10話「天坂」
──時はきた。オレンジ色の空に紫色が徐々に現れて、人々の活気と共に夕陽が落ちていく。
「行きますか」
長島くんは大儀そうに立ち上がり、手を頭上で重ねて細長い体を伸ばす。時刻は7時30分。約束の店へは二十分もあれば着くから丁度良い頃合いだ。僕は無言で頷き、出発の支度をする。ふと、大事そうにケースにしまってある弓──楓の弓が視界に入る。
「あれも持っていこう」と僕は提案する。
「賛成です」
彼は弓の入ったケースを肩にかけた。
「あと、伝えてないから向こうは君がいると知らない。結構考えたけど、長島くんは店には入らないでくれるか? もし会話の流れで君の紹介が必要になったら呼ぶよ。あ、僕の携帯はもう電源がないんだっな……」
「それじゃあ、これを渡します」
彼は自身が持っていたスマホを僕に差し出す。
「いいのか?」
「はい。僕のパソコンは僕のスマホと通話を行えるんで」
「そうか。ありがとう」
彼は先程サイトの検索に使ったノートパソコンを藍色のトートバッグにしまった。
こうして僕らは再び外に出た。昼間と違い、絶え間ない人の流れが弱まっている。ゆったりとした時の流れに任せて、茜色を照らすごつごつとした路地を進む。今度はコミュニケーションとしての無言ではなく、単純な緊張で互いに無言になっている。いや、長島くんも緊張しているかは分からないが。
歩くこと20分、喫茶店「ブランカ」に到着した。若々しい新緑に囲まれた立地で、レトロな瓦で葺かれた屋根を被っている。その店の仄かな橙色の光と喫茶店特有の珈琲の心地よい香りが、喧噪とした都会で心を静められる場所という印象を醸し出す。
予定通り長島くんは店に入らず、近くのファストフードで夕食てがら待機することにした。僕はこのひっそりとした空間にいることに場違いな感じを覚えたが、止まっていては何も起きないので、震える鼓動を静めて店へ入った。ドアを開けると、備え付けられた来訪を伝える鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ。お一人様でしょうか?」
清潔な店員が僕に尋ねる。
「ええと、一応待ち合わせをしている予定だけど、その相手の名前も見た目も分からないんです。あ! ただ、その向こうは僕の名前を知っています」
僕は変に動揺してしまい、一人顔が火照る。
「畏まりました。では、お客様のお名前を控えさせてください。そのお客様がいらした際にお伝えしますので」
その店員はにっこりと備え付けの笑顔を振る舞って対応してくれた。そうも完璧に対応されると、余計にこっちが恥ずかしくなる。
「はぁ、ありがとうございます」
「では、お席に案内します」
壁に貼り付けられた大きい窓の見晴らしが良くて、見せの隅っこに構える、重厚な赤茶色の内装とは対照的な薄い肌色の長方形テーブルに案内された。
「料理はお連れの方がいらしてからにしましょうか?」
「そうしてください」
店員は「ごゆっくり」と最後まで恭しい態度でキッチンルームに消えていった。
やることもないから店内を見渡す。
照明の光が薄いから、夜になったらますますひっそりとした空間になるだろう。店内に流れるピアノの音楽が時間感覚を緩ませる。自分の他に客は十人くらいで、一人で珈琲片手に佇んでいるか、二人連れでひそひそ話している。思ったより場違いじゃなさそうだ。
鈴の音が鳴り、店員が入り口へ丁寧な歩きで客を迎え入れる。僕が遠慮なくじろじろ見てるから当然目が合い、その度に心臓がばくつく。そして客は店員に指示された各々のテーブルに腰を下ろし、それを確認して落胆する。この繰り返し。
店の古典的な鳩時計を確認すると、約束の時間は超えていた。果たして楓を見つけた人物は来るのか、それだけが気になってしょうがない。
再び鈴が鳴る。店員が型通り出迎える。
おや、今度の人は若い女性なのに、サングラスをかけ、手に杖を持って、その杖で前方を確認しながら歩いている。そんな人もいるんだなぁ、と漫然と眺めていると、店員は慣れた動作で彼女の腕を支え、彼女はその店員をお供に付けて、細長くて白い杖をカツカツと鳴らしながらこちらに迫ってくる。その目の見えない女性は僕のいるテーブルの前で止まり、店員に礼を言って一歩下がらせた。そして僕のいるテーブルの輪郭を手探りで確認した後、僕に向けてか、ひらひらと手を振った。カブトムシの甲殻のようなサングラスが、沈む黄昏を映して光っている。
「や、久しぶり」
その女性は、僕に話しかけた。
……誰だ?
向こうは僕のことを知っているみたいだが、僕にはそのあてはない。染めているのか分からないが、黒より茶色を多く含む髪の毛がふんわりとしたショートボブヘアにまとまって、それが夕陽に照らされて黄金に輝いている。顔立ちも目元はサングラスで隠されているが、全体として小さく整えられた端正な顔立ちを窺わせる。これでその手に持つ杖が無ければ、渋谷を歩いていれば必ず軟弱な者に声をかけられることだろう。実際、声をかけてくるのは親切で慎ましい者だろうが。
「あれ? いるよね?」
ああ、やっぱり見えていない。このまま黙っているのも忍びないから、何か言葉を紡がなければ。
「あ、はい。えっと、います」
僕、こんなに話下手だったかなぁ。
「笹本だよね?」
「はい、そうです」
呼び捨て? ますます彼女の正体が分からない。しかし、知らぬは一生の恥。恥を忍んで聞きたださねば。
「どうしてそんなに他人行儀なの?」
「えーと、すみません。本当にすみません。あなたが例の連絡者でよろしいんですよね? えーと、その、どちら様でしょうか?」
僕の失礼極まりない質問に彼女は目を丸くした──サングラス越しだが、僕にはそう見えた──かと思うと、楽しそうに笑みをこぼした。
「ふふ、分からないんだ」
そう言いながら彼女は椅子を探し、慎重に座った。フリルのついた白いトップスとストレートのデニムの隙間から、彼女の生白い腹の肉がちらりと見えた。余分な肉の付いていない奇麗な形をしている。当然、彼女僕の視線に気づいていない。
「はい。ごめんなさい」
素直に謝る。すると彼女は小さく笑って、
「私だよ。天坂、天坂穂波。ちゃんとメールにも書いたつもりだったんだけどな」
「天坂!」
思わず声を張り上げてしまった。店内中から怪訝な自然が注がれて、また顔が火照る。天坂は、訳が分からなそうに僕の方を向いている。
「まさか、今知ったの? そっちが言ってきたから、こっちも服装と一緒に答えたんだけど」
そう言う彼女の服装は、おしゃれで可愛らしい女性といった感じだ。
「ごめん、携帯が丁度壊れちゃって」
電源が切れて充電もできない、よりはそっちの方が腑に落ちるだろうと少し脚色する。
「ふぅん、それは災難だったね。こっちも返信が来ないから不安だったよ」
「こっちこそ」
そこまで言うと、僕と天坂は緊張の尾が切れたように笑い合った。
「まぁ、いいよ。こうして会えたんだから」
「そうだね、十年ぶりくらいかな? まさか天坂があのサイトを作ったなんて」
心なしか、僕の声色が華やかだ。
「うん。私はあの日以来しばらくずっと入院してたけど、ずっと楓と笹本のことが頭から離れなくて、お見舞いに来る学校の皆から笹本の話は聞いてたんだけど、楓のことは話題に出なくて。初めは私のことを気遣ってると思ってたけど、退院した後で楓に会いたくて色々探してみても、どうしてか誰に聞いても分からないっていうから、しょうがなくあのサイトを作ってみたんだ」
「入院、そうだな。聞きづらいことだが、その目は……」
「うん。結局あの日以来、私の目は見えないまんま、直らなかった。でも全く見えないわけじゃないよ。凄くぼんやり、近くで凝らして見れば、かろうじて物の形が分かる程度かな。あ、でも光は感じるから、このカフェみたいなところはこの時間帯なら一人でもいけるし、スマホの文字も、設定をしっかりすれば見えるの」
彼女は僕にスマホを見せる。白い背景に黒字の画面という、一切の無駄のないレイアウトだ。
「へぇ、そうなのか。そういえば店員とも顔なじみみたいだったな」
「うん。この店はすごいいいとこ。私みたいな世間から外れた人間を、公平に扱ってくれるんだ」
平等ではなく公平。その言葉の差異に彼女の経験があるのだろう。
「というか、あの日を覚えているのか?」
声の強弱から僕の感情の変化を機敏に感じ取る彼女は、うんと大きく頷いて、少し下げたトーンで語り始める。
天坂再登場。