上野散策と寄席への招待
そして二八日がやってきました。
ベージュ色のカーディガンを身につけ、首から葉っぱの形をかたどったペンダントを首にかけて小さなかばんを提げた美雪は、玄関先で弘也が出てくるのを待っていました。
「お待たせしました」
白い糸で龍の刺繍が施してある、黒いポロシャツを着た弘也が玄関先に現れました。その服装に美雪は思わず目を丸くさせます。
「弘也君、なんていうか……凄い格好ね、それ」
「こういう服が好きなんですよ、俺。なんだったら着替えてきますけど?」
「そんなことないわよ。ただ、目に慣れない服だったから、ちょっとね。さあ行きましょ。準備はいいかしら?」
「ええ」
弘也の返事を受けて玄関を出た二人は不忍通りを直進し、上野広小路のほうへと下っていきます
「そうねぇ。まずはアメ横に行ってみようかしら」
と、歩きながら美雪が呟くのを聞き流し、弘也は迷わないようにと彼女についていくことに専念します。
家から離れ、不忍通り沿いに歩いていくと、それはありました。
通称『アメ横』と名乗るその商店街は、大変な賑わいを見せていました。
地元の人らしき軽装の老人やリュックサックを背負った外国人観光客、地図を片手に学生服を着て歩く修学旅行生など道行く人道行く人さまざまな様相をかもし出しながら歩いています。
「これは……」
田舎で生まれ育った彼はその凄さに圧巻されてしまい、しばしたじろいでそう呟きます。
「どう、迷子になっちゃいそう?」
そんな様子の彼を見て、くすくす笑いながら美雪は話しかけると、弘也は正直に「はい」と答えます。
「ふふっ。なんなら手をとってもいいのよ?」
「い、いいですよ。そんな」
そう言って、うつむく弘也の背中に美雪はぽん、と手を置きました。
「じゃ、行くわよ」
二人は『アメヤ横丁』と書かれたアーチをくぐり、人ごみの中へと入って行きました。
大きな声の客呼びや通り抜ける観光客の声でにぎわっているアメ横通りを歩きながら、二人は肩を並べて歩きます。
「アメ横って、実は語源が二つあるのよ」
美雪は隣を歩いている弘也に声をかけます。手をポケットに入れ、辺りを見回している弘也は美雪のほうを向きなおりますと、美雪の言葉を待ちます
「ひとつはね、アメリカ横丁。戦後、米軍さんの流通品が増えてそう呼ばれたのね。もうひとつは、アメを売る店が多かったからなの。本当は別々に考えられてたんだろうけど、たぶん混同しちゃったのね」
「へえ……」
「さっきも見たとおり上野駅のほうから入るとアメヤ横丁って書いてある門が残ってるんだけど、そう名乗ってた時の名残がそれね」
人差し指を立てながらパチッとウインクをして解説する美雪の言葉に、感心しながら相づちを入れます。
「あ、あそこ行ってみない?」
と美雪が指差した先にあるのは、駄菓子屋でした。三ツ屋菓子店と名乗るそこは、昔からある老舗の駄菓子屋です。
「ええ。いいですよ」
と弘也は返事をします。
「じゃあ、決まりね」
と、美雪は弘也の手を取って中へと入っていきました。
その駄菓子屋を皮切りに、二人はアメ横のいろいろな店を巡りました。
海産物やお茶、乾物屋などの食品店を始めとして、化粧品や服飾の店や、果てはゴルフ専門店やミリタリーショップなどが連なるアメ横界隈は、昼前になると混雑を極めます。
「凄い人だかりねぇ」
その人だかりに、美雪は目を細めました。
「いや、そんな人事みたいに……」
言いかけたとたん、弘也の腕にムニュッとやわらかい感触が当たります。
(なっ!)
弘也の腕を取って歩き始める美雪の大きな胸が、弘也の腕に当たっていました。弘也の顔は一瞬でゆでだこのように赤く染まります。
「こうすれば安心……あら? どうかしたの?」
そんな弘也の様子を見て、不思議そうに小首をかしげる美雪の視線から、弘也は顔を背けます。
「いや、あの! 俺は大丈夫ですから離してください!」
弘也に言える言葉は、もはやそれだけでした。
「そう? それならいいんだけど……」
美雪は弘也の腕に絡めた自分の腕をそっとはずし、再び歩き始めます。
「あら? 何の匂いかしら」
なにかを焼く匂いを感じた美雪は、その匂いがする方向へと歩いていきました。その匂いの元はケバブ屋で、美雪はその匂いに釣られて1個注文しました。
「うーん、おいしいわぁ」
店先で、熱いケバブをほおばりながら、美雪はこの上ない満面の笑みを浮かべてそう言いました。そんな彼女をじっと見つめていた弘也の目線に気がついた美雪はまた一口ほおばりながら弘也にお金を渡します。
「ふぁふぇたひんふぁっふぁら、ふぁってひてひひふぁほ(食べたいんだったら、買ってきていいわよ)」
「はい。ならいただきます」
と言いつつお金を貰った弘也は店内に戻るとケバブをひとつ注文し、外に出て二人並んで食べ始めました。
「さぁ、次ね」
「ま、またですか……。てか腕! ……って聞いてねぇな」
美雪はさっきのケバブを皮切りに、コロッケやから揚げなどここ界隈の食べ物を食べつくさんという勢いで、弘也の腕と自分の腕を絡めて引きずりまわります。
「次で最後、次で」
「何回目ですか。そのせりふ……」
弘也は半ばあきれたようにそう呟きましたが、美雪の耳には届いていないようで腕をぐいぐい引っ張りながら先へ先へと進もうとします。
「うんっ、おいしっ」
デザートにアイスクリームをほおばる美雪を傍目で見ながら、その景色を堪能するように辺りを見回します。
瞬間、彼の目に二人組の男が路地裏で何かを囲っているのが映りました。
「美雪さん、ちょっといいですか?」
「ん? どうしたの? もしかしておトイレかしら?」
「……ま、そんなところです。ここで待っててください」
美雪のとぼけたようなその言葉に、弘也は適当な相づちを打ってその路地裏に向かって歩いていきました。
近づいてみると囲まれていたのは小柄な少女のようで、その子を二人の男がナンパしているように見えます。
「いいじゃんかー。デート行こうよ! ねっ」
どくろの模様が描かれたスカジャンを着た男が少女に向かってそう言うと、隣のニット帽をかぶった男がそれに便乗し軽い口調で話しかけます。
「そうだよー。楽しいよ?」
「その、こ、困る、から」
それに対してその少女はレジ袋で顔を隠しながら、小声でその男に返事をします。
「困ることなんかないよー。ねっ、行こっ!」
スカジャンの男がその少女の手をつかみかけたそのとき、弘也はその男たちに声をかけました。
「あんたら、人に迷惑をかけるなって子供の頃教わらなかったか?」
「さあ? 知らねぇな」
「ああ、だからそんな馬鹿に育っちまったのか」
弘也は鼻で笑いながら、その男達を挑発するような目で見ました。
「てっ、てめぇ!」
隣のニット帽の男が弘也に殴りかかろうとこぶしを振りかぶりました。弘也は、そのこぶしを右手で払いのけると、自分の腰からその男の顔面すれすれへとこぶしを放ちます。
そのこぶしにおびえきったその男を見据えていると、背後からもう一人の男が弘也に襲い掛かりました。
弘也はそれをよけ、足を後ろへと勢いをつけて旋回させます。その男の顔面すれすれで止まったその風を切らんばかりの勢いの足に、男は恐れをなして縮こまってしまいました。
「二人がかりでそれか。ザマァねえな」
弘也は二人を鼻で笑うと、その少女に目線を送って別の小路へと入りました。
人通りのまばらな小路に入った弘也は、改めてその少女のほうへと振り向きます。
「大丈夫か? ケガは?」
その少女のほうを向くと、少女は首を横に振りました。
「ならよかった。怖い思いさせちまったな、悪い」
弘也はその少女に小さく頭を下げました。
「あの、こっちこそ、ありがとう……ござい、ます」
龍のポロシャツを着た、不良のような見た目の弘也にびくびくしながらも、少女はクッと頭を下げます。弘也はその少女にふっと笑いかけます。
「顔、上げてくれ。俺はあの手の人間が嫌いだってだけだよ。大したことはしてねぇ」
その言葉に反応した少女は、おずおずと顔を上げます。
その瞬間、弘也は息を呑みました。
「あの、何か?」
上目遣いで弘也を見つめる、くりくりしたサファイアのような青い目。通った鼻筋に、色素の薄い唇。 そして、前髪をそろえたおかっぱ頭のような髪型が、子どものようなあどけなさを更に印象付けます。
少女の身につけたフリフリのついた黒いブラウスが彼女の白い肌を強調させ、低身長でほとんど膨らみのない寸胴の体型とあいまって人形のような様相をかもし出しています。
「いや、悪い」
自分から視線をそらした弘也の不自然な態度に小首をかしげて、弘也を見つめます。
「また、どっかで会えたらいいな。それじゃ」
弘也はパッと背中越しに手を上げ、その少女の前から立ち去りました。
「あ、帰ってきたのね」
アイスクリームを饅頭に変えた美雪は、弘也に手を振ります。
「そろそろ、アメ横出ましょうか?」
「ええ」
「じゃ、行きましょ」
饅頭を一口にほおばり、弘也の腕を取った美雪はすたすたと歩いて出て行きました。
アメ横から出た二人はそのまま北上し、上野恩賜公園を歩いていました。
公園内にある不忍池には、鳥が群がって池の表面を楽しそうに遊泳しています。
「あの、ひとついいですか?」
弘也は昨日から不思議に思っていたことを美雪に質問しました。美雪をらん馬と呼ぶ文太に、文太を師匠と呼ぶ美雪。二人の関係がどういったものなのか、弘也は気になっていました。
「え? もしかして聞いてないのかしら?」
美雪は、驚いたような目で弘也を見つめました。
「ええ。引っ越せ、と言われただけですから」
「なら、教えてあげるわ。らん馬っていうのは私の芸名よ」
「芸名?」
弘也は、怪訝な目で美雪を見つめました。
「そう。私と師匠は噺家さん、つまり落語家さんなの。私は、六角亭らん馬って言って、師匠が六角亭さん馬っていうのよ」
「落語家って、日曜にやってる座布団取ったり取られたりしてる人ですよね?」
「そうよねぇ。若い人には縁が無いもん。分からないわよねぇ」
笑いながら一人で満足したようにそう呟く美雪に、弘也はどことなく嫌悪感を覚えました。
「じゃあ落語ってどんなやつなんです?」
「そうねぇ。一人芝居って言うのとはちょっと違うけど、それに似たような感じ。でも、それだけで人を笑わせたり感動させたりできるすごい芸よ」
美雪はパチッとウインクをして得意げに言います。
上野恩賜公園を抜け、不忍通りを千駄木方面に抜ける途中で美雪は立ち止まりました。
「ほら、着いた。見てみて」
と、指差す方向には、大きな和風の建物がありました。『山城亭』と書いてあるその入り口の近くには、看板が立っています。
『演技派三人の集い ―笑って泣いて、また笑って―』と銘打った看板の、その左上に文太の写真が載っていました。
「ほら、師匠の芸名載ってるでしょ」
指差したその看板の場所には、確かに六角亭さん馬という名前が載っています。
「ああ、本当だ」
弘也はその名前の欄と文太の写っている写真とをしげしげと見つめました。
「……実を言うとね、ここに来たのには理由があるの」
と、美雪はポケットから一枚の封筒を取り出しました。
「今日の席のチケット。あげるわ」
「師匠からのお達しなの。君にこれをあげなさい、ってね。どうぞ」
「いいんですか? ただで見ちゃって」
「いいのよ。それくらい」
弘也は礼を言いながらその封筒を受け取り、そのチケットの紙面を見て驚きました。
『S席・三千五百円』と書かれたチケットを見て弘也は思わず美雪のほうを見上げます。弘也のそんな様子を見た美雪はそっと微笑んで、弘也の顔をそっと見つめて言いました。
「どう? 行ってみないかしら?」
「……わかりました。伺わせていただきます」
弘也はそれに気おされるようにうなずき、返事をします。
(つっても、そんなに興味わかねぇしな……。まあ貰った以上行くしかねぇか……)
弘也はその貰ったチケットを見つめ、そんなことを思っていました