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3話「手がかり」

 新しい春を迎える頃には意味もなく互いに見つめ合う時間が長くなって、桜が舞う頃には頬を触れば、それはキスの合図になった。今まで視線の届かなかった数年間を取り返すみたいに、一日ごとにどんどん深く沈み込んでいった。


 幸せは長くは続かなかった。


 彼女の才能を妬んだ先輩――ただ一年か二年早く生まれてきただけで、くだらない自尊心のために保身に走る野性的な存在――によって、彼女は陰湿かつ狡猾こうかつに、それも、僕みたいな尊大だが単純で視野の狭い男には気付かれないように、執拗しつように追い詰められた。彼女が苦しんでいたその時も、僕は気付かずに目の前の愛を掴んでいることがひたすら幸福でたまらなかった。恋は恋しているその対象さえも盲目にした。


*


 その夜は明けた。


 月に変わって姿を現した太陽が惰眠に落とすことを許さない。僕は何事もいつも通りであるかのように、ゆったりと立ちあがって洗面所で顔を洗った。


 鏡の中の自分を見る。いつも通り、曇った顔の僕がいる。正気のない、ひどく間の抜けた顔だ。髭を剃って、ぼさぼさの髪を申し分程度に整える。全てはルーティン、変わることはない。ただ膝が痛い。


 昨日の夜、改めて巻き直した包帯は既に血をたっぷり吸い込んで濡れている。まだ痛みは残るが何とか動かすことはできる、最低限で最高の痛みだった。この痛みが精神安定剤のようで、このままどくどくと垂れ流してもいいくらいだ。ただ、これ以上血を流すと気を失ってしまいそうだ。


 ナイフはそのまま、細々とした生活用品や全財産を鞄に入れて、ネットカフェに籠もることにした。顔にはマスクとサングラス。これまでパソコンなどを買う余裕はなかったし、格安のスマホは利用料金を払わなかったら、前時代的なメールと電話しかできないハリボテと化していた。


 初めてのネットカフェの独特の匂いに顔をしかめながら、パソコンの電源を入れる。苦闘しつつも何とかネットを開く。皆の知る大企業のロゴマークの下に検索欄が表示されている。たどたどしく、一文字ずつその言葉を入れて検索を掛ける。


 「四辻楓」


 カーソルが回るその間、冷や汗が頬を伝う。心臓の鼓動はひどく早まる。なのに感じる時間はひどくゆっくりだ。画面が切り替わりブラウザが白く染まった瞬間、僕の息と世界の時間は止まっているも同然だった。


 四辻楓

 検索結果:89件


 ホイールを回す。名字検索、姓名判断、漢字一覧、およそ人の名前を扱っていますが、個人のことなど一切存じ上げませんと言っているようなタイトルのリンクが並んでいる。一つ一つタイトルを吟味して、ホイールを回し、一から二へ、次の検索結果へ移る。


 4番目まで来た。ここまで来ると四辻の文字すら消え失せ、期待の炎が弱まっていく。


 ふと、目に止まった。


『全国弓道大会ベスト32――○○、○○、四辻楓――』


 なるほど、彼女は生の痕跡こんせきを自らの実力によって晒さざるを得なくなったのか。しかし、この記事を読んでも現在の彼女について知りえる情報はない。期待と失望が折半して願望の底で溶け合っている。


 再び追跡を続ける。このネット社会において、彼女はついぞ痕跡を残していないようだ。全てを包括するようになった世界に認められず、まるで戸籍すら持たないように、世界と隔絶の距離をとっている。僕もそうだが。


 しかし、世界は一人一人の身体を絶望的に収容して、逃すことはなかった。それは7番目の欄の4つ目にあった。


『四辻楓を探しています』


 僕は半ば無意識にそのタイトルをクリックした。その後で心臓が揺れた。最後の更新は2年前。


 ネットの海の奥底で、沈んだ魂がサルベージを待っていた。装飾のない、初心者が取りあえず作成したようなホームページが映し出される。


『四辻楓は20××年の夏に姿を消してしまいました。この顔に見覚えのある方、またはこの名前に聞き覚えのある方、連絡お願いします』


 その文章の下にはぼくのよく知っていた時代の彼女の顔写真が貼られている。弓道の大会でとった集合写真を拡大したのだろうか、ひどくぼやけて、まるで指名手配書のようだ。


 サイトの底には個人的なメールアドレスが貼られている。掲示板のようなものもあって、ぽつぽつとそれっぽい情報が載せられているが、どれも信憑性に欠けている。ある程度サイトを踏み鳴らして、有益な情報のなさに辟易へきえきした。だからといって目の前に漂ってきた一筋の藁を離す訳にもいかず、すがりついた藁を手繰り寄せる。


 『私は笹本圭と言います。私は昔の彼女を知っています。私も現在の彼女を探しています。今貴方が知っている情報について知りたいで、お手数をおかけしますが以下の番号に御連絡お願いします』


 書かれているメールアドレスを確認して、共有パソコンではなく、自分の携帯から拙文を送る。


 ふとこのサイトは誰が作ったのか気になった。少なくとも彼女の両親ではない。彼女の両親とも懇意だったのは今更言うまでもないし、母親はともかく父親はネットに詳しかったため、こんな粗末なサイトは作らずに、もっと大多数に発信できる方法をとりそうだ。それに、そんなサイトを作っていたら僕に何かしら伝えてくれていいはずだ。そういえば、今はツイッターなんてものがあるんだっけか。昔はなかったにしろ、それでもこんなものは作らないだろう。となると、彼女のクラスメイトや弓道部員と考えるのが筋だろう。――いや、部員は考えづらいか。


 これ以上の収穫はないとパソコンの前から立ち上がり、ネットカフェを後にした。店員の形式通りの「ありがとうございました」が閉じる自動ドアに掻き消された。


 ファストフード店に体を止める。ソースまみれで味の濃いハンバーガーと、氷でかさ増しされたジュースを頼み、席に着く。


 サイトの更新が止まっていた割には返信は早く来た。本文を開いて目を通すと、僕の体が反射的に飛び跳ねて衆目を引いた。


『報告ありがとうございます。実は最近――それもつい最近、彼女に関する手がかりを手に入れました。上手くいけば彼女を見つけられるかも知れません。貴方も彼女を探しているようなので、よろしかったら情報交換を行いましょう。都合の合う日を伝えていただけると幸いです』


 なんてことだ。彼女は発見の兆しを施されている。それも第三者に。


 流石に毎日いつでも都合がつくと言ったら僕の所在を不審がられるだろうから、平日の夜と週末なら大丈夫という旨メールを送信した。


 ふぅ、と息をつき、体を伸ばす。緊張の波が引いていく。彼女が目の前にいる気がして手を伸ばす。しかしその手は食べ終わったハンバーガーの袋にくしゃりと触れただけだった。返信はしばらく来なかった。


今回短いですかね……?

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