草迷宮
北方。
絶えず地吹雪の吹き荒れる、極寒の山岳地帯。
天を常に灰色の重苦しい雪雲が支配し、降っては舞い上がる石のように硬い氷の粒が、万物何人たる者の侵入をも許さない絶界の地のその一角に、一転深く、長く切り立つ大地の傷跡のような暗黒の峡谷があった。
場所によっては300メートル以上も切れ込んでいるこの峡谷はほの暗く、また、地上とは相反して物音一つとしてない。周囲を包み込むのは不可思議な静寂と、そして、僅かばかりの生命の気配。岩間を流れているはずの小川は凍りつき、しかし周囲には大量の蔦類が根を張り、崖の中腹以下全ての岩と言う岩、段差と言う段差をことごとく覆い尽くすという、不思議で不気味な光景が広がっていた。
その幽玄の霊谷の最深部。頭上を吹き抜ける吹雪が幻想的な響きを成す、草根生い茂る岩棚のその下に、大きな屋敷の面影が見えた。中世の欧州を髣髴とさせるバロック様式の建築物なのだが、その全容は壁を覆いつくす濃緑の蔦の下に隠れており、確かめることが出来ない。かつてこの地方一帯を治めていた貴族の館の成れの果てである、との事だが、その当時の栄華は見る影も無く、今では時折谷を訪れる薬草摘みが、しばらくの休息所として利用するのみである。この手の屋敷や古城に付き物の根も葉もない怪談話は不思議と聞かれず、地元の人々からは一種の親しみを持って「草迷宮」と呼ばれているのであった。
その日は朝方こそ素晴らしく晴れ上がり、この地では年に数回しか眼にかけることの出来ない青空までその姿を現していたのだが、一転、午後になると午前中の反動宜しく凄まじい吹雪が山脈を襲った。時間とともに吹雪は強まる一方で、悪い事にそれに地吹雪まで加わり、周囲一帯は白一色の無の世界へと化した。
この日、若い男が一人、麓の村から山草を摘みに峡谷を訪れていた。早朝、天候が穏やかなうちに山を登りここに到達したはいいが、一連の天候の急変により、谷から出られなくなってしまっていたのだ。男は日が暮れることを恐れていた。夜になれば山風が収まり、吹雪が止む。すると空気の対流が止まり、急激に気温が下がるのだ。上界の凄まじい気象など何処、静寂また暗黒の谷底で一しきりの用事を済ませた男は、周囲がまだ僅かに明るいうちに凍てついた沢に沿って歩き、程なく、断崖の幾重にも覆いかぶさる蔦の中に、噂の「草迷宮」の姿を認め、今夜の寝座とすることを決めた。
少し前に他の村人が訪れたのだろう、重厚な大扉に纏わり付いているはずの蔦が不自然に切り払われ、下層に隠れていた豪奢な装飾が露わになっていた。男は顔の位置にある、その獅子の顔を模した取っ手を引き、屋敷に足を踏み入れる。と、時を同じくして、思わず己の目を疑い、絶句して立ち尽くすこととなった。
フレスコ画が施された高天井に、煌々と輝く大型のシャンデリア。床には、一点の汚れも認めることすら出来ない、紅のカーペット。
広い玄関には、仄かな金木犀の香りが漂っていた。そこから一直線に続く、一五メートル程もある長い廊下の突き当たりでは、身長の二倍はある、巨大な柱時計が静かに時を刻んでいる。男は仰天していた。「草迷宮」に人が住んでいるなどという話は聞いたことも無かった。ましてや、数百年間も空き家だったこの屋敷である。改装ともなれば、計らずとも大きな噂になるに違いない。なのにも拘らず、その様な類の話など風の噂にも聞いたことはなかった。左右を見渡すと、左手にはどっしりとした重厚なつくりの木製の机が佇み、右手には大判の絵画――どこかの屋敷を描いた、暗く大きな油絵が飾られていた。男は魅せられたかのように、その館の絵画を凝視した。高くそびえる塔のような分館、濃い灰色の外壁面、豪華で流動的な形状の屋根。そのすぐ背後には、額縁に入りきらない程の断崖絶壁が迫っている。はて、どこかで見たことがある風景だな、と男が訝しがり、思念に暮れているその一時、不確かな憶測が確信に変わるその僅かに前に、
「ようこそお越しくださいました。」
一声、思いもよらぬ人の声が男を飛び上がらせ、記憶の追走をやめさせた。
頭頂から足先まで、白と黒のモノトーンで統一したメイドであった。年齢は20代半ば程、細身、黒髪は肩より下まで延びている。切れ長の眼は優しげだが、瞳に光が無く、一見の笑顔の下にある本心は、全く読み取る事ができない。阿呆のように開口し、驚きの余り目を点にする男に向い、メイドは微笑みかけた。
「夕食の準備が整っておりますので、ご案内いたします。」
有無を言わせぬままに語るメイドをしばし止め、男は、一番に無断の侵入を侘びた。しかし、メイドは微笑むだけで、否定するかのように首を横に振るのみである。
「いえ、その様な事はございません。人通りの少ない地でございますので、客人は丁重におもてなしせねばなりませぬゆえ。」
静かな口調だった。男は次に、ここは宿か、と尋ねた。メイドは三たび微笑み、本業ではないが、貴方様が望めばそうもなり得ます、と応えた。薬草摘みの男はここに至った経緯を説明し、厚かましくも、もし良ければ今晩ここに泊めてはくれないだろうか、と尋ねた。と言っても、この世のものとは思えないほど豪華な造りの屋敷である。一泊するだけでどれ程の金が必要なのか、男には想像する事すら出来なかった。実は、と男は、自分が全くと言っていいほどの一文無しなのだ、とメイドに告白した。が、メイドは相変わらず鉄仮面の微笑みのまま、その様なものは一切必要ない、と思いもよらぬ事を告げた。
「『ご主人様』のご意向によりまして、客人からは一切宿代は頂きませぬ故、ご安心くださいませ。」
そう言うと、メイドは小さくお辞儀をし、それではこちらへ、と言い残し、ゆっくりと紅のカーペットを、奥の暗がりへと歩んでいった。
通された個室は、表と変わらずやはり豪華なものであった。濃い紅を基とした重厚な色調、やや低いが不便の無い高さの天井には小ぶりなシャンデリアが下がっている。蔦の葉が外を覆い、風景を全く望めない窓際には、大人が三人寝てもまだ余るような大きなベッドが品のいい脇机とともに配置されている。落ち着いた柄のカーペット。男は今一度、本当に宿代は必要ないのか、とメイドに問うた。が、やはりメイドは首を一、二度横に振るだけである。しぶしぶ男が山草の入った籠を脇机に置くのを見て、メイドは徐に口を開いた。
「では、食堂にご案内いたします。」
案内された食堂も、他の部屋や廊下同様、やはり見事としか言いようの無い荘厳な設計であった。高天井に燈るシャンデリアの優しい輝き、巨大という形容がまさしく当てはまる重厚なテーブル。卓上には、男が生まれてこの方見たことも無い豪華な夕食が並べられている。呆気に取られ放しの男は、今度は何故ここまでして一文無しの自分をもてなすのか、と尋ねた。黒ずくめのメイドはただ優しい声で、それが「ご主人様」の御心でございます故、とのみ答え、そして男から分厚い山羊皮の上着を受取った。
このような場は初めての男がたどたどしく夕食をとる間、メイドは延々と部屋の隅で待ち続けた。出された料理はどれも素晴らしく、美味なものばかりであったが、慣れない男の食事は遅々として進まず、ようやく最後の皿を空にした頃には、廊下の柱時計は7時を告げる鐘を鳴らし終えていた。
男が食し終えるのを確認したメイドは、さくさくと後片付けを始めた。メイドは、
「御口に合いましたでしょうか。」
と問いかけ、男が微笑みと同時に、このように美味しい料理は初めてだ、と応えると、満面の笑みで「良かった。」とだけ呟いて、奥の部屋へと消えた。
しばしの時を置き、メイドがまた戻ってくるまで男はそこで待っていた。戻ってきたメイドは男の姿を認めるや、驚きの表情を浮かべた後、頭を下げた。
「申しわけございません。お部屋に戻られたとばかり…」
男はそれを制した。そして自分は貴方を待っていたのだ、と告げ、そして元より胸に秘めていた疑問、貴方と、そして「ご主人様」と言われる方は、「草迷宮」で一体どのような仕事をしているのか、と言う事を問うた。
「お望みならば、ご覧にいれましょうか?」
男は言葉を発する事無く頷いた。
「『蔦の間』と申しますその部屋は、この館が建造された一七世紀中頃からございます、広大なホールでありまして…」
その落ち着いた声は、周りを包む虚無の闇に吸い込まれていく。メイドは大造りなカンテラを手に、男を館の奥へと案内する。長い廊下に光は無く、先ほどと打って変わって肌寒い。色の白いメイドの顔は、黄色く輝くカンテラの光を受け止め、しかし不思議とその暖かさを反映せず、蝋人形のように蒼白である。無音。二人の足音のみが虚ろに響く中、メイドはふと足を止め、カンテラを高く掲げて廊下の壁面を照らした。
「…当時は主に、ダンスホールとして使われておりました。現在でも、僅かながらではございますが、その頃の面影をご覧になることが出来ます。」
カンテラの光の先には、一枚の絵画が飾られていた。広いホールの中で、正装した多くの男女が社交の集いを楽しんでいる絵だった。図中にある人々の豪奢な姿を見る限り、彼、彼女等は近隣の貴族達なのであろう。
「当家がこの山岳地域の統治を政府に奉還して、幾百年の月日が流れました。時代の流れと共に、この『蔦の間』は人々の記憶から忘れ去られて行きました。そこで、当家直系の血統に当たります我が『ご主人様』は、この部屋や屋敷を商いに使うよう、私に任せてくださったのでございます。」
それでは、こちらへ。メイドは優しく微笑むと、その絵の僅かに前方にある大扉――5メートル以上ある大きなものであったが、男はその存在に全く気付かなかった――を盛大にきしませながら、しかし至って軽く、手前に引いて見せた。男は驚きの表情を浮かべたまま、恐る恐る中を覗く。そして次の瞬間、驚きは茫然へと形を変えた。
部屋の中心には、巨大な一本の木が、その根を下ろしていた。
時に男は、腰を抜かしかけていた。塔のように果ての無い天井に、その幹はどこまでも続いている。上界からは幾十、幾百ともつかない蔦が下り、壁、床と見境無く空間を埋め尽くしている。細い蔦の先には、まるで水晶球のような、自ら青白く輝く球体が付着し、周囲の闇を仄かに照らし上げていた。その数は一つや二つではない。はるか上方、延々と続く天井に向って、大小含めて数千は下らない無数の球体が輝き、煌々と、荘厳の大樹の存在を知らしめていた。
「…そこで私は、人々の記憶を預かる仕事をしよう、と考えたのであります。」
メイドは静かに、その口を開いた。
「ここに浮かんでおりますのは、今日までにお預かりしたお客様の、記憶群でございます。中央の大樹は『歴樹』と呼ばれる種類の木の大木で、樹齢こそ150年と若いものですが、恐らく、この世界に残る中では最大のものではないかと思われます。」
その存在たるや、絶対的、しかし同時に儚く、触れる事すら躊躇われる。
「お客様は様々な記憶を残して行かれます。快楽の記憶、悲哀の記憶、歓喜の記憶、憤怒の記憶…それぞれの記憶は『記憶晶』として、ご覧の通り水晶の形を成し、『歴樹』の枝に繋がれる事で保存され、永久に輝き続けるのでございます。」
膨大な記憶晶から、何かよく分からない力――威圧感にも似た何かが発せられている。男は思わず後ずさりした。それを見たメイドは例のごとく小さく笑みを浮かべると、
「貴方様にも、置いて行かれた過去達の救いを求める声が聴こえるのですね。」
と言って、静かに男の手を取った。メイドの掌は、思いのほか暖かであった。無音、静寂。しかし何者かの囁き声が聞こえるような気がする。その声無き声は、一人、二人のものではない。それこそ数百、数千、数万の人々の囁き合う声を、男は明らかに感じていたが、実際その周囲は極めて静かなままであった。
男はふと、何故このような仕事を選んだのか、とメイドに問うた。人々の記憶を預り、一体何をしようというのだ、と。メイドは振り返り、言った。
「何をしよう、とは考えておりません。」
ただ、と続ける。
「記憶、と言う物は、時に人々を過去に縛り付けます。それはどのような類の記憶でも、同じことでございます。記憶とは、一種の『足枷』であります。人々の行動を限定し、可能性を亡き物にしてしまう事も多々ございましょう。我が『ご主人様』、そして僅かながらではございますが私は、そのような『足枷』に苦しむ方々を解放するお手伝いをさせて頂いているのです。それが商いに出来るのならば、これ以上の幸福はございませんから。」
光源、ただ華麗、また悲壮に輝く。大樹は重々と大理石の床に根を下ろし、頭上幾十メートルへとその枝先を伸ばし、蔦を垂らす。数千の『記憶晶』は幽玄の輝きを放ち、塔の頂上までを煌々と照らしていた。
「これは、今宵の記念でございます。」
メイドがぽつりと呟き、取っていた男の手に、なにやら大きな粒を持たせた。クルミ大の、何かの種のような、つるりとした手触りの、重く、硬いもの。
「『齢樹』の種でございます。寒さの厳しいこの地方では、このように屋内でないとなかなか芽生えませんが…是非、お持ちくださいませ。」
そして両手を体の前で重ね、深々と頭を下げ、
「またいつでもお越しくださいませ、お待ちしております。それと、」
漆黒のメイドの瞳に、一瞬、光が宿ったように見えた。
「…貴方様に、永久の幸福があらんことを。」
―――暗転。
気が付くと、男は館の玄関で倒れていた。
記憶を整理する。意識が急激に闇に落ちた所までは覚えていたが、それ以降の記憶が全く無い。男は起き上がると、周囲を見回し、目に飛び込んできた光景に絶句した。
廃墟であった。床、壁、右手の棚と問わずに埃が積もり、シャンデリアには蜘蛛の巣が張り付いている。特に床のカーペットは至るところに虫食いの穴が開き、くすんだ茶色へと変色してしまっていた。
男は周囲を見渡した。天井には大穴が開き、そこから白い光が差し込んでいる。その光の先に、絵画が見えた。大きな額縁に納められたその絵の表面は部分的にはがれていたが、全体像は見紛う事無く見て取れた。周囲を大量の蔦で覆われた、大きな館。流動的な屋根、塔のように聳え立つ分館。その姿を見て、間違いなく「草迷宮」を描いたものだ、と思い当たり、男は確信を得るに至った。
と、その時、廊下の奥で柱時計が鳴った。
15メートルほどの暗い廊下を歩む。柱時計もやはり汚れ、埃で汚れていた。時刻は、9時丁度。差し込む光を見る限り、峡谷はとっくに朝を迎えているのだろう。もう一度時計に目をやる。よく見ると、中の振り子が動いていなかった。男は目を丸くした。更によく見ると、時計の内部は赤茶色に錆び付き、動かなくなっているではないか。
男は急に、この場にいることに恐怖を覚えた。
男は館を飛び出した。峡谷は薄暗く、耳が痛くなるような静寂に包まれていた。大量の蔦が根を張っていた。男は凍りついた小川に沿って谷間を走った。川沿いを下り、谷の端へと走り、走り、走り続けた。外気は身を切るような冷たさであったが、構う事無く走った。と、複雑に入り組んだ蔦に足が引っかかり、転んだ。その時、男の山羊皮の上着から何かが飛び出し、氷上に転がった。昨夜――かどうかは確信がもてなかったが――あの黒髪のメイドに渡された、「歴樹」の種であった。黒光りするそれをじっと見つめた男は、迷った挙句それを拾い上げ、また上着のポケットに納めた。そうすると不思議と、自身の中に沸き上がっていた得体の知れない恐怖心は薄らいで行き、きりきりと身を叩いていた心臓の鼓動も、不思議なほど自然に収まってゆくのだった。
薬草摘みの男は幽谷の底を一人、凍る川に沿って下る。




