裁つ
手仕事は嫌いではないはずの妻だけど、布を裁ち、一から何かを作ることはない。
「切ってしまったら、もう元通りにはならないでしょう? 取り返しがつかないと思うと、なんだか怖くて」と困ったように笑うけれど、伏せた睫毛の影はいつもより濃く見えた。
きっと今、彼女の脳裏には、ご両親のことがある。
自分の結婚式にさえ呼ばなかったその人とコンタクトを取ったという話は、今のところまだ聞いていない。それでもいつかは母親と連絡を取る日が来るかもしれないと思う一方で、不干渉のままかもしれないとも思う。そのどちらであっても、妻の意志を尊重するだけだ。時間薬でさえ未だに修復出来ていないことを、当事者でない自分が出しゃばってどうこうする権利などないし、ましてや自分は全面的に妻の味方なのだから。
先程見せた妻のほんの少しの陰りには気付かないふりで、「じゃあ布類は俺が一生裁つよ。失敗しても、なんとかしてあげる」と気安く請け負った。すると彼女は、若い林檎が青々と香るようにふわっと笑んだ。
「それ以上頼もしい言葉はありません」
じゃあ、その時が来たらぜひお願いしますと、前払いでキスをたくさんもらった。
布を裁つという行為に感じる緊張は、自分には料理のレシピで『ひとつまみ』と称される分量程度のものだ。
布の耳で待機させた鋏を、追い風に乗る船のようにすーっと前へ滑らせる。それは航海の始まりのようで、いつだってわくわくしてしまう。
「慎さん、さっき裁断してた時、笑ってましたよ」
「え? 俺?」
三時休憩で妻にそう指摘されたものの、自分ではまったく気付かないでいた。
「はい。布を裁ちながら、今にも鼻歌を歌い始めそうでした」
くすくすと思い出し笑いと共に指摘されて、非常に面はゆい。今日も妻の手でおいしく淹れてもらった紅茶のカップをいったんテーブルに置き、意味もなく頬をゴシゴシと両手で擦れば、それをまた笑われる。
「そんなに照れなくていいのに」
「だってまさか、裁断している時の顔を見られていたなんて……」
作業中は集中していて自分がどんな様子なのかなんて気にしたことがなかったけど、ヘンな顔やヘンな動作をしていないことを切に願う。こんなことで幻滅されたくはない。
こちらの切実な懸念をよそに、妻は「いつも見てますよ」と追加の爆弾を放りこんでくる。
「あくびしながら起きてくるところも、少し髪が伸びると左の耳の上だけはねちゃうところも、楽しそうに布を切るところも、納品する服を名残惜しそうに畳むところも」
「――うん」
それを知らないわけじゃないけれど、改めて言葉にされると、たまらない気持ちでいっぱいになった。
「慎さ、」
妻が手にしていたカップもソーサーに戻し、テーブルを回り込んで座ったままの彼女を跪いて抱きしめる。仕事場での突然の抱擁に妻ははじめ少しだけ驚いて、それからおそるおそる手を背中に回してくれた。――ああ。
世界と、自分たち二人を断ってしまいたい。布のように、簡単に別けてしまいたい。鋏を滑らせ、彼女に繋がる全ての糸を切ってしまいたい。
正しくない気持ちの誘惑は凄まじく、心が一瞬で染まりかける。――これまでも打ち寄せる波のように幾度も襲われ、同じ分だけ抗った。
俺が焦がれるその完璧な世界は、きっと妻にとっては息苦しいだけのものだろう。自分と違って、彼女はいろいろな人や場所と関わりを持っているから。
思いもきっと等分ではない。神田から未だに結構な頻度で指摘される通り、自分の感情がうっすらと狂気を帯びていることは自覚している(神田の言葉を借りるなら『あんたは百合野ちゃんを手に入れたのに、どうして未だにストーカーみたいにネチネチしてんの?』だ)。だからこそ常日頃から自制しているのだけど、時折、二人でいるのに毒に塗れた気持ちに覆いつくされる。こんな時、祈りのようにうかべる言葉たち。
彼女は、惜しみなく愛を注いでくれる。こんな俺を人生のパートナーとして選んでくれている。
だから大丈夫だ。
二人だけのうつくしい、いびつな密室ではなく、世界は自分とも彼女とも地続きで、どんなに頑丈な裁ちばさみでも切り離すことは出来ない。その必要もない。
百合野の小さな手が、俺の手を迷わず握っている限り。
妻を掻き抱きながら嵐がおさまるのを待ち、穏やかな波の下に孕む昏く激しい感情に鋏を入れて、裁つ。




