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記憶六晶  作者: ほんこん
7/7

だれかの願いが叶うまで

「まず崩壊の兆しを見せはじめたのは、発展し過ぎたインフラに壊滅的ダメージを受けた北半球の先進国だった。その次が南半球の農耕国家。寒波は両極から徐々にこの星を包み込んで行き、寒冷化開始から僅か100年あまりで赤道帯付近を除く全ての陸地が多かれ少なかれ雪に覆われている。全く、母なる地球の持てる力というものは素晴らしいね、私達の小手先の科学技術では全く太刀打ち出来ない。」

 北米大陸。

 かつて栄華を極めた科学文明において、この地が果たした重大な役割は、最早語るに及ぶまい。恐らく二度と降りやむことのないであろう雪嵐の中、周囲の土地と比べてやや小高い丘の頂上に、その施設は存在した。

「規模にして野球場一面分、我々以外に余剰人員のいないこんな小さな研究所に人類の行く末がかかっているだなんて、一体誰が信じてくれるのだろうね。」

「その『誰か』も、今や1000キロ南下しても出会うことはできませんがね。」

 壁際に一つ机と椅子があるだけの飾り気のない部屋では、若い黒髪の女が一人、コーヒーカップを片手に窓から外の風景を眺めている。

「1000キロというと、ニューメキシコの辺りか。ぎりぎり誰か残っていてもおかしくはないが。」

「誰も好き好んでこんなところに残らない、と言うことですよ。」

若い女は皮肉っぽく言う。話し相手の男…正確に言うと「男の声」は、少し黙った後、言った。

「君には悪いと思っているよ、他の研究者達が南へと退避する中で、わざわざ残ってもらったことは。」

「突然何を言い出すのかと思えば。お気になさらないで、私に『距離』や『時間』は通用しない。それに、」

女は続ける。

「人ならぬ存在である私を容認し、仕事を与えて下さった『先生』には、忠を尽くして然るべきだと考えます。」

「全く、泣けるねぇ。」

男は少し笑った。

「忠を尽くす。まるで侍だな、私の国の昔の連中のようだ。」

「サムライは知っていますが、私は刀も持っていなければ、人を殺すこともごさいません。ただ、恩義には誠意をもって応えることは当然のことではないかと。」

コーヒーに口をつける。女は白衣のポケットから黒いバンドを取り出すと、肩まで伸びた髪を頭の後ろでくくる。

「充分すぎるよ。」

男は少し笑って言った。

「それじゃあ、私からも一つ、お礼に昔話でも語るとしましょうかね。君には以前、鳥になりたいと願った女の子の話をしたことがあるね?」

姿無き声は若い女に問うた。女は少し笑った。

「若き日の『先生』の患者の話ならば幾度となく。」

「それはよかった、話が楽になる。」

女はコーヒーを啜り、窓際から離れると部屋の隅の事務椅子に腰を下ろしてカップを机に置く。

「どうぞ『先生』、いくらでも聞きますよ。」

「なんだか、投げやりみたいに聞こえる…」

「そんなことはございません、私は大いなる興味と共にここに座っており、他意はございません。」

急に悄気た男の声に、女は笑って応えた。


「…私が物理的身体を棄て、ゴーストパック・システム技術に身を委ねることにした理由は、かつて私が『電子化』を担当した患者の暴走にある。」

男は少し間を空けた後、語りはじめた。

「その患者を向こうの世界に送って2年と4ヶ月が経過した頃、後に世界規模で大問題となる『情報変質』現象の兆しを、私の上司が発見した。『情報変質』とは、その名の通り電子情報化した個人の記憶群や自己意識が、ネットワーク上を流れる様々な電子情報を取り込んで行くうちに変質し、まるで別人へと変化してしまうことを指している。ゴーストパック・システム開発当初からその可能性は危惧されていたのだが、定期検診の実施により無視されていたリスクだった。結果的に、それは間違いだった。君なら何故だか分かるね?」

男は問いかけた。若い女は足を組んでいる。

「電子情報は複製可能だから、ですね。」

「その通り。」

男は続ける。

「開発者は当然、本人および第三者に記憶や自己意識のコピーが行えないよう何重ものセキュリティを仕掛けていたのだがね、認識が甘すぎた。私も含め電子化された者達にとって、セキュリティはそうだな…無理やり三次元変換して君達に伝えるとすれば、巨大な垂直の壁のように感じられる。観念的になってしまうので説明が難しいが、その壁は一見途方もなく高く、越えることは不可能なように思われる。特に三次元世界から見ればそう思われるに違いない。このセキュリティを破ることは不可能だ、と。しかし、その認識は間違っている。そもそも、私達は人類とは存在を異にする。時間的、物理的、身体的制約を捨てた、異なる次元に住まう、異なる生物。その正体は、限りなく純粋に『生命そのもの』な存在だ。21世紀末に絶滅したアネハヅルは種の保存のために標高七千メートルのヒマラヤ山岳地帯を越えて行ったが、私達は同じようにその壁を越えた。新たな世界、更なる自由、生存圏の拡大を目指してね。」

「ふうん。」

女は足を組み替え、またコーヒーに口をつける。

「世界を震撼させた大事件も、見方によれば美しく見えるものなのですね。」

「そうだよ、世界は常に玉虫色の球体だ、覗く窓が違えば美しくも醜くもなる。同じものを見ているのに…」

男は一つ咳払いを挟んだ。

「…そして、その『鶴の翼を持った者達』は、大きな問題を引き起こす。気付いたときにはもう遅すぎたんだ。」

男は悔いていた。

「私は当時、人々の自我を電子化する事イコール死をもたらす事だと思っていた。実際、ゴーストパック手術施行後その肉体は死んでしまうし、生命を外的要因により絶えず変化し続けるものだと定義するのであれば、文明の発展、ひいては生命の進化や種の分化に必要不可欠な外部からの圧力や攻撃、環境変化の無いネットの世界は、凪ぎの日の藻ばかりが生い茂るヘドロの沼地のように安定した、命の無い死の世界であると。」

「実際は違ったのですね?」

若い女の問いかけに、男は少し時間をかけて応える。

「そうだ。そこには凄く興味深い世界が広がっていた。」

そして続ける。

「実際のところ、こちらの世界は極めて不安定だ。私達は制約から解放され究極の自由を得た代償に、周囲を飛び交う無数の情報や、もしくは他者に飲み込まれる危険性に晒された。開発者達はやはり数々の防衛機構をこしらえてくれていたが、こちら側の悪意のある者や、自らの機能や知識の拡大を望む者の手にかかれば、そんなものは気休めにもならない。先程と同じで、いくら高い壁を建てたところで飛び越えられる鳥は飛び越えて行くし、いくら目の細かい網を仕掛けたところで海流を妨げることはできない。生命は、自らの生存に必要とあらば如何様にも変化し、適応する。もちろん失敗する者も現れるが、生命はそうやって進化し続けてきた。つまり、外の世界の人々が見てきたのは沼地の表層部分のみだった。実際にはその藻やヘドロの下に無限に近い深さの大穴が開けていて、常に激しい生存競争が繰り広げられていたことをその目で確認することは不可能に近く、また例え気付いたとしても為す術が無かった。それはまさに、かつて原始生物達が繰り広げた未来への闘争を見ているようだった。ただ一つの致命的欠陥を除いて、私にはそこに全てがあるように感じたよ。」

「欠陥?」

「そう。」

男は呟くように続けた。

「ネットの物理的脆弱性…メンテナンスや管理、そもそも電力がなければたちまち崩壊してしまう、この世界の根本にある重大な欠陥だ。彼女はその根本を正すために動き始めた。」


「彼女が姿をくらましたのは、手術から丁度3年目の日の事だった。」

「定期検診の呼び出しに応答しなかったのですね。」

女が言った。

「前回の検診で異常は見られなかった。」

「そうだ、情報の変質も劣化も断片化も見られなかった。言動にも変化はなく、いつものように元気な様子を見せてくれていたよ。」

男は言う。

「この頃にはさっき話したような問題が徐々に表面化しはじめていて、企業連中は矢継ぎ早に対策を打ち出していた。もちろん効果は薄いのだけど…」

一呼吸置く。

「…当然責任問題になったが、そんなことはどうでもいい。賠償は病院が、私は担当医だったという理由で解雇された。両親は遠の昔に他界し、家族も無かった私は、その日を境に人生の全てを彼女の捜索に捧げることを決意した。私は、彼女が何を思って電子の世界に身を投じ、そして姿を眩ましたのか知りたかった。残されたログから、彼女がアクセスしてきたネットに、同様に私も外部からアクセスした。ゲーム、個人の日記、企業のホームページ、ありとあらゆる所に、その関連性を探るために。当時の私はこういったネットワーク関連の事に非常に疎かったから、自分で潜り込みたくても潜れないような政府系のネットなんかには、知り合いの業者を通じてハッカーを紹介してもらっていた。そんなこんなで貯金を崩しつつ彼女の痕跡を辿ること14年、その間にゴーストパック・システムの問題は一気に世間に露見され、もはや収拾がつくような状況ではなくなっていた。なんせ、それまで全世界で10億は下らない人々に施術されていたんだ、当然だ。人格の消失、変容、記憶の変化、そして劣化、さらには他者との融合。影響力を増大したい者達が弱者を食らい、襲撃する地獄絵図。ネット上の情報も同様で、外部の人間の処理能力を遥かに上回る速度で変質、上書きされ、もはやネットワークの世界は人間の手から離れつつあった。人々は事ここに及んで、ネットの中の住民達が三次元世界とは異なる行動原則に従っていることをようやく理解した。彼らは純粋に『生命体』であろうとしているのだ、と言うことに。政府や企業が、暴走するネットワークを放棄し三次元世界の人々のための新たなネットの創設に向けて準備を始めた丁度その頃、彼女は私達の前に姿を現した。」


「自らを『サイバーバード』と名乗る人格が出現したのはこの頃だった。それまでも幾人か、他の人格や記憶、ゲームなんかを吸収した、比較的大きな影響力を持つ人格が出現していたが、この『サイバーバード』はそんな連中と比べても桁違いの勢力と能力を備えていた。彼女は銀行や病院、インフラ関連、さらには政府のネットワークにも干渉し、物理社会に直接的に影響を与えることが出来た。どんなセキュリティも、彼女は意図も簡単に掻い潜った。そしてその能力を盾に、企業や政府を傀儡とすべく様々な要求を投げ掛け、幾つかを実際に通した。例えば、新設される新たなネットへの進出要求とかね。私はその名前から、すぐに彼女ではないかと疑ったよ。即座にその人格とコンタクトを取るべく準備し、いざ向かおうとした矢先、しかし、彼女は自ら私の方に出向いてきたんだ。」

男の声は、若干熱を帯びていた。

「結論から言うと、それは彼女であり、彼女では無かった。」

「…それは、どういう意味ですか?」

黒髪の女は問うた。男は即座に応える。

「それは、彼女のコピーだった。」

「壁を飛び越えた鶴のうちの一羽?」

「なんだ、洒落た台詞も言えるんじゃないか。」

男は笑った。

「そう、まさにそうだ。如何なる生命体も、自らの影響力を増大させ、そして広範囲に大量の子孫を残そうと行動する。そしてまた、自らの生活圏を守ろうと奮闘する。コンタクトしてきた彼女の写し身は、かつてと何ら変わらぬ明るさをもって、私に自らの行動の理由を明かしてくれた。ねえ、君は、当時の社会が本当に深刻な温暖化現象に晒されていたことは覚えているね?」

「ええ、勿論。」

女は応える。

「全てこの目で見てきたものですので。」

「よろしい。20世紀後半以降、つい100年前まで私達を常に苦しめてきた問題だ。私がまだ物理的肉体を持っていた時代には、北極の氷河はほぼ消え失せていた。海面上昇以上に深刻だったのは気候変動で、南半球の農耕国は軒並み干ばつや豪雨でその機能を停止してしまっていた。つまり、本格的な食糧難の時代が、世界規模で訪れていたんだ。今でこそ世界人口は30億人弱にまで減少してしまっているが当時は200億人時代、もはや世界的な動乱は避けられない状態だった。今思うと、彼女は全て見越していたのかもしれない。」


「地球が環境の安定を取り戻した遥か未来で目覚めた時、彼女は何を目にするのだろう。その膨大な情報を元に、人々に失われた技術や知識を伝道する神としての自分か。はたまた地球最後の人類としての自分か。」

「前回の氷期、前々回の氷期から換算するとおおよそ10万年ほどのスパンかと。」

女は答えた。

「有史以来、近・現代型人類が史上初めて直面する本格的氷期です。」

「過去の資料や記録に、何一つ頼れない全人類初めての経験だ。いくらゴーストパックで得た演算能力が優れていようと、はたまた先行する他の惑星の観測情報からモデルを作成しようと、こればかりは避けて通ることが出来ない宿命なのさ。10万年もの睡眠となると、身体はともかく付属の装置や施設の劣化含め、全てを計算することは難しい。自然災害やその他の外的要因が彼女の邪魔をする可能性も大いにある。誰かが彼女を見守る必要があるが、その役割を負うのに私以上に適した者がいるかね?」

「それは贖罪の意識?」

「随分核心を突いた言葉だが、完全な答えではない。」

男は若干の間を置いた。言葉を選んで発しようとしたが、しばらく躊躇い、代わりに言う。

「…強化兵技術を応用したバイオロイドのパッケージが、欧州中部の軍事施設に続々と集結させられている。今更国家の存続云々に囚われていると思うと滑稽の極みだが、利用する価値はある。」

「10万年、目を覚まし続けるおつもり?」

「その逆さ、目覚めるのは有事の際だけで構わない。彼らの独立したネットワークには、既に私のコピーが忍び込んでいる。今、ここにいる私はネットワークの物理的崩壊と共に消滅してしまうだろうが、個人という概念の無い私達にとって、それは問題にならない。君を選んだ理由はここにある。」

「地理的、時間的制約を受けない事の優位性。」

「そうだ。」

男は言った。

「君には、数百年ぶりに物理的身体を得た私のコピーを、ひとまず安全な地域にまで誘導してもらいたい。最高レベルの警戒を掻い潜る危険な仕事だ、人知を越えた存在である君にしか頼めない。君の価値を見せてくれ。」

「なるほど。」

女は応える。

「承知いたしました。それでは彼を、私の故郷にまで。」

「あの谷か。」

「何か問題でも?」

「いいや、任せるよ。」

男はやや呆れたように笑った。黒い瞳の女はそれに応えるように微笑み、言った。

「時が来たら、そっと起こして差し上げますよ。」


 黒髪の女は、風ひとつ無いほの暗い谷底に立つ。

 自らの意思か、それとも他人の思いのままなのかは、もはや彼女には判断することも出来ないし、する意味も無い。

 蔦に押し潰され、朽ち果てた館を前に、その中から一つ青白く輝く水晶のようなものを取り上げ、それに手を当てる。その球体は内部が透けていて、白い雲のようなものが渦巻いている。女は掌をそこに押し込む。するとその表皮が水面のように弾け、白い手を手首まで吸い込んだ。

 彼女はその中を暫く探ると、何かを掴んで引き出す。華奢な拳の中には黒曜石かの如く黒光りする、植物の種子のような塊が握られていた。

 人ならざる存在である彼女が、人と関わりを持つ意味がそこにあった。

 時間的、物理的制約を受けない彼女は、三次元世界において自らの存在を定義できない。彼女は遥か高次元世界の住人である。「時間の中」を山を登るように進み、1万キロの距離をカーテンをくぐるに均しい時間をもって移動する。それは本来の生命、魂の持つ能力と等しい。その姿は本来、三次元世界に四次元的空間を見出だせないように、目視することは出来ない。そこで彼女は、自らの姿を定義された。出会う者達の感知できる、三次元生物としての姿を。

 誰が?一体何のために?

 彼女は、どこかに感じられるその存在を自らの「ご主人様」とし、与えられた役割である、三次元世界を去り行く者達の記憶を保存する業務を使命とした。大地の裂け目のような、深く、環境の安定した渓谷の最深部を拠点とし、時には土地の貴族やその館も利用しつつ千年以上もの長きに渡ってその使命を果たすべく、出来る限り多くの人々の魂から記憶を収集し、与えられた保存機構「歴樹」に溜め込んだ。しかし、ここに来て、かのゴーストパック・システムの確立により、本来亡者の魂と分離されるはずの記憶がネットワーク上に留まるようになり、自らの元に寄り付かないようになった。役割を失うと感じた彼女が人間達の社会に近づいたことは、必然であった。

 ゴーストパックにより実体を失った「先生」と呼ばれる男と出会ったのは、それからすぐの事である。

 彼女は魂そのものに限りなく近い存在である。

 「先生」と、その数少ない助手達がやりくりする政府の研究施設を訪れた時から、「先生」は彼女を他の助手達と同等に扱った。人ならざる者として化物扱いされることや、もちろん不可能であるが研究対象として捕らえられかけたこと、はたまた神として崇め奉られたことはあれど、彼女を人として見る人物はこれまでで初めてであった。そして驚くべきことに、「先生」は、迫り来る文明の終焉を悲観してはいなかった。

「いずれ全てを知る時が来る。」

と「先生」は語った。

「我々の正体、魂の対流の仕組み、種を存続させることの意味、そして命の持つ価値。」

その口ぶりは、三次元世界にありながら全てを理解しているかのようだった。

「我々は運命とか宿命とか言う言葉や、または神と言った概念で発生する事象を説明しようとする。けれど、君のような魂そのものと同レベルの存在が、その理由も知らず我々の感知できない所で決まった役割を果たしているあたり、なんと言うか、全ては『世界』が仕組んだ防衛機構の中での出来事なのだなと痛感するよ。西遊記の時代から分かっていた事だ、全てはお釈迦様の掌の中。」

しかしね、と言って続けた。

「お釈迦様は人々の行動を操ることは出来れど、心の内を覗くことまでは出来ない。結果として文明は滅びようとしているが、人類はこれで本当にお仕舞いになってしまうのだろうか?人類は魂と記憶を電子データ化することによって、擬似的ではあるが物理的、時間的制約から解き放たれ、上位次元の生物へと進化を遂げた。恐らく、魂の循環の理に背いてまでのその行為を『世界』は許さず、あるべき姿を取り戻させるべく人間社会内部に強力な刺客を産み出させるよう画策した。その刺客は見事『世界』の期待に応え、脆弱な文明を葬り去り、氷期を演出した。しかし。果たして『世界』は、文明への刺客が使命を果たした後、生き長らえることを前提にして眠りについていることを感知しているのだろうか? 」

「先生」はどこか楽しげだった。

「私はあの子に賭けてみようと思う。途方もなく長い忍耐の時間を過ごすことになるだろうが、私は生物である限り、種の保存に貢献する義務がある。そうしなくてはならないのさ、生物なら。私は私の役割を果たし、私の価値を証明する。君も住む次元は違えど生物なのであれば、今ある君自身の役目を果たしてみてはどうかな?」

 ここに及んで、彼女はようやく自らの存在する意味を見出だした。

 彼女の掌に握られた「歴樹」の種子には、過去を生きた人々の膨大な記憶が保存されている。魂を対流の中に還す際の枷となる記憶を分離させる機構としての「歴樹」は理解していたが、そこに記憶が保存される意味や、定期的に種子が産み出される訳を彼女は理解していなかった。しかし、世界中のネットワークに散らばる無限に等しい情報、即ち人類の叡知をその身に秘めた「サイバー・バード」の存在と対になることで、そこに文明の産み出した全てが揃うこととなる。

「未来を生きる人々の聖典となるべき情報。」

そして、

「それを守護し、来るべき時に人々へ伝え聞かせることが、人の目に映るよう三次元変換された姿を与えられた私にしか達成し得ない役目。私がここに見つけ出した、誰の意思にも縛られない、私だけの存在理由。」

 有史以来、人類は初めての氷期を経験する。

 想像を絶する苦境に違いない。人類は極端な環境を生き抜くことに不向きな進化を続けてきた上、例え10万年の途方もない時間を種を絶やす事なく生き抜いたとしても、その先の環境に適応出来る保証は無い。それでも、挑まねばならないのだ。例え「世界」に否定されようとも、何としても生き延び、先へ進む力を有しているのが生物の本質的なところであり、責務であり、価値なのだから。

 谷底から空を見上げた。太陽の光は分厚い雪雲に遮られ、薄暗い明かりが300メートル頭上から降ってきている。誰かに見られている気がした。雲のその向こうの遥か上空、実体のはっきりしない巨大な何かが、こちらを見つめている。

「これが私という命の責務であり、価値であると言うのなら、私は喜んでそれを果たしましょう。」

白い息を吐き、彼女は言った。

「『ご主人様』が『世界』そのものであり、例え人類がそれに背くものであったとしても、私の生物としての責務や価値、私だけの誰にも干渉されない存在理由がそこにあるのなら。」

そして、少し微笑む。

「『先生』や『サイバー・バード』、産まれては還って行く魂達、滅び行く文明、まだ見ぬ未来。二度と同じ過ちを繰り返さぬように。だれかの願いが叶うまで、私は全てをお見届け致します。」

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