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神田さんの旦那様

 もう何年も、何杯も飲んでいるはずなのに、慎さんは私の淹れた紅茶を口にするたび、まるではじめて飲んだ人のように「ああ、おいしいな」と呟いてくれる。

 自分も慎さんも紅茶が好きでよかった。慎さんは優しい人だから、コーヒーや日本茶でもきっとおいしいと言ってくれる――淹れる側の技量はどうあれ――だろうけれど、あんな風には言ってもらえないのじゃないかと、勝手にそんな風に思っている。


 テーブルへ置いたトレイに飲み終えたティーセットを乗せて片付け始めると「俺がやるよ」と慎さんの方に寄せられてしまった。

「いいですよ、後は洗うだけですし」

「おいしいお茶を淹れてもらったお礼だよ。もしかして、洗うくらいじゃお礼が足りてない?」

 そんな風に言われて唇を指でなぞられたら、困ってしまう。

 キス欲しさにイエスと答えてしまうと『お礼が足りてない』と言っているようだし、ノーと答えてしまうとキスが欲しくないみたいだし……。

 いじわるな二択で悩んでいる間に、慎さんはカップもソーサーもさっさとシンクに運んでさっさと洗い終えてしまった。そして手を拭いて笑いながらこちらに近付くと「本当にかわいいんだから」と私の頬にかすめるだけのキスを落とす。

 すると来客用のソファからすかさず飛んできた、神田さんの声。

「あんたたち、そろそろ私がいること思い出しなさいよー」

 ごめんなさい。ちょっとだけ忘れていました。……にしても。

 時計の針は、いつもより遅い時刻を指している。そのせいもあってか、慎さんは眉をしかめていた。

「いつまで神田はここに居座ってるんだ、もう帰れよ」

「あらあんた、元同僚を邪険にする気? 百合野ちゃーん、雪下が冷たいのなんとかしてー」

「……邪険にしてるんじゃなく、心配してるんですよ。お子さんがおうちで待ってるんじゃないですか?」

「お子さんは私の実家にお泊りに行ってるわねー」

「旦那様が、」

「あ―今ヤツの話しないで」

「……神田、」

「いい! 分かってるわよちゃんと頃合い見て帰るから、私がここ出てから好きなだけいちゃついてちょうだい」

 わーっと頭をぐしゃぐしゃにして、それからコンパクトを覗いてササッと直して。

 今日の神田さんは、変だ。

「……拗ねてる小さい女の子みたい」

 思わず零すと、慎さんが思いっきり噴いた。


 私達の連係プレーで大層ご機嫌斜めになってしまった神田さんに、慎さんは「神田の好きなワイン! あれ開けよう!」なんて言って取り成そうとしていたけれど、いつもならここでなおってくれる神田さんの機嫌が今日はいい方に動いてくれない。

「それこないだ私があげた奴じゃん」と鋭くつっこんで、それから「ま、でもいいや。開けて」とここ(アトリエ)の女主人のように振る舞った。

 ダイニングの椅子に小さく足を折り曲げて座りながらちびちびとワインを口にしている神田さんは、やっぱりいつもと違う。

 無防備な瞳は、不安げに揺れていた。

「ねーここでいいから、二人の愛の巣にはお邪魔しないから泊めてよ」

「断る」

「百合野ちゃーん」

「……慎さんがだめって言ってるのに、私がいいとは言えませんよ」

「今からそんな言いなりでどうするのよ、今は女も自立する時代なのよ」

 言っていることはもっとものように聞こえるのだけれど。

「……なんてね」

 私の中で自立している女性第一位の神田さんが、スピーチのように力強い言葉を一瞬でなしにした。

「旦那と何かあったのか」

「とりあえず雪下が考えそうな陳腐でチープな展開ではないわね」

「どうして弱っていそうな時にも俺をそうやって攻撃するんだよ……」

「雪下はスライムみたいにネチネチしててぜえったい折れないって知ってるからよ」

 あ、ちょっと持ち直したかな。すっかりしょげてしまった慎さんを見て笑った神田さんにホッとしたけれど、その表情も玄関のベルの音でたちまち強張ってしまった。

「雪下」

 一〇時を回っているせいだろうか、静かに鳴らしているのが分かる。一定の間隔を置くものの、一向に鳴り止む気配を見せないその音。

「騙したわね」

「騙してない、黙ってただけだよ」

「……あんた、覚えておきなさいよ」

 チンピラのような捨て台詞と迫力のある視線を慎さんにぶつけて、神田さんは「今いく!」とドアに向かって鋭く告げると早足で玄関に向かう。途端に沈黙するベル。

 靴を履いた神田さんがやや乱暴にドアを開けると、鳴らした主が重たいそれを片手でそっと押さえた。

 仁王立ちになって「謝らないわよ」と宣言する神田さん。――の頭を何気ない所作でそのまま抱き込んで、「遅くまで失礼しました。お礼は、また後日に」と、初めて見る旦那様はこちらに向かって静かに頭を下げた。

「ちょっとっ!」

「……肩に担がれたい?」

 あまり感情豊かではないように見えたその人がすっと眉を寄せると、途端に怒りのオーラが渦巻いて見える。神田さんは慌てた様子で「帰ればいいんでしょ! じゃあね百合野ちゃんまたね、雪下のバーカバーカバーカ!」と早口による三通りの対応でそれぞれに声を掛けてきた。

「夜なんだから静かにする。……うちの奴がご迷惑をおかけしました。では」と、終始落ち着きのある旦那様がコートの内側に神田さんを包むと、途端に大人しくなってしまった(!!!)。

 ――そして、静かにドアが閉まる。

 遠ざかる足音と、ひそやかな会話。二人きりに戻ったアトリエは、やけに静かに思えた。 

「……旦那さん、初めて見ました」

「俺も久しぶりだよ。……でも相変わらずだ」

 くすりと笑う意味が分からなくて小首をかしげると、「俺と同じ」とさらに謎を増やされてしまった。何故か、そのままキスを与えられる。

 アトリエなのに、と思いながら抗いもせず深くなるキスにただ身を任せていると、不意に離れた唇が「奥さんに夢中ってこと」と答えを告げた。

「神田と腐れ縁で、ちょくちょく顔を合わせてる俺のことは多分ちっとも好きじゃないのに、こうやって家出すると真っ先に連絡してくるんだ。面白いだろ」

 そう言われても、あの冷静な顔とその行動がどうしても結びつかない。そんな私の頭を慎さんは優しい手つきで撫で、「百合野にもそのうち分かるよ」と笑った。

 そしてその機会は、ほどなく訪れる。


 翌々日、またアトリエへ顔を見せに来てくれた神田さんは私の横にいた慎さんを綺麗に無視して、「この間はごめんね、うちの痴話げんかでご迷惑おかけしました」と私にだけ謝った。その後も私とだけひとしきり会話を交わしてから「あら雪下そこにいたの? 存在感ないから見えなかった!」と刺すことも忘れない。

 あの夜旦那様とちゃんと仲直り出来ましたか、と聞きたい気持ちはあった。けれど、今日はだいぶ暖かいのにハイネックの服を着ていたこと――普段はどちらかと言うと胸元の開いたトップスを愛用している――で、まあ憂うこともないかと当たりを付けた。

 ――隠せないくらい、幸せそうでもあったし。

 慎さんと目が合う。

 分かりました。言わずに笑い返すと、「やだ、また私いること忘れてるでしょー! この万年バカップル!」となぜか怒られてしまった。


17/05/23 一部修正しました。

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