サイバー・バード
「私ね、やっぱり鳥になりたいの。鳥になってね、私、空を飛び回ってみたいの。ねえ先生、『あっちの世界』に行ったら、私は自由になれるのよね?」
ベッドに腰掛ける患者服の少女が興奮気味に話すのを、白衣の男はただ静かに聞いていた。
時刻は深夜、零時を回った大病院のとある病室。長い黒髪の少女の弱々しい体には、幾本ものコードやチューブが繋がれている。ベッドの両脇に立つ大型の機械類や、数多の点滴、一定の周期で変形するPC画面上の奇妙な幾何学模様などがただならぬ物々しさを醸し出す一方、少女が微笑み座するその足元には、大きな花束やお菓子類、歳相応のぬいぐるみやゲーム機等が並べられており、僅かばかりの明るさを演出している。「先生」と呼ばれた白衣の痩せた男はじっと少女を見つめ、ややあってゆっくりと口を開いた。
「鎮痛剤が効いてきたみたいだね。気分はどう?」
「すごく良くなったわ。ねえ、それより先生、『あっちの世界』ってどんなところ?見たことはあるの?」
いまだ元気な少女は丸い目を輝かせて問う。「先生」は苦笑し、首を横に振った。
「いや、僕は見たこと無いね。ただ限りない『自由』と、素晴らしい『光の平野』が広がっている、と聞いたよ。」
「それ、前にも聞いたことあるわ。」
少女は不満げに眉を吊って言い、「先生」は苦笑して続けた。
「そうだったかな。まあ、僕はそっちの方面にはあまり強くはないから、よく分からないな。でも聞くところによると、君と同じように体が不自由『だった』子供達がたくさん暮らしているみたいだし、寂しくは無いと思うよ。」
「苛められないかしら?」
「それは、」
急に心配そうな表情になった少女を、「先生」はまた笑う。
「それは無いよ。君みたいな可愛い子に意地悪をするなんて、どこの田舎のガキ大将だってあり得ないさ。」
「そう思う?ならいいけど。」
少女はまだ不安げに呟くと、一変、にいっ、と無邪気な笑みを弾けさせた。
「先生がそう言うのなら、信じてあげてもいいわ。」
人間の「自我」と「記憶」を電子化し、インターネット回線を利用して半永久的な「延命」を可能にする。70年代~90年代初頭に流行したSF映画の理論が技術的に確立されたのは、つい五、六年前のことだった。
アメリカの某大手IT企業が、世界各国の医療機関と協力し、42年の歳月の末開発に成功した「ゴーストパック・システム」が、当時、人間の定義の根底を揺るがす一大事件として全世界に向けて発表され、あのクローン羊の一件と同様に数々の論争を巻き起こす種となった事は、記憶に新しい。この「ゴーストパック・システム」とは、端的に説明すると、患者の脳に接続された電極から患者「自我」を形成する「自己意識」と「記憶」を電気信号として抽出し、数百テラもの容量を誇る巨大な「記憶箱メモリー」に保存するという技術である。本来は、生命の保証が出来ないリスキーな手術――例えば大型脳腫瘍の摘出手術がそれに当たる――の間に、本人の「自我」の安全を一時的に確保し、万一身体が深刻なダメージを受け再生不能となった場合、未来の再生医療の発達による身体の再生に希望を託せるようにするため、と言う名目で開発されたものなのだが、三年ほど前より、もはや救いようの無い末期患者が永久的に住まう「擬似天国」としての転用が進み、その結果、現在までに三〇〇人以上の患者達が、世界中に張り巡らされたインターネット回線の中で「第二の人生」を生きて行くことを選んでいた。技術的な安全性は極めて高く、失敗例は今のところ報告されていない。法律は未だ追いついてはいないが、事実、その世界に「人格」即ち「人権」が存在している限り、このシステムが晴れて一般化されるのも時間の問題だと思われていた…今年の春、ある医師が、一つの疑問を提するまでは。
「『自我』を包む『皮』を失った人間は、果たして『自分』を『自分』だと認識できるのだろうか?」
「一人の人間を構成するために必要なものは、あまりにも多い。」
その医師は言った。
「自分が自分である、と言う自覚は極めて不確実なもので、あくまで他人の目で認識され、告知され、そして間接的に認識した『疑似体験』にしか過ぎない。考えてみてごらん。手も無く足も無く、ただ数列で感じる事が出来るだけの『光の平野』を漂う君は、『さて、自分は何者なんだろう?』と考えずにはいられるかい?または、波打つ大海原のような情報の海の中で、自分を包む『皮』を失った君は、中身である『自分』を失わずにはいられるかい?いや、きっと中身の『自分』は溶け出してしまうだろう。僕はそっちの方面にはあまり強くは無いけど、ふと、そう思ったんだ。」
「うーん…よく分かんないや。」
少女は小さく唸ると、か細い腕を組んで言った。
「でもね、今までのつまんない世界からは飛び出していけるんでしょ?なら、私はそれで充分よ。」
「だけど、恐ろしい事だとは思わないかい?」
「何が?」
「永遠に『生きる』ことが、だよ。」
「先生」は少女に言う。
「『世界』の中で永遠に生きることは、恐ろしくはないかい?知ってる人も知らない人も、いずれは皆死んでしまう。まあ、それは病院暮らしの君が一番よく分かっているだろうけど…そうして時が経ち、気が付けば君は一人だ。その時、君はどうする?自分の存在を認めてくれる他人もいない『光の平野』で、一人ぼっちの君は『自我』を保てるかい?」
「あら、私は一人ぼっちなんかじゃないのに。」
「向こうにいる人は『人格』であって『人類』ではないよ。『プログラム』と言ったほうが語弊は少ないかな。」
「違う違う。そうじゃなくてね…」
少女はおもむろに「先生」の手を握った。その小さくひ弱な手は、思いのほか暖かかった。
「…ねえ先生、いつか『こっちの世界』に来てくれない?一緒に暮らさない?ねえ?」
「そうだね、いつかは。」
「先生」はまた苦笑した。
「それはロマンチックだ。」
手術、と呼ぶには幾分簡単すぎる、「自我」と「記憶」の「抽出手術」が始まったのは、翌日の夜も更けて久しい頃だった。
麻酔が打たれて間もなく、やや瞳が閉じてきた少女に「先生」は言った。
「さあ、それじゃあしばらくの間、お別れだ。」
「どれくらいかかるの?一時間?」
「いやいや、そんなに時間は要らないよ。ものの数分、カップラーメンを作るくらいだよ。すごいねえ、今のコンピューターは。」
「ふ~ん…」
少女は眠たげに続ける。
「…それで、私が出て行った後の『体』はどうなるの?もしかして、捨てちゃうの?」
「捨てるなんて、そんな。君の病気は珍しいからね。大切に残しておくよ。」
「…どうやって?カエルみたいにホルマリン漬けは嫌だよ?」
「いやぁ、どうだろう。多分、無菌室に安置されると思うけど。」
「ホルマリンは嫌だからね、先生。」
少女の願いは切実だった。「先生」は微笑み、言った。
「分かった。きれいに残しておくように、他の先生にも言っておくよ。」
「あはは…ありがとう。」
それ以降、少女はゆっくりと、夢の園へと旅立って行った。
少女の首の電極を確認し、ベッドの脇の大型PCに向う。「先生」は自ら言うように、あまり機械類に強い方ではないのだが、仕事にまでその様な得手不得手を持ち込むほど野暮な人物ではなかった。
諸機器を起動し、わずか数十秒の後、少女の「自我」と「記憶」の抽出準備が整った。「先生」は手元を見ることなくキーボードを叩き、多種多様なセキュリティー・ロックを解除していく。コンピューターの画面上には複雑に入り組んだ幾何学模様と、不規則な数字の羅列が表示され、またそれらは刻一刻と変化し続け、留まる事を知らない。「先生」は内心、面白くなかった。自身が全世界に向けて疑問を呈し、沈静化しかけていた「ゴーストパック・システム」の議論を再燃させたにも関わらず、こうして「電子化」を望む患者が後を絶たない。現代人はやたら「身体」と「自我」および「意識」なるものを分離したものだと考えたがるが、果たしてそうなのだろうか?「先生」は憤りに近いものが、腹の底で沸々と煮えたぎっているのを感じていた。人間の「自我」とは極めて流動的で、また受動的なものだ。「自我」は個人が成長する過程で育ち、そして確立すること無く「命」の終わりまでに変化し続ける。「完成形無き成熟」とでも言おうか。だが、「プログラム」として電子化し、不変の形をとらされた「自我」は、その時点以上の「成熟」をすることが出来ない。なぜなら、本来ならその「成熟」ないし「変化」をもたらすはずの外的経験が、ただ自身に蓄積されるだけの「情報」に成り果て、何ら自身にフィードバックされる事が無くなるからだ。もしこの「ゴーストパック・システム」が晴れて一般化された日には、今日の文明の発展はそこで終焉を迎えるのだろう。
「先生」は、蒼白ながらも安らかに眠る少女に目をやった。
…確かに、彼女の言い分は切実だ。十数年の人生の大半をこの病院で過ごし、鎮痛剤が無ければ動く事すらままならない。地面を駆け回る事などもってのほか、学校へ通う事すら不可なのだ。それがどれだけ辛く、苦しいことなのかは考えるに及ぶまい。そして彼女は「鳥になりたい」と言い、願った。確かに「向こうの世界」は「広大」で「自由」だ。だが果たして、「プログラム」と化した彼女が、視覚的に感知できない世界の中で、「鳥」となった自分を認識できるのだろうか。
「これは、彼女の望んだ『生まれ変わり』なのだろうか?」
「命」。
それは「記憶」か?「自我」か?
例えば、動物は明確に自然界の摂理に組み込まれた「プログラム」であり、そこに自我は存在しない。動物を上部から鷲掴みにするのは「自然」であり、元来人類もその範疇にあった。あったはずなのだが、人類にはそれを超越し得る「自我」があった。人類は不幸にも「自身が何者なのか」ということを考える事が出来た。そうして人類は超自然の力「科学」を駆使し、自然を支配し、ついには「生命」の定義すら覆してしまった。自身をある一定で制約していた限界を捨てた人類は、「自由」が広がる擬似天国で何を見るのか。永遠の命をどう使い、何を成すのか。いや、恐らくそこには真の意味での「自由」は存在せず、何を成すことも出来ないだろう。なぜなら身体を無くした人類は、生命そのものの最大の特徴である「生産性」を失ってしまうからだ。膨大な情報も、永遠の命も、使いこなす手段が無ければ、容量的に無限大な「自由」も、ただ持ち腐れるだけの宝物と成り果ててしまうのだ。
「命」とは、即ち事を成す能力。
貧弱で無力な病人でさえ、時に他者を涙させ、考えさせる。それすら放棄してしまった者は、見せかけの寿命に手を伸ばし、実は自らの命を捨ててしまっていたのだ。
つまり、鳥になりたいと願った少女は、
「…すごい!ねえ、先生、」
抽出が完了し少女の「プログラム」を保存し終えるや否や、傍の大型スピーカーから、溢れんばかりの元気な声が響き渡った。「先生」は、もう少女が入っていない、蒼白の「抜け殻」から目を離し、言った。
「気分はどうだい?」
「もう最高!ねえ、ホントにすごいの!」
少女の声は跳ね上がっていた。
「ねえ先生、見える?私、鳥になったの!見える?金色の羽が生えてるよ、先生!光が、光が凄いスピードで流れてるの。ああ、これが『光の平野』ってものなのね。先生、私の声、聞こえてる?私の姿が見えてる?私、すっごくキレイなの!『電子の鳥』になったのよ、先生!ああ…これでやっと、先生とずっと一緒にいられるのね。『死ぬ』なんて面倒な事を考えずに、ずっと先生といられるのね。あのね、先生、私ね…あれ?」
嗚咽。
「どうしたの、先生?」
先生は応えない。
「先生、どうしたの?どうして泣いてるの?ねえ先生、何かあったの?どこか痛いの?私、こんなにキレイなのよ?」




