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らくごもの  作者: 桂正雀
4/13

はじめての落語と石井和巳という男

 帰宅した二人は買ってきたものを手早く冷蔵庫や棚へと入れました。

「でも本当にいいんですか? チケットいただいちゃって」

「いいのよ、そんなの。お姉さんの親切には素直に従うこと」

「……はい」

 弘也が呟くように返事をすると、美雪は腰に手を当てて、うつむく弘也の顔を覗き込みました。

「もし、いらないって言うならお姉さんが払い戻すけど?」

「いや、行かせていただきます。せっかくなんで」

「そうこなくっちゃ!」

 美雪は弘也の肩をぽんと叩き言いました。


「いい? ちゃんと間に合うようにするのよ?」

「ええ。わかりました」

 落語会が始まる二時間ほど前に、弘也に鍵を渡して美雪と文太は出て行きました。

 自室に戻った弘也は、畳の上に横になりました。

(落語、ねぇ……)

 決して身近ではないその単語に、弘也は興味すら抱いたことがありませんでした。それなのに、自分は今それを生業としている人の下で生活を送らせてもらっている。弘也はそんな境遇にいる自分を、美雪に貰ったチケットを見つめて再認識していました。

(文太さんも、美雪さんも……)

 落語家なのか、と、頭の中で思い返しました。頭に白髪をたたえ、威風を感じさせるも、その笑顔には親しみやすさも感じさせる文太。そしてその弟子の、美雪……。

 そして、その思考はいつしか美雪について思い至りました。

 自分のお姉さん代わりになってくれると言ってくれた人。ゆったりとしたウェーブの長髪を揺らしながら小首をかしげて、弘也に向かって微笑んでくれる人。グラマラスなむちむちしたグラビアアイドルのような体をした人。そしてそんな人が腕を絡ませるたびに当たる大きな乳房やお尻……。

 瞬間、バンッ、と大きな音が弘也の部屋に響きます。

 (バカか、俺は……)

 弘也は机を額にぶつけ、卑猥な方向へと向かっていた自分の思考に歯止めをかけました。


 「時間、か」

 居間でテレビを見ていた弘也は、時計を見るとテレビを消し玄関へと出てゆきました。

 外に出るともう日はすでに傾いており、冷たい風が彼のほほをよぎります。

ポケットにチケットがあることを確認し、大通りへ向かい歩き始めました。

 (寒いな……)

 三月後半になり少しばかり温かくなったとはいえ、それでも寒い風が吹き、弘也のほほや耳をよぎっていきます。

 裏路地は車や人もおろか、猫一匹見つかりません。ただ住宅からもれる光と小さな街灯だけが、彼の道を照らしております。弘也は、虎の柄が背中に刺繍してある黒いスカジャンを着て、町の中を歩いていきました。

 裏路地を抜け、大通りに出るとまた違った雰囲気に飲み込まれます。車の通りや人の往来が激しくなり、町の光も街灯もさんさんと輝くばかりでした。

 (少し、眩しいな)

 弘也は細い目を更に細め、その大通りを歩いていきました。


 会場に着くと、多くの客で入場門の前は埋め尽くされていました。

 よく観察してみると、少し早く来てしまったと見えて、入場はまだ出来ない状態でした。弘也は、入場門近くのベンチに腰をかけました。

 スカジャンに細く眼光の鋭い目をした男というその光景に、周囲の目は自然と弘也に集まっています。しかし、彼はそれを意ともせず、ただ光るちょうちんの明かりを見つめていました。


 「おかしいな……」

 チケットがない。

 弘也はポケットの中を探りました。そして、先ほどまで座っていたベンチのほうを探しているうちに後ろから声をかけられました。

 「やあ。これ、君のじゃないかな?」

 声のした方向を見ると、黒のロングコートを着た、三〇代前半くらいの男が立っていました。

 センター分けの黒い短髪のその男は、血色のいい精悍な顔つきをしていました。目鼻の整った顔に、筋肉質な長身の体。まるでテレビに出てくる俳優のようなルックスの良さを誇っているその男は、弘也にチケットを見せます。

 「え、あ……。俺のです、たぶん」

 弘也はその言葉に一瞬目を丸くしました。その男はそんな弘也を見てにっこりと笑い、弘也にそれを渡しました。

 「やっぱりそうか。そこの草むらに落ちてたんだよ、これ」

 そう言って笑顔を浮かべたその男は、手を銃のような形にして弘也を指差し、

 「さぁ、早くしないと開演だよ」

 と、きびすを返して玄関に向かって歩き始めました。

 (あれ? あの人、どっかで……)

 弘也はその男のポーズに既視感を抱きながらも、男のあとに続き、歩いていきました。

 

 チケットを切ってもらった弘也は、S席に移動し、空いている席に腰を掛けました。

 「袖振れ合うも他生の縁、ってね。隣、座らせてもらうよ」

 その男はその隣に座り、笑顔を浮かべながら弘也に言いました。

 「え、ええ……」

 すでにコートを脱いでいるその男を邪険にすることもできず、弘也はただ呟くように返事しました。

 

 しばらく経つと、ついに開演しました。

 お囃子が流れ、着物に羽織を着た文太が出てきました。

 正座をしてから礼をし、音楽が鳴り止むと文太は口を開きました。

 「ようこそお運びでありがとうございます」

 それから文太は雑談を始めます。身振り手振りをくわえて話す、そのたわいもない話に会場の客は笑い声をあげます。

 二分くらい経つと、羽織を脱いだ文太は落語へと切り替えました。

 「ああ、熊さんか……上がっとくれ」

 厳かな雰囲気をかもし出しながら、文太は言いました。

 「どういたしまして、若旦那がお加減悪いってえことを聞いて、いっぺんお見舞いに上がらなくちゃと思ってやしたが、へへへ、貧乏世話無しってんで行けずにすみませんで」

 それとは対照的に少しとぼけた口調で、先ほどまた違う、照れたような笑みで『熊さん』を演じます。

 「それを言うなら貧乏暇無しってんだ。いや、でもありがとう。せがれはひと月前から、具合が悪いと寝込んでしまったが、熊さんの前だけど弱ったことになったよ」

 再び厳かな雰囲気のキャラに戻り、表情もまた硬い表情に戻ります。

 「へえー、ちっとも存じませんで……そいつぁお気の毒でしたねぇ。で、寺だの葬儀社だのは手配済みで?」

 「なんだいその寺だの葬儀社だのってのは。せがれはまだ死んだわけじゃないよ」

 「あっ、まだ死なぇんで。……なんだ」

 「なんだとはなんだ。なんだとは」

 とぼけた表情へと切り替えて別のキャラを演じ、また切り替えて切り替えてと話を進める文太。その切り替えの見事さに弘也は息を呑みます。

 そのうち弘也は、美雪の言っていたことを思い出していました。

 (そうねぇ。一人芝居って言うのとはちょっと違うけど、それに似たような感じ)

 確かに立って好きなように動き回ってやる一人芝居と、座布団の上でしか身動きできない落語とでは少し違います。しかしその本質はほとんど似通っていて、弘也は美雪のその言葉に感心しました。

 「崇徳院、か。十八番だな」

 そう呟いた言葉に反応し、隣を見た弘也に見えたのは、隣に座った男が真剣なまなざしで文太を見ていたところでした。会場がどっと笑ってもその男はまゆひとつ動かさず、ただひたすら文太の芸をなめるように眺めています。

 その男から視線をそらした弘也は、再び文太のほうに目を向けました。

 

 旦那に呼ばれた熊さんは、若旦那から病気の元となっている悩みを聞きだしました。

 若旦那が上野の清水さまに参詣に行ったときに会ったお嬢さんは、「瀬を早み瀬を早み岩にせかるる滝川の」という短冊を若だんなの傍に置き軽く会釈して、言葉も交わさず行ってしまいます。

 これは、「われても末に逢わんとぞと思う」という崇徳院の歌で、別れても末には添い遂げようという心を読んだもので、そのお嬢さんが自分に気があるとわかった若旦那は、それ以来何を見てもあのお嬢さんの顔に見える、というわけです。

 旦那の頼みで、若旦那の恋煩いの相手を探すことになった熊さん。

 手がかりといえば、崇徳院の歌しかありません。

 それから湯屋に十八軒、床屋に三十六軒巡りながら熊さんは「セヲハヤミセヲハヤミー」とがなり歩き、夕方にはフラフラになってしまいました。

 三十六軒目の床屋で突然飛び込んできた男の話し声が聞こえてきます。

 「出入り先のお嬢さんが恋煩いで寝込んでいて日本中探しても相手の男を探してこい、というだんなの命令で、これから四国へ飛ぶところだ」

 「お前かぁー! 若旦那の相手って奴はぁー!」

 これが自分の探していた相手だと確信した熊さんは、もう逃がさねえと男の胸ぐらに武者振りつきます。

 「違う! 俺にそんな趣味はねぇってんだ!」

 「何眠たいこと言ってやがる。俺はてめえん所のお嬢さんに用があんだ!」

 「なんだ? じゃ、てめえん所の若だんなか? 恋煩いの相手ってのは。ならてめえを俺ん家のお(おたな)に」

 「いや、てめえこそ俺ん家のお店に」

 「おい、やめなよ。お……あっ!」

 勢いよくもめあっていた二人は床屋の亭主の忠告も聞かずもめあい、その勢いのまま床屋の鏡を割ってしまいました。

 「おい、鏡を壊しちまって、しょうがねえじゃねえか」

 「いや親方、心配ご無用だよ。割れても末に買わん(逢わん)とぞ思う」

 オチが決まり、会場は大きな拍手に包まれます。弘也も、いつしか拍手を送っていました。

 (それだけで人を笑わせたり感動させたり出来るすごい芸よ)

 弘也は心の中で美雪の言ったことを思い出しました。そして、その言葉をかみ締めるように拍手を送り続けました。


 それから二人目三人目と続き、その落語会はあっという間に終わってしまいます。

 弘也は内に感動を覚えつつ、会場から出ました。

 「よう、少年」

 先ほどまで隣にいた男が、弘也に声をかけます。

 「どうだった? 面白かったか?」

 「ええ……最高です」

 いくら賛美の言葉を並べても、それ以上の感想の言葉は見つからない。そう感じた弘也は、率直に自分の感想を告げます。

 「はははっ、そうかそうか。俺も、今日は来て正解だったと思うよ」

 その男は朗らかに笑いながら弘也の感想を聞いて、そう述べました。

 「じゃ、俺はこの辺で失礼するよ。また会えるといいね」

 会場に入った時のように、手を銃のような形にしてその男は帰っていきました。

 

 「よう、らん馬。お疲れさん」

 楽屋から出た美雪の後ろから男の声がしました。美雪がスッと振り向くと、ある男が立っていました

 「あら、えん馬兄(あに)さん。いらしてたんですか?」

 えん馬と呼ばれたその男は、先ほどまで弘也といたロングコートの男その人でした。

 「もちろん。こういうときに勉強するのが上達の秘訣、ってね」

 その威勢のいい返事に美雪は何も言い返せず、ただ小首をかしげてその男の笑顔を見ていました。

 「そうだ。今から師匠の家に行ってもいいかな? 師匠と飲んだ酒、まだ余ってるだろ?」

 その男はおもむろに話を切り出しました。

 「あ、はい。師匠に連絡を取ってくだされば、私は構いませんよ」

 「分かった」

 と、その男はスマートフォンを取り出し、文太のダイヤルを回します。

 「……ええ。はい……あ、いいんですか? ありがとうございます。では、失礼します」

 電話を切り再び視線を美雪のほうに戻した彼は、スッと親指を立てました。

 「いいってさ。三人で呑みに行くそうだから留守でもしてろって」

 「ああ。飲みにいくって言っていましたね、そういえば」

 「相変わらず抜けてるんだか抜けてないんだか」

 鼻で笑ってそう言う男に、美雪は真面目な顔つきになります。

 「もう、からかわないで下さいよ」

 「ははは、そうむくれるなよ」

 その男は美雪の隣に立ち、笑い声を上げました。


 そんなこんなで二人は文太の家に着き、美雪は「ちょっと待ってください」と言ってその男に居間で腰を下ろさせました。

 「弘也君、いる?」

 引き戸一枚隔てて弘也に声をかけると、引き戸が開き弘也が姿を見せます。

 「なんですか?」

 「君にね、会わせたい人がいるのよ。来て」

 美雪の先導で居間に着いた弘也は、その瞬間「あ」と声を出しました。

 「あ、君か。師匠が引き取った子どもってのは」

 男は弘也に近づき、弘也の肩に手をぽんと置きますと、自己紹介を始めました。

 男の名前は石井和巳(いしいかずみ)。落語家としては前座、二つ目、真打と 登っていく階級で言うところの二つ目という地位にあって、芸名を六角亭えん馬といいます。

 「どうぞごひいきに」

 笑顔を浮かべながら、和巳はよっこらせとテーブルの近くに腰を落としました。

 「えん馬兄さんは俳優としても活躍してるのよ。昔特撮にも出たことがあるとか」

 「ああ、もう九年位前かなぁ。レギュラーを貰ったんだ。作品名は……」

 その瞬間、弘也がどこか見覚えのある顔だと思った理由がようやくわかりました。

 「一切必札(いっさいひっさつ)カーディオン」

 弘也と和巳の声がピタリとかぶさり、二人は思わず顔を向け合いました。

 「そうか、君が子供の頃になるのか」

 「ええ、まあ。そう、ですね」

 弘也にとってその名前はあまりにも特別でした。弘也が小学生の時に大好きだったヒーロー。そして、弘也が事故にあったときに見に行ったヒーローショーの主役。それが、一切必札カーディオンなのです。

 「もしかして、役も覚えてたりしちゃうかな?」

 「たぶん。ディア・カーディオン……ですか?」

 「そうそう!」

 「やっぱりそうですか」

 弘也は自分の好きだったその作品を、うろ覚えながら覚えていました。

 「確かトランプのダイヤがモチーフになってて、主人公の先輩で……」

 「いや結構覚えてるもんだねぇ」

 弘也のその言葉に和巳は満面の笑みで聞いていました。

 その話で二人が盛り上がっている時、美雪がひとつせきをします。

 「そういう話は座ってからに……」

 「ああ悪い悪い。弘也君、座って話そうか」

 頭をぽりぽりかきながら弘也に座るように促した和巳に、美雪は

「すぐお茶をお持ちしますね」

 と声をかけ、食堂のほうへと向かいました。

 

 二人は、美雪が戻ってくる間ずっとカーディオンの話をしていました。そして美雪が戻ってくると、二人は出されたお茶をズズッとすすります。

 「二人はいったいどういうお知り合いなんです?」

 二人の事情を知らない美雪は、和巳に疑問をぶつけました。

 「ああ。落語会の席がちょうどこの子の隣になってね。ええっと……」

 「高橋弘也です」

 自分の名前を言っていなかったことに気がついた弘也は、言葉に詰まった和巳に名前を言いました。

 「そう、弘也君」

 それから、和巳は入り口での出来事の顛末を語りました。

 「落語とは不釣合いな、怖そうな奴とは思ったんだけどね」

 「そんなことがあったんですか」

 空になった和巳の湯飲みにお茶を入れながら、美雪は感心したようにあいづちを打ちます。

 「最低な野郎ですよ。人から貰ったもん、なくしちまうなんて」

 弘也は自嘲するように呟きました。

 「まあ結局見つかったんだからいいじゃないか。結果よければなんとやら、だよ」

 「そうよ。それで君が入れなかったとしても、お姉さん怒ったりしないわよ」

 美雪が弘也の肩をつかみ、説得するような口調で弘也に付言します。

 「なんだいその『お姉さん』ってのは?」

 和巳は抱いた疑問をそのまま美雪にぶつけます。

 「何か、弘也君を見ていたら弟のように思えてきまして……」

 「なるほどねぇ。弟を甘やかすお姉さんってわけか。ははは」

 「からかわないでくださいよ」

 二人のやり取りを見ていた弘也は、なんだか後悔していたことがバカバカしく思えてきていました。

 

 「じゃ、らん馬。師匠によろしく」

 指を銃のような形にして美雪を指差してウインクすると、そのままコートを風になびかせ歩いていきました。

 「しょ、しょ、証城寺証城寺の庭はつ、つ、月夜だみーんな出ってっ来い来い来い」

 風になびかれながら歩くその男の歌声が、風に乗って聞こえてきました。

 「何だアレ……」

 「相変わらず子供っぽいていうか、なんていうか……」

  弘也はポツッと呟き、美雪は和巳の後姿を見て微笑みながら言いました。

  和巳の姿が闇の中にまぎれて見えなくなっても、その歌声はかすかに聞こえてきました。

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