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繕う

 夜、リビングで針をすいすいと動かしていたら、アトリエから帰ってきた慎さんに見咎められてしまった。

「遅くまで縫い物をしていると目が悪くなるよ」

「……慎さんにだけは言われたくないですけど」

 彼が以前、私のウェディングドレスを仕立てる際にしていた無茶は私の想像以上で、神田さんに言わせると『ゾンビってこうやって作るんだーって納得するほどの不眠不休っぷりだった』――そうだ。私が来る前の日は、心配をさせないようにと少しは寝ていたからまだマシだったという、ちっとも言い訳にならない言い訳。それを聞いて、無理させてしまった自分の浅はかさに思わず涙ぐんで、慎さんを大慌てさせてしまったっけ。


 それでも慎さんの言っていることはもっともだと思い、糸を通したままの刺繍針を針山に戻してお裁縫箱に蓋をした。

「何をしていたの?」

「これを」

 広げて見せると、「ああ」と慎さんの目は懐かしいものを映して優しく和む。柔らかい灯りの下にあるのは、中学二年生になった年の春に作っていただいたブラウス。ノーカラーで、胸の下の切り替え部分からふわりと広がるシルエット、練乳色の無地のそれは羽織り物としても優秀ということもあって、夏以外のシーズンはフルに活躍している。そのせいか、胸元にあしらわれた綿レースが少しほつれてしまっていた。その箇所に別布を裏打ちしつつ、同色の刺繍糸で補強していたという訳だ。

 キッチンでお湯を沸かしていると、慎さんがしみじみと「百合野の服は幸せだな。こんな風に古びてもちゃんと手入れをしてもらえて。――俺も、幸せだ」と言ってくれた。

「デザイナーとして? 恋人として?」

 あらかじめ温めていたティーポットに茶葉を入れながらそんな風に茶化すと、いつの間にか背後に忍び寄っていた慎さんが私をすっぽりと包んで「両方だよ」と耳にキスを落とした。

 沸騰したお湯をポットに入れ、ティーコゼーを被せ、三分を測れる砂時計をセットするまではいったん離れてくれた慎さんだけど、お茶の準備が出来上がると待ってましたと言わんばかりに私をくるりと自分に向けて、今度は正面からぎゅっと抱き込んだ。

「……こんなに幸せで、どうしよう」

 その言葉を笑えない。私も、同じ気持ちだから。

 二人とも片思いの期間が長すぎた上に思いの叶う確率が低すぎたせいで、同居している今ももろ手を上げて無邪気にこの現状を享受することは出来かねている。


 これが、都合のいい夢だったら。いつか醒めるとしたら。克服できる日なんて来ないと思えるほどの、圧倒的な畏れ。それでも。

 醒めたら、この夢のような日々を道連れにして残りを生きていく。

 きっとそう思っているのも、きっとお揃いだ。


 アトリエほどではないけれど、年月を経た中古のマンション。どこかで赤ちゃんが激しく泣く声、遠くから電車の通る音、そんなのもよく聞こえてくるし、元々慎さんが一人暮らしをしていたところに私が転がり込んできたせいで、少々手狭でもある。

 でも、これ以上幸せな場所なんて、世界中のどこを探したって、ない。

 背伸びをして、私からキスをした。もう当り前にそんなことが出来る。慎さんの両方の頬に沿えていた手は唇同士が戯れている間にぎゅっと握られた。嬉しくて、なのに泣きたくなるのはどうしてなんだろう。そんなことも知らない私は、年上の恋人にまだまだ追いつけそうにもない。

 でも、今ここで人生が終わったとしても、幸せ。そう言い切れる。


 私が仕掛けたキスの主導権は、いつの間にか慎さんが握っていた。そのまま始まってしまうかと思うほどの濃密なキスだったけど、はあ、と悩ましいため息一つ吐くと慎さんは私をぎゅっと一瞬抱きしめて遠ざけ、それから「おしまい」と笑った。

 きっと私の顔にはでかでかと『どうして?』って書いてあったに違いない。なのに、慎さんは「三分経ったからね」とお茶のセットが一式載ったトレイをリビングへと運んでしまった。――いじわる。

「お茶なんていいのに」

「百合野がきちんと時間を測って準備してくれてたのに、お茶が渋くなったり冷めたりしたら悲しい」

 そんな風に困った顔で言われてしまったら、キスをせがむことも出来ない。結局、いつも通りちゃんとおいしい紅茶を二人でお行儀よく口にした。


 紅茶を飲み干す頃には心も落ち着いた。空になってもまだほの温かい器を両の手で包んでいたら、一足先に飲み終っていた慎さんの手で取り上げられ、トレイに置かれてしまった。

 何? と問う前に、唇が近付いてきて、キッチンの続きが始まる。さっきよりももっと激しく。

 慎さんの手が私の額や、頬に触れる。優しく、というよりは、何かを押さえつけている気配の手つきで。

 逃がさないよ。俺のものだよ。そんな風に、私の体に言い聞かせているように。

「……もっと」

 だから私も、欲張りになる。

 ベッドルームまで待てない。ここがいい。

 声の殺し方も覚えた。幼い頃慎さんにもらったクッションに、甘やかな声を吸い込ませればいい。

 ゆりの、って呼ばれる声がいつもより乱暴なのが好き。あなたがこの時だけ見せる顔も好き。どんな慎さんだって好きだ。

 あなたが間違っていてもいいの。神田さんが言うような、『ネチネチ体質』で『私のことをずっと付け狙って』いたとして、私に何を困ることがあるだろう。

 慎さん。どうか離れないで。決して離さないから。私に飽きても、不穏な夜を重ねても。

 口に出さない私の願いに呼応するように、慎さんは最後に強く私を掻き抱いた。


 二人ではだかのままブランケットにくるまって、「何だったんですか」ってちょっと怒ったふりで聞いてみた。そしたら。

「紅茶を飲むとは言ったけど、俺は紅茶を飲むだけとは言ってない」


 ……こんなのは、神田さんにだって言えない。


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