ほころぶ。 2
初めて会ってから約一年後。彼女の一〇才の誕生日に間に合うようにと、ワンピースの製作をご両親から依頼されたことがあった。
まだまだ認知度も売り上げも低空飛行だった俺は制作後、ぽっかりと空いてしまった時間を利用して自ら大友家へ納品に伺った。
「まあ、わざわざありがとうございます」
夫人は俺を応接間に通し、ふかふかのソファに座らせて「雪下さん、この後お時間はあって?」と聞いてきた。
「はい」
こうしてここへ来るくらいには。そうおどけると、夫人はまあ、と笑う。
「それなら、百合野が帰ってくるまで待っていただいて構わないかしら? あの子、あなたの服にご執心だから自分の口からお礼を言いたいと思うの」
「ええ、もちろん」
そう答えた声が、歓喜に溢れてはいないことを祈る。
「実際に着てもらえれば、袖丈など直すところがあった場合すぐに分かりますし」
もっともらしい理由を付けると、夫人は感心した態で「さすがに独立して服を作る方はしっかりなさっているのね」と言ってくれた。――その満足しきった表情に、返って申し訳なくなった。
夫人が「紅茶を用意するわね」と部屋を出ていくと、途端に緊張から解放された。――そして、猛烈な眠気が襲ってくる。
平日の午後三時過ぎに服を持参すれば、学校から帰ってくる彼女に会える。おけいこ事をいくつか習っているようなので、それより遅いと会えない可能性が高い。そう思って、少々無理をして(もちろん、手抜きなど一切なしだ)仕上げたせいだ。
いけない、客先なんだからと叱咤してみてもソファの座り心地はとても快適で、抗い続けることは彼女への思いを断ち切ることと等しく難しかった。
どこからか、会話が聞こえてきた。
――お母さん、しんさんが来ているの?
――そうよ、でも百合野のためにがんばってくれたのね、疲れてソファで寝ていらしてるわ。起こさないであげて。
――わかった。
ああ、いい夢だ。思わず、微笑んでしまう。
目が覚めた瞬間、自分がいるのは大友家の応接間だということを思い出し、血の気が引いた。
丸めていた背を伸ばし身を起こすと、ソファの背もたれと座面の間に落ちたもの。――これは。
「もう少し休んでいらしたら?」
顧客の家で眠り込んでしまうというとんでもない不調法をしでかしたにもかかわらず、夫人は何事もなかったかのように紅茶を口に運んでいた。
「いえ、失礼しました。お届けに来たのにこんな……」
「いいのよ。あなた顔色がよくなかったから寝てくれて安心したくらい」
鷹揚に笑ってもらって、心底ほっとした。
「あの、百合野ちゃんは……」
「今、持ってきていただいたワンピースを試着しているの。すぐに来るわ」
「……はい」
手の中の物をぎゅっと握る。白いコットンのカーディガン。
背中に掛けられていたのは、俺が彼女に作ったものだった。
ほどなく、彼女が姿を現した。
紫と青を混ぜた深い色のベルベットのワンピース。オーガンジーでこしらえた半袖はぷくりとしていて、ウエストに巻いた同色のサテンのリボンは少し高めの位置。そこから広がるスカートは、たっぷりと長くとった。
子供らしさと少女らしさの端境期にいる彼女にふさわしい物が作れたという自信はあったけれど、こうして実際に着ているところを見るとまた格別だった。
「……お似合いですよ」
俺がお世辞抜きで言うと、彼女もはにかんで「ありがとうございます」とだけ口にした。
「きつく感じる場所はありますか?」
「ないです」
「よかった」
「……」
その時、夫人は使用人に呼ばれて「ごめんなさい、少し席を外しますね」とドアの向こうへと消えてしまった。
「……これをありがとう」
畳んだカーディガンを手渡すと、かすかに触れた彼女の指先。
「どういたしまして」と答える彼女の声も、震えているように感じてしまう都合のいい自分の耳。
「もうすぐお誕生日だね」
「はい」
「何か、俺でもあげられるものがあればいいんだけど」
実際、彼女の家はとても裕福だし、何一つ不自由はないだろう。それでも何かしらのリクエストが返ってくれば幸いだと聞いてみると。
「……お名刺が、欲しいです」
「名刺? 俺の?」
「はい」
思わずじっと見つめてしまうと、彼女もまっすぐ俺を見ていた。
「お父さんは持ってるけど私は持ってないから、しんさんの名前は漢字でどう書くのか知らなくて……だから、お名刺をください」
ああ。なんてかわいい。なんて、愛おしい。
春の嵐が、胸の中で吹き荒れる。
それをそ知らぬふりで隠して、名刺入れからスッと一枚を引き出し、彼女に渡した。すると、両手で受け取り、じいっと眺める。そして。
「……慎さん」
名前を、そんな宝物のようにそっとつぶやいて。
ただの名刺を、『汚したら大変だから』と大事にハンカチに包んで。
俺の方こそ、君の名前も声も姿もぐるぐるに包んで誰にも見せたくないよ。
抱きしめたい。今すぐ。
その強すぎる思いに体が乗っ取られないよう、夫人が部屋へ戻ってくるまでの間、掌に爪痕が強くつくほど拳を握り続けている必要があった。
「慎さん、見て」
ある日、彼女がオルゴールの箱を開けて、中から出したもの。
あの日に渡したあの名刺が、あの日に包まれていたハンカチの真ん中にある。
「汚れないように気を付けてたけど、何度も出して眺めてたからすっかり端が丸くなっちゃって」
恥ずかしそうに笑う彼女を、今度こそ強く掻き抱いた。