弘也の引っ越しと幼馴染
「おいっしょ!」
持ってきた米を、和巳は袋ごと持ち上げて米びつの中に移し変えます。そのあいだ美雪は、スーパーで買った食材を冷蔵庫に詰めていました。
「これでいいか?」
作業が終わった和巳は、美雪の後ろに回って話しかけます。
「ええ、大丈夫です。あっ! お茶、入れますね」
「ああ、別にいいよ。その代わり……」
冷蔵庫の中にあったミートソース・スパゲッティを取り出し、盛ってある皿を傾けて美雪に見せ付け、満面の笑みを浮かべました。
「これ食ってもいいかな?」
「かまいませんけど……それ、師匠や弘也君にも不評で……」
「大丈夫、胃の中入ればみな一緒。粉チーズある?」
美雪から粉チーズを渡された和巳は嬉々として電子レンジに向かい、その皿を電子レンジの中へ入れます。
「三分もやっておけばいいか」
電子レンジが鳴るまでの間、和巳は食堂の椅子に座って体を揺らし、今か今かと待ちます。
「そんなにそわそわしても、三分はあっという間には過ぎてくれませんよ?」
冷蔵庫に食材を入れ終わり、コンロに火をつけてやかんを乗せた美雪が、和巳のほうを向いてそう言います。
「そりゃま、久しぶりの手料理だしね。心も小躍りさ」
「久しぶりって……師匠の許可さえ下りれば、少し分けて差し上げますのに」
年甲斐もなくきらきらした目を美雪に向ける和巳に、美雪はため息混じりに呟きました。
やかんが鳴るのと電子レンジの電子音が鳴るのは、ほぼ同じタイミングでした。
「兄さんは座っていらしてください。私が取ってきます」
美雪は電子レンジからスパゲッティの乗った皿を取り出すと、フォークと一緒にお盆に載せ、パックに入ったコーヒーに湯を注いで、和巳の前にそれらを一緒に置きます。
「サンキュ」
和巳は粉チーズをたっぷりとかけてフォークに巻き取ると、大きく開けた口の中にそれを入れます。
「うん、うまい。最高だねこりゃ」
「本当にうまいんですか?」
美雪は驚いたような表情で和巳に質問を浴びせました。
「ああ。この味の濃さ加減がまたなんとも」
とまた、口の中にスパゲッティを口の中へと運びます。
「いつからコメンテーターもやるようになったんだ、えん馬?」
着物を身にまとって、帯に手を当てた文太がドアから登場するや否や、和巳はむせてしまいました。
「ゲフンッ! ど、どうも」
「ははは、まあ落ち着いて食え。食いもんは逃げたりゃしない」
和巳のそんな様子を笑い飛ばしながら、文太は食堂の椅子にどかっと座って、机の上の新聞を手に取り、そっと広げました。
「らん馬」
美雪が後ろからお茶を差し出すと、文太は新聞を見つめたまま美雪に話しかけます。
「はい」
美雪はお盆を抱きかかえてその場に立ちつくし、文太の次の言葉を待ちます。
「客が来たならちゃんと俺に言えって教えなかったか?」
「はい。教わりました」
美雪は真顔で、はきはきとした声でそう答えます。
「なら何でえん馬がいることを黙ってやがった? えん馬は弟子とはいえ、俺にとっちゃ立派な客だ」
「……申し訳ありません」
横目で美雪を睨む文太に、美雪は深々と頭を下げました。
そんな美雪に、文太は新聞に再び目を通し、「席に着け」と促します。美雪はその言葉に従い、黙って席に着きました。
それから、その部屋一帯は沈黙に支配されました。
「あ、そうだ。昨日の阪神対中日戦どうでした?」
和巳はその重くなった雰囲気を打ち消すように、文太に話しかけます。
「ああ、十‐一で中日の勝ちだ」
「合計で三十三‐四か。ニュースで互角とか言われてたけど、阪神惨敗だなこりゃ。序盤でこれだとちょっと辛いだろうな」
スパゲッティを平らげた和巳が独り言のように呟きます。それに反応した文太は、新聞の横から顔を出して、和巳に声をかけました。
「お前、確かヤクルトのファンだろ? 当分は関係ないんじゃないか?」
「いやぁそれはそうですけどね、ヤクルトが他のチームより飛ばしてくれるってなら俺の調子も飛ぶってもんですよ」
「はっ、勢い余ってファールにならないようせいぜい祈っとくことだな」
「ははは、こりゃまた手厳しい」
二人は揃って朗らかな笑い声を上げます。美雪もそれに釣られて、思わず笑みを浮かべました。
その瞬間、インターホンの無機質な電子音が響きました。
「私、行ってきます。もしかして弘也君かしら」
美雪は玄関に向かって小走りで駆けていきます。
「そういや聞いていませんでしたね、彼を引き取った理由」
美雪が出て行った方向を見たままコーヒーをすすって和巳が尋ねます。すると、文太はどこか遠い目をして、一点を見つめました。
「文也さん、覚えてるか?」
「文也さんって、あの?」
「ああ。その人にな、頼まれたんだよ」
和巳は、「ふーん」とうなずきながら、そのぬるくなったコーヒーを飲み干しました。
美雪はかばんを受け取ると、弘也の顔を覗き込みました。
「おかえり、弘也君。ちゃんと手を洗うのよ?」
「はい。わかってます」
弘也は言われたとおりに、風呂場に向かって手を洗ってうがいをました。
ふと鏡を見ると、以前よりも疲れたような顔をした自分の姿が映っています。
(無理ねぇか)
弘也は苦笑を浮かべ、顔を洗って風呂場を後にしました。
「や、お邪魔してるよ」
食堂に入ると、和巳が声をかけてきました。それに対して、弘也は軽く会釈します。
「どうも」
「どうだい? 学校は。馴染めそうか?」
「はい、なんとか」
文太に声をかけられた弘也はそれだけ言って食堂の椅子に座り、改めて文太に声をかけ直しました。
「教科書やら制服やら買っていただいて、ありがとうございます」
「ははは、いいってことよ」
新聞を広げたまま、文太は弘也のほうを向き笑って見せました。
「で、どうだい学校は?」
「弘也君、かわいい女の子の友達ができたんですよ」
その質問に答えたのは、弘也ではなく和巳でした。和巳は、弘也のほうをチラッと見ると親指を立ててみせました.
「ほう、それはそれは……」
「ただの同級生ってだけですよ」
弘也は呟くように和巳と文太の言動を受け流すと、視線を文太のほうに移します。その瞬間、
「っ!」
弘也の目に、『全国高校陸上競技大会』の文字が見えました。弘也の幼なじみ・茜の出場した大会の、その結果が新聞に載っていたのです。
「それ借りていいですか!?」
いつにない弘也の剣幕に押された文太は弘也にその新聞を渡します。弘也は、その新聞記事をなめるように見ると、彼女の名前をその記事の中に発見しました。
『短距離走・百メートルの部 第5位・千崎茜』
その名前を発見した時、弘也は無意識に小さく笑みを浮かべていました。
「何かあったのか?」
文太の声で我に帰った弘也は、あわてて顔をその文太に向けます。
「いえ、何も……これ返します」
弘也は新聞を文太に渡すと、そのまま食堂を出て自室に戻り、床の上に横になりました。天井がうっすらと見える薄暗い部屋の中で、電気もつけずに弘也はただボーっとしておりました。
「そうか、あいつ約束を……」
弘也は天井を見つめたまま呟くその口元は、自然とほころんでいました。
それは、弘也が引っ越す前の話にさかのぼります。
引っ越すことを心に決めたその夜、弘也はベッドの上に横になっていました。このことを、茜にいつ伝えるか。それとも伝えないほうがいいのか。弘也の出した決断は、伝えないということでした。
せめてもの数日間、何も知らないほうがお互いにいいと判断したのでした。それこそが、普通の日常を過ごす最後の機会なのだと弘也は考えたのです。
翌日、自分の席についている弘也に、茜が話しかけてきました。
「おはよ、ひろくん」
後頭部で結んであるその長い黒髪をなびかせながら、白い歯を見せるようににっこりと笑う茜の、そのいつもの様子ですら、弘也にとっては自分の胸を締め付けられるような気分に陥ってしまわせるものでした。
「その呼び方はやめろ。何回言わせるんだ、バカ」
「だって、ひろくんはひろくんじゃん?」
日焼けして小麦色になっている肌を覗かせる、黒いリボンのついた青い制服をひるがえしながら、茜は弘也の横に座ります。
「……いまさら、何言っても無駄か」
「うん!」
と、満面の笑みを浮かべながらうなずく茜に、弘也も思わず笑みがこぼれてしまいました。
「お前らいつ結婚するんだ?」
「式は呼んでくれよ」
すると、そんな様子を見て周りが冷やかします。弘也はともかく、太陽のように明るい茜はクラスの中でも割と人気があるらしく、そんな茜とつるまれている弘也に対するやっかみと冗談とを交えての冷やかしがクラスの数人によって毎日のように起きていました。
「本当に結婚しちゃおうか、あたしたち」
ルビーのように濃い赤色の瞳をした茜が、その目を弘也に向けて無邪気に微笑みます。
「バカを言うな」
弘也はそんな茜の頭をぽんと叩き、その場の笑いを誘いました。
昼休み、二人は校庭にある大きな木の下のベンチで、弁当を広げます。
「屋上もいいけど、ここのほうが落ち着くよね。お昼は」
弘也のほうを向いて無邪気に微笑む茜を見て、弘也はなんともいえないもどかしい気分に陥りました。自分が引っ越せば、この日常が繰り返されることはなくなる。その事が弘也の頭の中によぎってしまいます。
「あ、また日の丸弁当?」
弘也のご飯を覗き込み、茜が質問してきます。白いご飯のたっぷりつまった弁当の中央に梅干が置いてあるだけの日の丸弁当が、弘也のここ最近の弁当でした。
「いいだろ、別に」
「もう、何日この弁当にするつもりなのさ?」
「さあな。俺が飽きるまでだろ」
いつも早起きの文也が冷凍食品などを使って作るのが弘也の弁当でしたが、それができない今、弘也が自力で作る弁当はほぼ毎日この日の丸弁当でした。
「はい、どうぞ。これ食べて」
と、自分の弁当から卵焼きとウインナーを取り、弘也の弁当箱にそっと乗せました。
「いいのか?」
「いいのいいの。そんなんじゃ力つかないからね。さ、食べて」
「じゃあ、お構いなく」
弘也がその卵焼きを口に運ぶところを、茜は目を輝かせて見ていました。
「どう? 卵焼き、うまくできてるかな?」
口に運び、咀嚼して飲み込んだ弘也に、不安そうな口ぶりで声をかけます。
「うん。うまい」
「よかったぁ」
茜は言葉どおり胸をなでおろすと、おそらく自分で作ったであろう卵焼きを、口へと運びました。
そうして、弘也と茜の昼休みはいつもと同じように流れていくのでした。
放課後、弘也は職員室に学級日誌を届け、自分の教室へ戻る廊下を踏みしめるように歩いていました。窓越しに写った、意気消沈しているような自分の顔を見て、弘也は苦笑を浮かべます。
教室に戻り、自分の席で帰り支度をしていたそのとき、茜の席に弁当箱の入った布製のケースが残されていることに気がつきました。
「……持っていってやるか、これ」
弘也はそのケースを手に持ち、自分の荷物を肩にかけると教室を後にしました。
校庭に出ると、弘也は陸上部を探して辺りを見回します。しかし、それらしい影はいっこうに見当たりません。
弘也が肩を落とし半ばあきらめようとしたそのとき、後ろから声をかけられました。
「ひろくん? どしたの校庭なんかに?」
ゼッケンのついた青いランニングシャツに黒いスパッツという格好の茜がそこにいました。小麦色の顔には玉のような汗が浮いており、熱を持っているせいか少し赤らんでいます。
「あっ、もしかして陸上やる気になった?」
赤い瞳をきらきら輝かせて、茜は弘也の顔を見つめました。
「なわけあるか。忘れもんだよ」
弘也はそのケースを見せ付けるように、茜の顔の前まで腕を伸ばします。
「あっ、ごめんね? わざわざ」
「気にするな。隣の席が臭くなるよりはまだましだ」
恐縮したようにおどけて見せた茜に、弘也は苦笑を浮かべながらそう言いました。
「おっちょこちょいだなぁ、あたし」
茜は弘也の前に立つと後ろで手を組み、体を傾けて弘也の顔を覗き込みました。
「てっきりキミが陸上やる気になってくれたのかなって思っちゃった」
「なっ」
弘也は一瞬狼狽しました。そのランニングシャツから一瞬だけ二つのふくらみが見えたのです。
「キミと一緒だったらさ、記録伸ばせそうな気がするんだよなー、あたし」
体を起こした茜は、今度は背伸びをするように大きく腕を伸ばしました。彼女の着ているランニングシャツから、日焼けしていない白い地肌が見えました。弘也は、頭を押さえて目をそらすように横を向きます。
「? どしたの?」
「いいから寄んな!」
まゆをひそめ怪訝な顔をして弘也に近づく茜の、スパッツから覗かせる健康的な引き締まった太ももが目に入り、弘也は完全に目のやり場をなくしてしまいました。
その瞬間、遠くのほうからブザーが聞こえました。
「あ、ごめん。休憩終わっちゃったみたい。あたし、行かなきゃ」
「じゃあいつものところで待ってるぜ」
弘也は目をそらしながらかろうじて茜のほうを見ながら、そう言いました。
弘也の言ういつものところというのは、明王寺高校の正門に続く坂道を下って三つ目の信号を左折したところにある、市の公立図書館のことです。茜を待つあいだ、弘也はここで勉強することがほぼ日課のようになっていました。
「もうこんな時間か」
ふと時計を見ると、針は六時三十分を指していました。
勉強道具を片付け、外に出た弘也は辺りを見回します。周りには人一人おらず、 図書館から漏れる光と駐車場の電灯とが弘也の足元を照らします。空を見上げると、すっかり暗くなり、星空が遠い向こうに見えました。
その瞬間、あたりの景色が全く見えなくなってしまいました。目にはほんのりとした温かさを感じます。誰かが弘也の目を覆っているのは明白でした。
「だぁれだ?」
「誰だも何も、こんなことやるバカはひとりしか知らねぇよ」
その聞きなれた声に、弘也は半ばあきれながら答えました。
「ちょっと! バカはひどいよバカは!」
ふくれっ面を浮かべた茜が、弘也の顔にピシッと指を向けます。その服は、さっきとは違い学校指定の制服でした。
「本当のこと言って何が悪い。早くしないとバスが無くなるぞ」
茜を一瞥すると、弘也はかばんを肩に背負ってさっさと歩き始めました。
「あっ、ちょっと待ってよ!」
それに続くように、小走りになって茜は弘也を追いかけました。
バスから降り、家に向かう頃には、もう七時を回っていました。
弘也と茜の話題は、陸上の話題になっていました。
「コーチとか先輩が言うにはね、こう、じゃなくてこう、らしいんだけどね。あたし的にはさ、やっぱりこれのほうがやりやすいと思うんだよね」
クラウチングスタートのやり方について身振りを着けて話す茜を、弘也は黙って見ていました。
この日常が壊れると思うと、いっそ引っ越さないほうが、などと思ってしまいます。しかし自分の決心は変えられない。弘也は、ぶんぶんと二回、すばやく首を横に振りました。
「どしたの? 首でも痛い?」
「……そんなんじゃねぇよ」
茜の話など上の空だった弘也は、茜のそのとぼけた疑問に呟いて答えました。
その弘也の様子に、茜は怪訝な顔をしてその横顔を見ました。弘也の目は、どこかうつろになっているように、茜には見えました。
「あ、そうだ。ちょっとこっち行っていいかな?」
信号のある十字路に差し掛かったとき、茜は弘也の腕を引っ張って、路地裏のほうを指差しながら言いました。
「ああ。構わないぜ」
「じゃ、行こ?」
茜は、弘也と肩を並べながら路地裏のほうへと歩いていきました。
茜の向かった先は、地元ではそこそこ名前の知れている神社でした。常時開いているこの神社に二人は足を踏み入れました。
「やっぱりちょっと怖いね。夜の神社って」
本殿に向かう道すがら、茜は消え入りそうな声で弘也に漏らしました。弘也は、そんな茜を弘也は苦笑交えに見ていました。
本殿に着くと、茜は財布を広げて財布の中の小銭をジャラジャラと鳴らし、百円玉を取り出しました。それを胸元で握り締め、賽銭箱に投げ入れます。
そして、二つ礼をしてから二回手を打ち、手を合わせて拝みました。
きっと口を一文字にしてまじめに拝んでいるその茜の様子に、「はっ」と驚きにも感嘆にも似た感情が、弘也の胸をよぎりました。
「大会で結果を残せるように、ってお願いしに来たんだ。やることはやったし、最後の神頼み、っていうのかな?」
最後に一礼し、弘也のほうを向く茜の顔は、またいつもの柔和な笑顔でした。
(……何が普通の日常だ。結局は俺のエゴじゃねえか)
弘也は、内心で自分の決断を毒づきました。
茜とずっとこうしていたい自分が、弘也の心のどこかにあったのです。しかし、当の茜は夢に向かってまい進している。自分の願望は、それと矛盾したただのエゴだ。
弘也は、茜に引っ越すことを告げる決意を固めました。
そして翌日の放課後、部活が終わった茜を佐久良公園に誘いました。公園は花の盛りで、公園のいたるところに桜の花が咲いていました。
「うわぁ。やっぱり夜に来るときれいだねぇ」
公園の桜の花が白い光を放つ電灯に照らされ、その咲き誇るように咲いている桜の姿を晒します。一枚一枚散るたびに光に照らされた花びらが、その光を受けてきれいに散ってゆきます。
桜の木の下に設置してあるベンチに座った茜に、弘也は缶ジュースを渡すとその隣に座り、おもむろに口を開きます。
「俺、引っ越すことになった」
瞬間、一陣の風が二人のベンチをよぎり、散っていった花びらが弘也たちの頭や顔に降り注ぎます。
「えっ?」
「俺、引っ越す。東京に」
茜は一瞬戸惑うように弘也の顔を覗きましたが、弘也はそれを気にすることもなく遠くの景色を眺めて言いました。
「……そっか」
弘也の二言目を聞くと、茜はベンチに深く座りなおしました。
「悪い。いつ言うか、迷ってた」
「ううん。覚悟は、できてたから」
茜は、遠くを見るような目をしていました。
「キミのおじいさんが倒れちゃった、って聞いた時から」
「!」
自分の隠していたことが茜の口から出てきた。弘也は、計り知れない衝撃が自分の体を突きぬけていく感覚に、動揺を隠せずにいました。
「知ってた、のか……?」
「……うん。キミの、お弁当」
「弁当?」
「いままでちゃんとおかずがついてたのに、急に日の丸弁当になってさ、不思議に思ったんだ。それでお母さんに聞いたら、おじいさんが倒れちゃったんだって教えてくれて……」
茜は一人で話すように弘也に話しました。
「それに、いつもと様子が違うんだもん。何かあったっていうのはわかっちゃうよ」
「バレバレ、か」
「うん。何年一緒にいると思ってるのさ?」
公園に設置されている電灯の光をバックに、泣き笑いを浮かべた茜の顔が、弘也の目に映し出されました。
「……悪い。今まで、黙ってて」
「謝らないでいいんだよ? つらいのは、キミなんだからさ」
静かな空気が二人の間を満たします。そして、茜は突然立ち上がって弘也に背を向けて腕を空に押し上げ、ストレッチをするように腕を伸ばします。
「あーあ。こうならないように同じ高校選んだのになぁ」
弘也にも聞こえるような大きな声で、茜は独り言をしました。そして、弘也のほうを振り返ると、笑みを浮かべながら弘也を見つめました。
「無駄に、なっちゃった」
さっきとは違って小さい、消え入りそうな声で弘也に話しかける茜のその顔は、さっき見せたそれと全く同じ、今にも泣きそうな表情でした。
「……大丈夫だ」
弘也はその閉ざしていた口を開きました。
「……また、会える。お互い死ぬって訳じゃない」
弘也は立ち上がると茜の方を向いて、自分に言い聞かせるように一言一言をかみ締めながら茜に言いました。
「そう、だよね。うん」
弘也の言葉を聴いた茜は、そう呟きました。
「いつ、出発するの?」
「今度の日曜」
「……そか。お見送り、できないんだね」
茜はそう呟くと缶ジュースを飲み干しました。
今度の日曜というのはちょうど茜の出場する全高会の開催日です。前日には現地入りして最終調整を行う予定の茜に、弘也の見送りは不可能でした。
「もし、さ」
唐突に、茜は口を開きました。握ったままの缶コーヒーを飲もうとした弘也は、その動作を止めて隣を見つめます。
「もし、全高会でいい成績残せたら」
桜の花がまたひとつ散り、その花びらが弘也の手につきました。
「キミがこっちに来る時、また二人で遊ぼ?」
茜は今にも消え入りそうな震え声になり、弘也に小指を突き出しました。
「ああ、いいぜ。約束だ」
弘也はそれに自分の小指を絡め、指きりをします。
「うん。約束……」
いつものように八重歯を見せ、満面の笑みを浮かべた茜のその目から一筋の涙がこぼれ落ち、ほほを伝っていきました。
弘也は、一つため息をついて虚空を見上げていました。
弘也には、そのほんの前の出来事ですら遠い昔のことに感じていました。