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回想①

本当になんの前触れもなかった。いつも通りに大学から駅まで歩いて電車に乗って、最寄りで降りて片道十分の距離を歩いて帰る。ただそれだけだったのに。

家の手前の曲がり角を曲がったのがいけなかったのか。突如として現れた景色は見慣れた住宅街ではなく、樹齢何百年と経っていそうな大木だった。不意を突かれて一瞬思考が停止するも、慌てて後ろを振り向く。


「………………冗談でしょ」


目に映ったのは先程まで歩いていた道ではなく鬱蒼とした森で、私の知っている景色は跡形もなく消え去っていた。突然の事に足が震える。上を見上げても背の高い木々が邪魔をして空も満足に見えないため、月明かりも届かない。

足元ですら僅かにしか認識できない中で、明かりも何もなしに歩くのは危険すぎると、混乱する頭の中のどこか冷静な部分が告げていた。


「……夜明けを待つしかないかな……」


大木の下の落ち葉を払って、鞄を抱えるようにして座る。少し湿った感覚が気持ち悪いが立っているよりはいいだろう。


「……うぅ……すごく薄気味悪い」


目が慣れてくると大分辺りの様子がわかるが、どこもかしこも似たような景色で歩けば確実に迷う。こんな不気味な森なのだから野生の動物や獣がいるのだろうと想像し、背筋が寒くなった。寒気を誤魔化すように膝を抱えて顎を膝頭に乗せる。

暫くそうしていると、ガサガサっと草をかき分けるような音がした。暗い視界の中、音源を探すように耳を澄ませると真正面から聞こえてくる。

段々と近づいてくる音に体全体に震えが伝播し、唇にまで達した震えのせいで歯の根が合わずにカチカチと音が鳴る。

逃げるという選択肢はもはや思い浮かばなかった。ただその場でさらに体を丸め何も見ないように目をぎゅっと瞑る。


「……あんた、こんな場所でなにやってるんだい?」


野獣の唸り声ではなく少し嗄れた女の人の声が聞こえ反射的に目を開けた。呆然と見上げる先には真っ黒なローブに身を包んだ優しげな風貌の老婆がランタンが引っかかった杖を持って立っていた。


「……あ……わた……し……」


安堵感からか言葉すら満足に紡げない私を不審がる様子もなく老婆はゆったりと微笑んで杖を持っていない方の手を差し出してきた。


「……理由は後で聞くから私の家でよかったらおいで。狭くて快適とは言えないけどね」


首を縦に振って老婆の手に自分の手を重ねると震える足でなんとか立ち上がる。鞄を肩に下げると老婆の後をよろよろと着いていく。

足元が微かに見えるだけの光源なのに、老婆はまるで浮いているかのように足をとられず滑るように進んでいく。足元に気をつけながら私は必死で彼女を追いかけた。

暫く歩くと丸太を組み立てて造られた小屋が見えてきた。段々暗闇に目が慣れてきたのもあるが、一番は窓から光が漏れていることだろう。真っ暗な森の中浮かんで見える小屋はどこか幻想的だった。

人一人が住むのには少し広そうな外見は二階建てのように見える。

老婆はランタンの火を消すと私を家の中へ招き入れた。


「寒かったろう? ここにお座り。今体の温まる飲み物を入れてくるから待ってなさい」


私を暖炉の前に座らせると老婆は杖をつきながら台所へと移動する。歴史の教科書でしかお目にかかったことのない煉瓦を積んで造られた釜戸に鉄製の小さな鍋を置いて老婆がお湯を沸かし始めた。

薪を入れて燃やす場所からは不思議と煙が発生しておらず暖炉の前で体を丸めながら首を傾げつつも老婆の姿をぼんやりと眺める。


「できたよ。これを飲んで温まりなさい」


木製のカップから湯気が立ちのぼりチョコレートのような甘い匂いが鼻をくすぐる。小さくお礼を言って受け取り中の液体を確認する。想像していた色とは違い、牛乳のように真っ白だった。湯気を飛ばすように息を吹きかけ冷ましてから慎重に口をつけた。


「…………美味しい」


ココアによく似た甘い飲み物は、緊張と寒さに強張った体を解していく。


「それはよかったよ。これは私が調合した体を温める効果のある薬湯でね。子供でも飲み易いように甘くしたのさ。お前さんの反応を見るに不味くはないようだね」

「これが薬湯……?……これを飲むためにわざと風邪をひく子が出てきそうですね……」


それほど美味しかった。これなら子供も喜んで飲むだろう。空になったカップを両手で包み込んだまま告げると、老婆は若草色の瞳を優しげに細めた。


「そう言ってくれると嬉しいねえ」


老婆は機嫌が良さそうに近くの揺り椅子に座り、私が飲んだのと同じ薬湯を少しずつ飲み始めた。


「……お前さんはどこから来たんだい?」


呟かれたその疑問に、ずっと暖炉に向けていた顔を老婆に向ける。老婆は全てを見透かしたような瞳で私を見つめていた。


「……多分、この世界ではない世界からです……。曲がり角を曲がったら急にあの森が現れて……」

「ふむ……。それは『境門』さね」


私の拙い説明に相槌を打った老婆は、聞き慣れない単語を呟いた。


「……きょう……もん……?」


鸚鵡返しに聞き返す私に老婆は簡単に説明してくれた。曰く、境門は時折この世界に開く異世界の門のことで、その存在を知るのは各国の魔女や王族などの特殊な立場の人間だけだそうだ。

稀に私のように人間や動物などがその門を通りこちらの世界にやって来ることがあるようなのだが、記録は王族のもと厳重に管理され、閲覧するには理由はもちろん身分証明に始まり身辺調査まで行い、隅々まで調べられた上で問題がなければ閲覧を許可される。申請してから閲覧できるまで最短でも一日かかるという素晴らしい徹底ぶりだ。


「お前さんはこの国の新しい記録から約五百年目の境門通過者だよ」

「五百年……」


想像もつかない年月に目を見開く。境門の記録が成され始めたのは約数千年前のことで、その中で人間が現れたのは過去に数回しかないそうなのだ。


「それで帰れた人はいるんですか……?」


私の縋るような問いに、老婆は顔を伏せ申し訳なさそうに首を横に振った。


「すまないね……。どの人間も元の世界に帰った記述はない」


目の前が真っ暗になる、という体験をはじめてしたと思いながら私はそのまま気絶してしまった。


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