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2話「麗しい過去」

 彼女の言葉に返答する前に、目が覚めた。


 意識が覚醒するにつれて、弁当の残り汁のきつい匂いと、等間隔で音を立てる時計の秒針と、煩わしいだけの鈴虫の鳴き声が僕を不快にさせていった。暫くして自分が汗をびっしょりかいている事に気付く。冷房を付けなければ。むしろ弁当を食べている時は冷房をつけていないことに気付かなかったのか、と自問する。


 部屋が冷めて茹で上がった頭が冷えてくると、夢の記憶が気流のように冷えた頭へ降りてくる。彼女――四辻楓は夢の中で確かに言った。「私を殺して欲しい」と。


 成程、僕が今まで生きていたのは彼女がいたからだ。そして僕を生き永らえさせて苦しめていたのも彼女だ。そんな彼女が殺して欲しいと願ったなら――たとえそれが夢の中だとしても――僕は彼女の要求に答えよう。

 僕は彼女を殺し、僕も後を追って死ぬ。凄く高潔で、美しいことじゃないか? 死の淵には、現実と倒錯した二人だけの世界が広がっている気がする。


 額がズキズキと痛む。主任に殴られたからだ。今はそんな痛みさえ、僕の内なる衝動の原動力にしかなりえない。どうせ死ぬんだ、痛みなどあってないようなものだ。むしろ痛みを感じる度、生きている感覚が沸き上がる。


 しかし、我に返る。この感情は何だ? 僕は多忙の日々に今まで彼女のことを忘れていたのだ。そんな浅はかな思いで彼女を殺していいものか。彼女を殺すにも、ある種の背徳感よりも後ろめたさが勝ってしまうのではないだろうか。心の歪みが体を揺らす。僕は監獄にあるようなベッドに横たわった。


 第一、彼女は今どこにいるのだ。どこにいるか分からないから連絡も取れずに忘れていたんじゃないのか。単純なことさえ時間を置かなければ考えられない程自分は参っているのか、とひしひしと感じる。胸を打つ衝動が僕を突き動かして、後で理性の障壁が僕の本心を邪魔する。


 思考を巡らせる。幸い僕にはまだ考える力が残っているようだ。


 思い出が僕の生存意欲を沸き立てる。それと同じくらい、殺人願望が湧き立っている。誰かを殺さなければ発狂してしまうようだ。全く狂っているようにも思えるが、実際殺人をしないと決め込んで一人苦しんで死ぬよりも、人を殺すか否かで悩むよりも、人を殺すと決断した方が何倍にも心は軽くなる。


 もう仕事に行く理由もない。今月の給料も必要ない。残りの貯金を確認する。通帳には一週間生存できるだけの金額が示されている。充分だ。


 四辻楓。十七歳のあの時まで僕らは一緒の時を過ごしていた。目を閉じると、あの夢の続きがありありと浮かんでくる。


 あのしなやかに伸びる髪。あれをズタズタに引き裂いたらどんなに愉しいだろう。人形のように細い指。あれを細切れにしたら彼女はどんな表情をするだろうか。あのつぶらな瞳を鮮血に染めて、使い物にならなくなった眼球をどうしてやろうか。想像するだけで寒気が全身を楽しそうに駆け巡り、恐悦の息が漏れる。


 彼女の想起がトリガーとなって、色々なことを思い出してきた。僕が17歳の頃は、全てが輝いて見えていたか。だから過去を顧みることなんてしなかったし、未来が今と同じように続くと信じて疑わなかった。実際待ち受けていたのは底の見えない洞穴ほらあなだったが。

 何はともあれ、まずは彼女を探さなければ。僕はナイフを持って夜の帳を駆け出した。


*


 四辻楓とは幼馴染みだった。しかし、よくアニメや漫画にあるような、幼少から人生を共有した気の置けない関係ではなく、たまたま家が近く、たまたま親同士の仲が良いだけで、その親の関係に片方の息子と片方の娘は含まれていなかった。


 それでも自然と仲良くなる可能性もあり得たが、子供の僕はひどく人見知りで、まともに顔を合わせて「おはよう」の挨拶を言うこともできなかった。母親を早期に亡くした僕には、異性が異なった世界線を生きている正体不明の生物に思えていた。


 起点は16歳。偶然僕と彼女は同じ高校に入った。そこは自称進学校で、毎日ただ穴を埋めるだけの宿題が山のように出て、疲労困憊ひろうこんぱいの残業戦士のような生徒を養成している場所だ。


 僕は弓道部に入った。理由はかっこいいと思ったとか、玉遊びをしている人と比べて優越感に浸れるとか、思慮の浅いものだったと覚えている。的外れな罵声を散らすのが得意な、杜撰ずさんに切り揃えられた口髭を携えた顧問の指導を、20に届かない程度の部員が熱心に聞くふりをしていた。まるで練習メニューに「先生の話を聞くふりをする」の項目があるようだった。


 練習を積んで、基本的な姿勢は覚えたのだが、いかんせん的の当て方が分からなかった。そもそも、的の狙い方が分からなかった。最初の軽薄な理由もあって、夏の合宿の前には退部届をしたためた。作成した後も少しは辞めるか辞めないか悩んだが、夏に合宿があると聞いて辞めると決心した。他の部員には伝えなかった。


 部活が休みの月曜日の放課後、僕は顧問のいる社会科室に向かった。


 社会科室は生徒の教室の存在しない高い階にあり、本来学校が持つ喧噪と切り離された静寂に染められていた。夕日に照らされて影が伸びる廊下にはしじまの海が広がっていた。


 窓越しの夕陽に目を側めながら廊下を進むと、偶然にも――はたまた必然か――退部届の入った封筒を持つ僕の前に、彼女――四辻楓の姿があった。


 彼女のすらりと伸びた髪は、夕陽に照らされて邪気の抜けた艶のある光沢を発していて、見ているこちらが恥ずかしく感じられる程素敵に感じた。


 そういえば四辻も弓道部だった。親ぐるみの付き合いなのに言葉を交わしたことのないという奇妙な関係が、この時はひどくばつの悪い雰囲気を形作っていた。


「あ、えーと、圭くん。どうしたの?」


「別に何でもないよ、楓さん」


 彼女は僕を下の名前で呼ぶ。僕も彼女を下の名前で呼ぶ。それは親からの呼び名が自然と僕らに伝播でんぱしていたからだ。


「その手に持ってるもの、何?」


 彼女は僕の右手にある封筒を一瞥する。何だか自分の弱い部分を見られているようで、思わず後ろに隠してしまう。


「別に、何も」と僕は言ったが、なにもごまかせていなかっただろう。


 彼女と視線を合わせられない。合わせようと思っても視線は右往左往して、茜色を映すガラス窓や壁に張り付けられた吹奏楽部のポスターがうろちょろする。


「こっち見て」


 彼女はその柔らかい手で僕の顔を挟み、あどけなさを残しつつも女性らしい顔をぐいと近づけてくる。僕の視線はますます激しく揺り動いて、最終的に振り切れたように、視界の隙間にある右下のタイルに固定された。


「な、な、何、楓さん」


「私知ってるよ。圭くんは困ったことがあるといつも目が泳ぐ」


 今まで話したことはなかったのによく見ているもんだと一方では感心しつつも、一方では歯を軋ませるほど恥ずかしく、さらにもう一方では不思議と嬉しく感じた。


「そう、かな。そうなのかな。参ったな」

 僕は動揺を誤魔化すように後頭部を掻いた。


「それで、どうしたの。その封筒は?」


 彼女の純粋な瞳が僕の瞳を焼き付ける。僕を目を合わせない。


「弓道、辞めようと思う」


 廊下のタイルが、茜色の夕日をきらきらと照り返している。


「そんな、もったいない」


 彼女は本当に残念そうに目を見開いた。生憎あいにく、辞めてもったいない程の弓道の腕はない。


「でも、自分で決めたことなら私は止めないよ」


 彼女は僕の頬に添えた手を離した。その時僕は初めて彼女の瞳を見た。ずっと見ていると吸い込まれてしまいそうな蠱惑的な黒に、温かな茶色が含まれている。弓道によって培われた、一点を鋭く見通す力強い眼だ。


「圭くんのフォーム、遠くから見てても、すっごい奇麗だったのにな。私は当てる技術はあっても、型が良くないってよく言われるから、羨ましかった。また、お話しできるといいね」


 バイバイ、と彼女は風になびかせるように手を振って別れを告げた。


 僕は一人ぽつんと廊下に立っていて、そのあと社会科室から出てきた髭オヤジに封筒をビリビリに破かれるまで、そこにあった彼女の残滓を見つめていた。


 このまま残滓を眺めて生きるのはとても耐えがたいことのように思われて――あるいは逃げてしまえたらどんなに楽か――猛然と学校を飛び出して、16年間住んできた我が家の――その隣家へ直行した。


 丁度、彼女は家にたどり着いてドアを閉める直前だった。腹を決めた僕は、練習でつぶれた豆が滲む手でドアが閉じるのを押しとどめた。


「楓……俺、やるよ。弓道、続けるよ」


 僕の背中を吹き抜けてドアに差し込む風が、驚きで軽く放心している彼女の髪を揺らした。彼女は突然の闖入者にしばらく呆然としていたが、落ち着くと、小悪魔のような悪戯っぽい顔で微笑んだ。


「圭なら辞めないって分かってた」

 


その日以来、僕は練習に励むようになった。きっかけは言うまでもない、四辻楓の瞳だ。あの瞳を、僕も持ちたくなった。僕が型で、彼女が瞳。互いに会話を交わさなくても、僕らは弓を通じて語り合っていた。その頃から自分にも自信がついて、勇敢で雄大にもなっていった。無意識に彼女に釣り合うような男になりたかったのだろう。


 僕が最低限の記録をとれるようになった頃、彼女はみるみる腕を上げて、仕舞いには夏の大会は1年生なのに県上位の成績を叩き出し、我が校で一番の実力者となっていた。でも僕がお祝いの言葉を伝えると、「圭のおかげだよ。私は圭を見ているから、ここまでできるの」と彼女はかえって僕に感謝をするのだ。県上位の者が基礎を覚えたかどうかの僕を参考にしているとはおかしな話だ。それでも、その時はその事実がただ嬉しくて、自ずと自分の腕も上がっていく好循環が生まれていた。


 いつの間にか地獄の夏は超えた。落ちる紅葉に袴がよく似合う秋や、弓の音が張り裂けそうに響く冬が流れた。流れる季節と苦節を共有して、ますます僕と楓は親しくなった。隔たれていた心の距離は存外始めから近くにあって、言葉を交わさず、視線を交わさなくても心が通っていた。


 僕たちは色々なことを語り合った。好きな漫画、アニメ、小説。友達の話、たわいもないニュースの話、弓道の話。意外と彼女の見ている世界は僕の世界と同じで、二人して「若きウェルテルの悩み」に心を打たれたことを語り合った。他にもくだらない話で盛り上がり、家の近さを利用してどちらかの家で二人で夜を明かすことも珍しくなかった。


 彼女には不思議なくせがあって、僕の頬を頻りに触った。彼女曰く時折目の前にいる僕が本当にいるのか不安になるらしい。僕はその度に彼女の頬を触り返した。すると二人して同じ格好をしていることがおかしくなって、けらけら笑った。


 そんな調子で、僕と楓は高校二年生――17歳の頃には、付き合うようになった。


『若きウェルテルの悩み』(わかきウェルテルのなやみ、ドイツ語: Die Leiden des jungen Werthers)は、1774年に刊行されたヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテによる書簡体小説。青年ウェルテルが婚約者のいる身である女性シャルロッテに恋をし、叶わぬ思いに絶望して自殺するまでを描いている。出版当時ヨーロッパ中でベストセラーとなり、主人公ウェルテルを真似て自殺する者が急増するなどの社会現象を巻き起こした。そのため「精神的インフルエンザの病原体」と刊行時に呼ばれたが、現在も世界中で広く読まれている。――出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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