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包む

 包丁を使っている時、久しぶりに指を切った。ほんの少しの傷だというのに慎さんは神妙な面持ちで私の指にばんそうこうを巻く。

「慎さん?」

 私がそう呼びかけると、慎さんはふっと目つきを和ませた。

「ごめん、ちょっと感慨深くて。こんな風に百合野の指にばんそうこうを巻くのは二回目だなって、思い出してた」

「――覚えていたんですか」


 あれはまだ高校一年の、自炊を初めて少し経ってからのこと。

 自分ではだいぶ慣れたつもりでいた――人様に自分の料理を持って行こうと思える程度には――けれど、それは油断しがちな時期でもあったのだろう。

 お弁当を拵えている最中に包丁を持つ手元が滑り、うっかり左手の指先の皮を薄く削いでしまった。幸いにして血はすぐに止まったので、特に何もせずそのまま慎さんの元を訪れた。すると。

「どうしたの、それ」

 紅茶を淹れたカップを手渡す時のほんの間に、まんまと小さな傷は発見されてしまった。

「ちょっと切ってしまって」

 でも大丈夫です、とは続けさせてもらえなかった。

「ばい菌が入ってしまったら大変だろう」と手を取られ、水道水で念入りに傷口を流された。

「痛いだろうけど、我慢出来るね?」

「……はい」

 子供扱いして、と憤慨したくなりそうな台詞も、茶目っ気たっぷりに言われてしまえば素直に応じる以外にない。

 丁寧にタオルで拭かれた後、ゆっくりと巻かれるばんそうこう。まるで、大切な人へと渡すプレゼントに施すリボンのよう。そのまま、手を包み込んで欲しい。熱く甘く、見つめて欲しい。

 そんな私の願いはこの日も叶うことなく、「これでいいね」と離れてしまう慎さんの手と眼差し。

「お医者さんに行くかい?」とあながち冗談でもない様子で問われて「いえ、充分です、ありがとうございます」と必死に断った。


 いつものように慎さんとお茶やおしゃべりをして、時間になれば席を立つ。

「じゃあ、また」と笑顔を向ければ、慎さんも「気を付けて。また」と言ってくれる。変わらぬやりとり。でも、それを聞いてやっと『ああまた私はここへ来ていいんだ』と実感出来る、大事なものだ。

 ドアを閉めて、そのままそっと凭れかかる。慎さんの気配が遠ざかったのを確認してから、誰もいない通路で溢れるままに涙を流した。


 高校生になってから、採寸以外で慎さんに触れられたのはこの日が初めてだった。

 嬉しくて、どうにかなってしまいそう。だって、今度はいつ触れてもらえるか分からない。もう二度とないかもしれない。


 あなたの恋人になれたら、触れてもらえたら、どんな心地だろう。

 毎日だなんてぜいたくは言わない。一日でいい。一時間でもいい。

 神様がもしいるのなら、私をあの人の恋人にして。


 

「――そんな風に、思ってました」

 あれから一年もたたないうちに鍵を渡された。その時にまた触れてはもらえたものの、長らく二人は恋人にも友人にもなれずにいたのに。

 信じられないことに願いは叶って、今、私は慎さんの腕の中。

「覚えてるよ」

 後ろから包まれたまま慎さんが話すから、そのたび私のつむじに息が当たる。

「俺も、仕事に関係ないところで君に触れたかったから。――あれは俺にも僥倖だった」

 そう言うと、慎さんは私の指を取り、ばんそうこう越しにキスをした。


 あの頃希っていた未来は、思っていたよりもうんと幸せな形で私を包んでいる。

 なのに、どうしてだろう。

 私は嫉妬する。慎さんのミシンに。縫い針に。鉛筆に。ばんそうこうを巻かれ、キスされた自身の指先にさえも。彼の触れるすべてにそんな思いを持つだなんて。

 誰かを心から愛するということは、どこまでも欲張りになってしまうことと同じなのだろうか。

「百合野?」

 黙り込んでしまった私を、慎さんが後ろから覗き込む。どうしたの、とその目が聞いているから、何でもありませんと嘘をつくことは赦されない。

「嫉妬、してました」

 コンシールファスナーを開けるように、隠していたみっともない自分の心の内をさらけ出す。

 こんな私を知ったら、今度こそ慎さんは呆れてしまうのではないだろうか。


 話し終えて俯く私をくるりと回して、慎さんは正面から抱きしめてくれた。彼が身に着けているシャンブレーのワークシャツ。この感触が好き。布越しの温度が好き。嫉妬に焦がされた心がぎゅっとかたく縮こまっていても、唯一素直になれる場所。

「しばらくは、アトリエで何をしても何を見ても、浮かれてしまいそうだよ」

 そう言って、私を包んだまま優しく笑う。



 あなたが疲れて立ち上がれなくなった時、その手を包むのはいつだって私でありたい。

 私が立ち上がれなくなったら、その大きな手で包んで、どうかキスをください。きっと何より歩く力になるから。

 今はまだおろしたての布のように艶やかな、私と慎さんの二人だけの小さな世界。年を経れば変色して光沢を失くし、穴が開いたりもするのだろう。それを嘆くのではなく、二人で笑って繕っていきたい。

 そうして何十年も経って、二人がおじいさんとおばあさんになった時、古びた布には幾多の縫い目があることでしょう。不揃いなのが私ので、整っているのが慎さんの。

 私の一針一針は、すべてあなたに向かって同じ言葉を告げる。「愛しています」と。

 ――それを受けるあなたの、綻ぶ顔に早く会いたい。

ありがとうございました。

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