り付けて僕を出迎える。近くで見ると彼はより大きくて、あわやドアに頭が届きそうだ。作業着を付けていない彼は、世間を知らない高卒の新人のようななよっとした雰囲気の普段と違い、硬さと柔らかさを兼ね備える大学生らしい雰囲気を|纏(まとっている。


「長島くん、どうも」


「入っていいですよ」


 僕も一礼して、彼に促されるまま彼の家に呑み込まれる。


 彼の家はいわゆる標準的な一軒家で、内部は軽く埃が立つ程度で、全体的には綺麗だ。リビングに辿り着くまでの廊下の横にある部屋からは、人がそこに住んでいることを窺わせる薄い匂いが立ちこめている。ガーデニングに精を出す余裕もあるようで、外はもう暗いが薄いカーテン越しのベランダに、見たことのある花が花壇に埋まっているのが見える。母親がやっているのだろうか。


「さて、早速だけど飲みましょう先輩」


 長島くんは身を屈めて冷蔵庫を漁り、缶ビールを取り出す。僕が座る場所を尋ねると、リビングの丸テーブルのそばに置かれた座布団に腰を下ろしてと言われたので、その通りにする。柔らかい他人の感触だ。外はもう夜なのに、なぜか照明が最大まで点いていないから仄かに薄暗い。


「それじゃあ乾杯しましょう。えーと、先輩の退職祝い? ですかね」


「その前に――いや、飲みながらでもいいけど、聞かせてくれないか? どうしてそんなに君は僕に構うんだ? ただでさえ仕事場では役立たずのように扱われている僕だ。普通の人なら、そんな僕に近づこうと思わないよ」


 僕は丸テーブルの対角線上に座る彼に身を据える。すると彼は男にしては長い前髪を振り払い、今まで隠されていた暗い瞳を露わにする。缶ビールがカシュ、と音を鳴らして虚空のような穴が開いた。


「先輩は僕と見ている視点が同じだと思うんですよね」


 長島くんは意味深な言葉を呟き、ぐい、とビールを口に運ぶ。


「見ている視点?」


「ええ、先輩って昔にすごく辛いことがあったでしょう?」


「……漠然としてるな。辛い経験なんかしない人の方が少ないし、辛い経験をしたからって君と同じ

になるようなことがあるとは思えない」


「まぁ、一口に辛いと言っても色々ありますからね、先輩の反応は正しいでしょう。でも、僕は言いたいのは先輩が思っているようなことじゃありませんよ」


「どういうことだ?」


 要領を得ない彼の言葉に僕は首を傾げる。


「つまりは、先輩は僕と同じく自分の人生を自分のものと思っていないんですよね」


 彼はビールをぐびっと飲む。口に付着した白い泡を腕で雑に拭き取る。


「ほう」


 僕はどっちつかずの相槌を打つ。彼が何を言いたいのか見定めて、慎重に対応しなければならない。下手をすれば僕の計画全てが頓挫して、一生社会の奴隷にならなければならないと思えるほどの不思議な力を彼は持っている。


「全部僕の憶測ですけど、先輩は高校くらいの時期にこれまでの人生観がひっくり返るような大事件が起きたんですよ。それで、それ以来先輩は世界と自分を切り離して考えて、自分の体は世界に預けて、なのに世界は自分に許されていないような、変な状態になってるんですよ」


「よくもまあ、憶測で他人をそこまで測れるもんだ」


「でも、そんなに間違ってないですよね?」


 薄暗い部屋の中で彼の深海のような瞳がギラリと光る。その深海は僕を締め付ける渦の最も底にある。なるほど、ここが終着点か。三つの駅を越えた先の知らない世界に、僕の全てがぽつんと置いてあった。


「仮に――仮に、そうだとしても、僕と君の視点が同じとかいう話に繋がらないだろう?」


「同じですよ。だって、僕もそうでしたから」


 彼はいつの間にかビールを一本飲み終えている。中身のなくなったスチール缶が横に倒れる。そのまま乾いた音を立てながら机の上を転がって絨毯じゅうたんの上に落ちる。


「同じ?」


「ええ、僕は17歳――もう4年も前ですかね、忘れもしません。人生そのものを見つめ返さざるを得ない、凄絶な体験をしました。聞きたいですか?」


 忘れもしません、だけやけに語気が強い。


「まぁ、そうだな。それが君が僕を気にかける理由に関係あるなら」


 僕のその言葉を聞くと、彼はあぐらを組み直して仄かな光を照らす蛍光灯を仰いだ。

長嶋君再登場。

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