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気絶したあと見知らぬベッドで目が覚めて、老婆ことヘクセさんに行くとこがないのならここで自分の弟子として過ごせばいいと提案され、元の世界に戻る手立てを探すことを目標にして私はヘクセさんに甘えることにした。
あの日から一年と少しが経った。最初の頃は何をするにも失敗続きで毎日枕を涙で濡らして翌日腫れた目で過ごすことが日常と化していた。しかし、ヘクセさんが丁寧に根気よく色々なことを教えてくれたお陰で、私は人並みの生活が送れるくらいには成長した。
火起しで危うく小屋ごと燃やしそうになったことは本当に反省してるよ、うん。
「あ、ラズラリーの実だ!これを摘んでジャムにしよう!」
ラズラリーの実は砂糖が高級品のこの世界で唯一、砂糖なしで甘く美味しく作れるジャムであり町でも人気が高い。作った半分を町に売れば、新調したいと思っていた瓶類が買える。頭の中でそろばんを弾きながらラズラリーを摘む。なるべく状態の良いものをと吟味しながら夢中になって選んでいたらいつの間にか用のない泉の側まで来てしまっていた。
「自分の集中力に驚きだわー……」
はあ、とひとつ大きなため息をついて柔らかな草に腰を下ろす。意外と歩いていたようで足はじんじんと鈍い痛みを訴えていた。少々行儀が悪いがブーツを脱いで泉に裸足の足を浸ける。
「ふーむ。アママンダの実は今度でもいいかあ。ラズラリーの実が手に入ったし……」
アママンダの実は疲労回復の薬の材料に使われる。そろそろ在庫が切れそうだったけれど明日取りに行けば問題ない。それよりもラズラリーのジャムの方が大切だ。
腹が減っては戦はできぬと言うし、食事に比重を置いても悪くはない。
「そういえばさっきニュティースもあったな……。それ採って帰るか」
ニュティースは森で探せばいくらでも見つかる類の雑草。しかし雑草と侮るなかれ。回復薬に欠かせない素材であり、他にも熱冷まし薬にも使われる万能の材料なのだ。在庫はまだ余裕があるが、なんせ使用頻度の高いものだ。多い分には困らないだろう。
あと少し休憩をしたら戻ろうと柔らかな草に寝転ぶ。心地よい日差しと涼しい風にこっくりこっくり船を漕ぎそうになった時だった。
「……うっ……」
人のうめき声が聞こえた。眠りかけていた脳は覚め、体を起こし素早く辺りを見渡した。すると円を描く泉のちょうど半円の辺りに人が見えた。あの距離からうめき声が届いということは風精霊が音を運んだのだろう。
籐籠を抱えて倒れている人のところへ走る。
「……騎士……?」
倒れていたのは軽装備の騎士だった。最高位を表す金の刺繍が施された黒地の騎士服はところどころ破れ、そこから血が滲んでいる。一番酷いのは腕の傷だ。早く手当てしなければ神経系に異常をきたしてしまうかもしれない。
「《風精霊よ、我に宿りし魔力を対価に奇跡を起こせ》」
魔力で魔法陣を形成し、呪文を唱える。風精霊の力を借りて騎士を浮かせるとゆっくりと移動する。騎士のそばに落ちていた剣と地面に置いた籐籠を拾い、森の中の小屋へと引き返した。
「ヘクセさんはまだ帰ってない……か」
人の気配がしない小屋の中で二階に上がり、風の魔法で浮かせたままだった騎士を私の部屋のベッドに降ろすと急いで地下室へ駆け込み軟膏の入った壺と包帯を抱えて戻る。
行儀が悪いが両手が塞がってたために扉を足で開けて机に抱えていたものを置く。
「あ! 水!」
また一階へ駆け戻り裏口の扉を蹴破る勢いで蹴り開けると木桶に井戸から水を汲む。零さないように注意しながら部屋に戻って清潔な布を水に浸す。
「……失礼します……!」
金色の包みボタンを外して肌を服をはだけさせると浸しておいた布を絞って上半身を拭いていく。さすがに下は無理なのであとでヘクセさんが帰ってきたら申し訳ないが手伝ってもらおうと考えながら傷口を丁寧に拭う。
「……うっ……くっ……!」
腕の傷を拭うと痛そうに顔を顰め呻き声を上げたが、目を覚ます様子はない。痛そうだとこちらも渋面になりながらどろりとした軟膏を傷口に塗っていく。この薬は傷口に沁みることもなく膿化を防ぐ。その上から包帯を巻いて処置はおしまいだ。
「はふ……。疲れた……」
どすんと床に座り込む。人の怪我を応急処置するのは神経を使う。知らぬまにかいた汗を袖で拭いのろのろと立ち上がる。
毛布をかけて部屋を片付ける。水は裏庭に植えてある草木に撒いて木桶に再度綺麗な井戸水を満たす。軟膏や包帯はもとあった場所に戻してまた自室へと戻る。
「……にしても綺麗な顔してるなあ」
濡らした布で傷の痛みで顔に滲んだ汗を拭き取りながらまじまじと騎士の顔を眺める。
発見したときや手当てをしているときは怪我にばかり目がいってしまっていて顔など全く気にしていなかったが、こうしてしっかり見ると尋常ではない美形であることがわかる。輝く白銀の髪に同色の長い睫毛。新雪のような真っ白い肌は滑らかでシミやニキビなどとは無縁そうだ。目を閉じていてもわかる美貌は中性的で美しく、輝かんばかりである。これが女性であれば傾国の美女と言っても過言ではなかっただろう。
暫く唸っていた彼だが、そのうち静かな寝息を立て始めた。その綺麗な寝顔を目の保養とばかりに見つめてから部屋を後にする。
「とりあえずすぐ食べられるようにお粥を作って……」
鍋を用意し火をおこす。米をたっぷりの水で煮て裏庭で採れた野菜を入れ芯まで火が通るように火力を調整しながら煮込む。ぐつぐつと美味しそうな音と匂いが台所に広がる。
「もうそろそろ起きる時間かな」
時計のないこの世界で時間を測るものは、日の傾きと町で三刻毎に鳴り響く鐘の音である。僅かながらこの森まで届くのでいちいち日の傾きを気にする必要はないが、正確な時間の中で生きてきた私にとって適当といってもいいこの時間感覚は未だに慣れない。
そんなことを考えながらお粥を持って自室へ入るとちょうど騎士が目を覚ましたところだった。
「目が覚めましたか?」
「……ここは……それに君は……?」
紫水晶を嵌め込んだような瞳がこちらを向く。完成された美貌に思わず息をのむ。取り落としそうになった鍋を慌てて持ち直してテーブルに置いて騎士の質問に答えた。
「ここは森の魔女の家ですよ。私はその弟子のアンジェです」