引っ越しと二人との出会い
「はぁ……」
彼にとってこれは何度目でありましょうか、またため息をつきます。
まだ少し寒い春の、その日差しを受けるホームの乗り口に、彼はたたずんでいました。
長身の、それなりにやせているその体を誇るようにたたずんだ彼は、缶コーヒーを口に運んでまたため息をひとつつきました。
「まもなく快速、上野行きがまいります。黄色い線までお下がりください」
構内アナウンスが響き、新幹線にも似た形の快速電車が到着します。彼はそれに乗り込んで、指定した席を探してすっと座ります。
窓から見える景色はいつものそれと変わらず、彼を少し複雑な気分にさせます。
窓の外を見つめるその目は細く切れ長で、常に何かを睨みつけるような鋭さを回りに感じさせ、怖いという印象を植え付けることが幾たびもありました。
「お待たせいたしました。上野行き、まもなく発車いたします」
ドアがプシューと閉まります。そして、静かにその電車は加速し始めます。
(ま、すぐに帰って来れる距離なんだ。そんな気落ちすることもねえか)
そうは頭の中で思っていますがどうも彼自身の感情と符合せず、ため息を繰り返す。先ほどからその繰り返しでした。
彼、高橋弘也が育った故郷を出発した電車は、ホームからだんだん離れていきます。
弘也は手に握った缶コーヒーを口に運び、またひとつため息をつきました。
「ここ、か」
住所と簡潔な地図を頼りにたどり着いたそこは、平屋の立派な家でした。そんな建物を見慣れていない弘也は、それがノスタルジックな様相をかもし出しているように感じました。弘也はその和風然とした概観に圧倒されてしばしたじろぎましたが、無造作に撫で上げ、スプレーで固定した髪をそっと撫で、インターフォンを鳴らします。
がらっとすりガラスのちりばめられた引き戸が開きます。そこから、一人の女性が弘也を出迎えました。
「いらっしゃい。君が、弘也君かしら? 話は伺っています。私は、島津美雪。よろしくね」
島津美雪と名乗るその女性は弘也に自己紹介しましたが、肝心の弘也はそんな彼女をじっと見つめて、どこか上の空でした。
(えらく若い人だな……)
澄んだ灰色の瞳を持った、大きくパッチリした眼や、小さく柔らかそうな唇。ウェーブのかかった茶色く染まった髪が、彼女の大人びた様子を感じさせるも、その顔はどことなく幼い印象を与えます。
その体は肉づきがよく、豊満とも言うべき体つきではありますが、太っているというふうには見えず、グラビアアイドルにも劣らぬスタイルを誇っています。その体は、彼女に大人っぽさを感じさせる大きな要因になっていました。
「どうしたの? そんなコワい顔して」
美雪は腕を組んで、人差し指を彼女のつやのよい肌に当て、小首を傾げます。
腕を組むと、彼女の大きな胸が茶色いタートルネックのセーターによって更に誇張されます。その様子に目のやり場を失った弘也は、美雪から視線をそらしました。
「いや、その、なんでもないです」
「……? まあ、いいわ。案内するからついてきてください」
美雪は、きびすを返して歩き始めます。それに続いて弘也は玄関先で失礼します、と声をかけ中へあがっていきました。
くすんだこげ茶色をしている柱や、黄ばみがかっている障子紙など、風情を感じさせるその家の中を二人で縦に並び足を進めていきました。が、不意に彼女はその体をくるっと振り向かせ、弘也に対して問いかけます。
「こんなところまで、遠かったでしょう?」
「正直退屈でした。やることもないし」
「素直ね。ふふっ」
そう弘也がストレートに答えると、彼女は口に手を当ててクスクス笑いました。
「着きました。ここが師匠の部屋です」
そう言うと彼女は、障子の前に正座しました。
(師匠? どういうことだ?)
そんな美雪の一言が、弘也にはどうも気がかりでした。
「失礼いたします」
そんな弘也のことを一瞥することもなく、美雪は障子の向こうに声をかけます。
「入っていいぞ」
障子の奥に声をかけると、低めの落ち着いた声が帰ってきました。
「はい。失礼します」
正座をしたまま彼女は障子をすっと開け、三つ指をついて一礼します。その先には、黒い着物を着た壮年の男性が、キセルを吹かせながら二人を見つめていました。
白髪を蓄えた豊かな毛髪。しわが深く刻まれたその顔に、眼光の鋭い大きな目。いつしか見た任侠映画に出てくる壮年のヤクザを想起させるような、そんな風貌を男はしておりました。
(随分といかつい顔だな……。人のこと言えた義理じゃねぇけどよ)
弘也はその男性の顔を見入るように見つめます。
「高橋弘也君をお連れいたしました」
脇では、美雪がその男に深々と礼をしていました。
「下がっていいぞ、らん馬。あとで、お茶を持ってきてくれんか?」
「はい。ではこれで」
美雪はその場から立ち上がると、一礼をして障子を閉め出て行きます。
(らん馬? 美雪、じゃなかったのか? いったいどうなってやがる)
弘也は心の中で、上の空になりながら聞いていた美雪の自己紹介の内容を思い出していました。
「お前さんが、弘也君か。……うん、君の爺さんによく似てる」
その壮年の男は先ほどまでのいかつい顔とは違った柔和な笑顔で彼の顔を覗き込み、そう呟きます。
「改めて自己紹介だ。私は渡瀬文太という。よろしく」
文太と名乗ったその男は、弘也に向かって深々と頭を下げます。
「高橋弘也です。これから、よろしくお願いします」
弘也も頭を下げ、お互いに軽い自己紹介を終わらせたそのタイミングで、美雪が湯飲みと急須を持ってきました。
「お茶をお持ちしました」
「うん。下がっていいぞ。らん馬、あとでこの家を案内してやんな」
「はい、わかりました」
美雪は軽く一礼して、そのまま退室しました。
「さ、まずは一杯どうぞ」
文太は急須からお茶を注いで弘也にそれをあてがい、飲むようにと勧めます。
「はい、では」
先ほどからのどが渇いていた弘也は、ふーふーと軽く冷ましグイっとお茶を仰ぎます。
「あつっ!」
弘也にとってそのお茶はとても熱く、少し戻しかけましたがグッとこらえそのまま飲み込みます。
「さすがに熱かったかい? そいつは悪かった。俺は熱いほうが好きなんでね」
同じようにお茶をすすった文太は、まゆひとつ動かさず弘也のほうを見て微笑みながらそう言いました。
「ま、ひとつ姿勢崩してリラックスしてくれ」
「ではお言葉に甘えて」
よいしょっと姿勢を崩してあぐらをかき、お茶が冷めるまで弘也は彼の部屋を見回しました。
弘也の目は床の間に飾ってある立派な活花のしてある壺や、その横にある掛け軸などに向かいます。
「そいつはな、お前さんの爺さんから結婚の記念にってもらったやつだ」
掛け軸を見ていた弘也に気が付いたのか、文太は弘也にそう声をかけました。
「そう、ですか」
それから少し経ち、弘也が少し冷めた茶を飲むところを見ると、文太は声をかけます。
「遠路はるばる、ってところかな?」
「いえ、そうでもないですよ。お金さえあれば充分に地元に帰れます。だからこそ少しもどかしいんですけどね」
「ははは、そうか」
と一口茶を飲み、文太は質問を続けます
「どうだい、ここの雰囲気は? 慣れそうか?」
「田舎に慣れているとどうも難しいです。慣れるにはあと少しかかりますかね」
「そうか。ま、ぼちぼち慣れるさ。お前さんの爺さんもここいらに住んでたんだからな」
「そう、らしいですね。詳しくは聞いていませんけど」
昔のことを思い出しため息混じりに呟く弘也ですが、ふと顔を上げ文太に気になっていたことをぶつけます。
「あの、祖父とはいったいどんな……」
その質問に文太は一瞬ビクっとしますが、平静を取り戻すようにお茶を飲んで答えます。
「昔少しな。なに、詳しく話すまでの話じゃあない」
文太はそれだけ答えますと、今度はこちらから向こうでの生活などを聞き返します。
「ふうん。それじゃお前さん、東京に来るのは初めてじゃあないんだね?」
「まあ、そういうことです」
単調な会話が続く中、文太はふと顔を上げ壁の時計を見ます。
「さて、お茶も切れたところで、ここにずっといるのも気が引けるだろうから、美雪に家ん中案内してもらいな」
「はい。ではこれで」
立ち上がろうとする弘也を止めますと、文太は、
「いや、待ちな。美雪をこっちに寄越すから」
と言って携帯電話を取り出し、電話をかけました。
「あ、俺だ。うん、そうだ。頼んだぞ」
と電話を切った少しした後、障子の奥から彼女の声が聞こえます
「弘也君に家ん中案内してやんな。大事な客だからな、丁重に頼むぞ」
「わかりました、では弘也君。こっちへ」
美雪が礼をすると、弘也もそれにならって礼をします。
「じゃあ早速案内するわね」
と、美雪が弘也の前に出ますと歩き始めます。
「さっきが師匠の、文太さんの部屋です。隣にあるのが君の使う部屋で、反対側に仏間があるわ」
そして、また少し歩くとふっ、と止まります。それはちょうど廊下がTの字に交差しているところでした。
「ここの突き当りが私の部屋で、物置、風呂、トイレって続いてるわ。で、その奥の扉の部屋が食堂ね」
今度は美雪の部屋から正面に少し歩きますと、ここで足を止めます。
「右側がさっきも言った仏間。つまり君の部屋の前の扉からでも入れるってことになるわね。その反対側が客間。師匠のご友人がここによく飲みに来るわ」
更に先に進み、玄関にまいります。
「ここの廊下の左側に突き当たって曲がると食堂に着くし、右側に突き当たって曲がると倉庫があります」
美雪は少し背伸びをすると、弘也のほうを振り向きます。
「大体こんな感じね。何か、質問はあるかしら?」
「いや。特には……」
「そう。私でよかったら、また声をかけてちょうだいね」
弘也は先ほど案内された自室に行きますと、その部屋の中を見渡します。
それは三畳あまりの小さな部屋でございますが、とりあえず必要と思われる布団や四段のたんす、折りたたみの小さなテーブルが完備されており、過ごしやすさという面では申し分ないように弘也には思われました。
「ふう」
彼は荷物を置くと、洋服などもしまわずにそのまま大の字になります。
(疲れた……)
文太や美雪の前で強がっては見せたものの、重い荷物を運び徒歩で十数分歩き回るのは、体力に自信のある弘也にとってもさすがに苦痛でありました。
外を見ると、昼下がりの輝いた太陽が弘也の部屋に差し込みます。
(眠いな、しかし)
突然襲ってきた眠気に任せ、弘也は目をつぶってそのまま深い眠りに沈んでいきました。
夢を見ました。
それは弘也にとって悪夢とでも呼ぶべきものでした。
「お父さん、お母さん。楽かったね遊園地!!」
それは、幼き日の弘也少年が発した言葉でした。この夢は、いつもこの一言から始まります。
弘也の父親が残業で取れた休暇を、弘也が前からねだっていた遊園地に行くことにあてがい、今まさにその帰路でした。
弘也は遊園地からの帰りに手に入れた、当時流行っていた一切必殺カーディオンというヒーロー物の玩具を手に持っています。
「チェンジアップ! スペア・カーディオン!」
と言って、カーディオンの主人公のポーズを、弘也は取ってみせました。
「変身するのはいいけど、ショーがあるからって勝手に動くなよな、探すの大変だったんだから。まあ、好きなのは分かるけどさ」
運転していた弘也の父親がため息交じりにそう言うと、それに便乗する形で、助手席にいる母親が弘也をたしなめます。
「それに、シートベルト付けなさいって行く時も言ったじゃないの! 危ないでしょ! お父さんとお母さんに迷惑かける気?」
母親にそう叱られ、乗り出した体を引っ込ませます。
「あ、ごめんなさい」
と平謝りする弘也に母親はあめを差し上げます。
「それでよし。食べる?」
「うん!」
と、弘也少年があめをほおばったまさにそのとき、彼の目の前は光に包まれました。
「もしもし! 大丈夫ですか! もしもし!」
見知らぬ人の声が、弘也の耳元に届きます。
目を開けると、白っぽいものを頭にかぶった男の人が自分の顔を覗き込んでいるのが分かります。そして意識がはっきりするにつれ、それがいつしか学校で習った救急隊員のそれだと分かりはじめました。
「お父さんと、お母さん、は……?」
起き上がった瞬間弘也の目に入ったのは、変な形に曲がった自家用車でした。
「……」
救急隊員の彼は黙っていました。弘也が助かったこと自体が奇跡的なもので、両親は助からなかったのです。
(助けなきゃ!)
その沈黙の意味もわからずに起き上がろうしたその瞬間、弘也の体に激痛が襲いました。
「無理しちゃダメだ! 君は大怪我を負っているんだよ!」
(そんなこと知るもんか! 僕は……僕はっ! 僕はヒーローになりたいんだ!)
弘也があこがれたヒーローのように、弱い者や困っている者を助けたいというその気概だけで体が動けるわけもなく、彼が動こうとするそのたびに体に電流が流れます。
そして、彼が気を失う最後に見た光景は、暗闇の中で光が炸裂し、先ほどまで乗っていた車が紅蓮の炎に包まれる、まさにその瞬間でした。
(そ、そんな……。僕が、迷惑をかけたから? 僕のせいでこうなったの!?)
弘也の頭の中には、そのことだけがぐるぐると回っていました。
彼ははっと目が覚めました。
「またあの夢か……ふざけやがって」
そう一言だけ悪態をついた弘也は、再び夢の世界へと入っていきました。
「くん……ろやくん……弘也君」
深い眠りの底から彼を引っ張りあげたのは、美雪でした。彼女は弘也をゆすり起こしていました。
「あ、ああ……おはようございます」
「もう『おはよう』じゃなくて『こんばんは』の時間よ」
弘也は腕につけていた腕時計を掲げ、時刻を見ます。時計は、四時を示していました
「もうこんな時間か。長いこと寝てたんですね、俺」
「そうなるわね。ぐっすり寝てたみたい」
「それで、何か用ですか?」
弘也は体を起こしながら、彼女に答えます。
「私と師匠、出かけるから留守番頼めないかしら? 家の鍵、渡しておくわ」
「ええ。わかりました」
弘也が二つ返事で了承すると、正座をしていた美雪はすっと立ち上がってドアノブに手を掛けたそのとき、振り返りました。
「そうだ。お土産買ってくるわ。何がいいかしら?」
「なら、カレーパンかメロンパンお願いします」
「え?」
弘也のその答えに、美雪は驚いた表情を浮かべて固まります。しかし、すぐにその朗らかな微笑に戻りました。
「分かったわ。有名なとこの買ってきてあげる。じゃあ、留守番よろしくね」
美雪がそっとドアノブを押し、外に出るのを見届けるた弘也はそのまま部屋の中に布団を敷き、ポケットから読みかけの小説を取り出すと、横になって読み始めました。
やがて本も読み終わり、弘也は部屋の外に出ることにしました。
玄関のほうまで出ると、倉庫に向かう側の廊下に二つ並んでいるイスを見つけます。弘也は、そこにどかっと座り込みました。
しばらくそこに座っていた弘也は、そこから窓の外を見ようとイスから立ち上がって、閉まっているカーテンをそっと開けます。
窓の外には、月が出ておりました。その手前には大きな木が生えており、そこから漏れる淡い月光が彼の立っている窓際まで届きます。月光に照らされた木が織り成すその奇妙な幾何学模様は、強い風が木を揺らすたびにその形を変え彼の服に届き、影を作りました。
(なんつうか、いいな)
田舎暮らしとはいえ庭などなかった家で育った弘也は、その景観にしばし感嘆していました。
(それにしても、出かけるったってどこに行ったんだ?)
ふと出て行った二人のことが気にかかりましたが、すぐに頭が切り替わります。
(ま、俺の気にすることでもねぇか)
弘也はそのまま、そのイスに座り、ずっと外の様子を眺めていました。
「お疲れ様でした。師匠」
「うむ」
文太と美雪が帰ってきたのは、弘也がイスに座ったままうとうとしていたまさにそのタイミングでした。
「あら? 弘也君。すいません、すぐ起こします」
美雪が駆け寄り弘也を起こそうと駆け寄りますが、文太はそんな彼女を呼び止めます。
「やめときな。口じゃ平気だなんだ言っといて、ほんとのところは疲れてんだろうからな。土産もんだけそこ置いといてやれ」
美雪はわかりました、と答え、彼の足元に買ってきたメロンパンの入った紙袋を置きます。
「お供えもんとは仏様かでなきゃ神様だな、弘也君は」
ははは、と笑い声を上げながら文太は、自分の部屋に帰っていきました。
「ご飯よ、弘也君」
いつの間にか目が覚め、ボーっとした状態の弘也は、遠くから聞こえる美雪のその声でしゃきっとなりました。
「今行きます」
そう言ってイスから降りると、足元の紙袋に引っかかります。
「もしかしてお土産ってやつか……? まあいいか。行こう」
そのまま紙袋を持ち、廊下を歩き、食堂へとたどり着きました。
「君の席は、そこね」
長い髪を結び、エプロンを掛け、お玉を持った美雪が弘也に席を促すと、そのまま振り向いてとん汁をお椀にすくい、盆の上にぽんと置きます。
「今日は豪華よー!」
その言葉どおり、机の上にはオクラのサラダ、さばの味噌煮、カキフライ、納豆ご飯と精のつきそうな料理が並んでおります。
「まあ、カキフライは冷凍なんだけどね」
美雪は弘也の前にコトッととん汁を置いて、弘也を見ながらクスクスと笑ってみせます。
弘也はその豪華な膳の前に何も言えず、ただ固まっていました。
「さて、私は師匠を呼んでくるわ。ちょっと待っててね」
と言ってエプロンをはずし、正面のドアから出て行きました。
「師匠。お食事の用意ができました」
障子越しに文太に声をかけ、そのまま出てくるのを待ちます。
「家の中であんな大声を出すんじゃない」
障子越しに文太の声が聞こえます。
「申し訳ありません。以後、気をつけます」
「もうこの家には二人しかいないって訳じゃあない。一人一人呼べ。おちおち晩酌もできんじゃないか」
「申し訳ありません」
「食堂に行くぞ」
「はい」
障子を開けて食堂へ向かう文太の後ろに、美雪は続いて歩きました。
「おはよう。足元のお供え物は食べたかい?」
文太が席に座るなり、弘也にそう声をかけます。
「ああ。まだ食べてないです。そのうち食べようかなって思いまして」
弘也は、脇に置いた紙袋を文太に見せました。
「ははは。そうかそうか」
美雪も席に着き三人揃ったところで手を合わせ、いただきます、と声をそろえました。
「あ、うまい」
さばの味噌煮に手を付けた弘也がその感想をポロッと出すと、それを聞いた美雪は弘也に微笑みかけました。
「ありがとう。ご飯のおかわりはたくさんあるから、たくさん食べてね」
「はい。ではお言葉に甘えて」
食べ盛りである弘也は、さばの味噌煮をおかずにご飯を平らげてしまい、その茶碗を美雪に渡しました。
「あらあら、さすが食べ盛りってところかしら」
美雪はくすくす笑いながらその茶碗にご飯をよそい、弘也の目の前に出します。
「美雪、妙に張り切ったな」
文太は、そんな彼女のほうを見て、声をかけます。
「ええ。歓迎の意を込めさせていただきました」
そう言って弘也のほうを見て、美雪は微笑みを浮かべました。
「そこまでしてもらわなくてもかまいませんよ」
「いや、君は客だ。もてなすのは当然のことさ」
「そうよ。師匠のお客さんは私にとっても大事なお客さん。だから、あなたも私の大事なお客さんってこと」
弘也が萎縮気味に声をかけると、文太が笑いながら即座に切り返し、それに美雪も便乗します。
「すんません、その……ありがとうございます」
弘也は感謝の気持ちとともに、改めて、新しい不慣れな生活に入っていくことを痛感するような、そんな複雑な気持ちが芽生えて始めていました。
「私は部屋に戻る。そうだな、九時には部屋に酒でも持ってきてくれ。今日は焼酎でな」
「わかりました」
美雪にそう言うと文太は食堂から出て行きました。美雪は自分の食器と文太の食器を下げ、台所で水を出し洗い始めます。
「手伝いますよ」
弘也は、台所に建っている美雪の後ろから声をかけました。
「いいのよ、休んでても。私の仕事だから」
「いや、気が落ち着かないんですよ。俺の爺さんとは共同作業だったんで」
弘也は台所にあったふきんを手に取り、食卓の上を拭いたりいすを整頓したりしました。
「ある程度やっておきました」
食卓周りを整頓し終えた弘也は、イスの近くから美雪に声をかけます。
「ありがとう。正直助かったわ」
「いや、これくらいは何とも。じゃあ自分の部屋に戻ってます」
弘也は軽く頭を下げ、そのまま部屋を出て行きました。
「ふう。お風呂、やらなきゃね」
食器を洗い終わると、美雪はため息をひとつついて額の汗を軽くぬぐい、風呂場に向かいます。
湯船を洗ってお湯を張る間に九時を回っていました。
食堂の棚においてある焼酎のビンとグラス、製氷機で作った氷を一緒の盆に乗せ、文太の部屋へと運びます。
「失礼します。焼酎を持ってまいりました」
「うん。入れ」
美雪が部屋に入ると、文太は眼鏡を掛けてなにやら読んでいるのが見て取れました。
「失礼します」
美雪が部屋へ入ると、文太は眼鏡をはずして手紙をしまいました。
美雪はその焼酎を文太の目の前に差し出し、酌をしました。
「そうだ、今度稽古やるからな。ちゃんとネタさらって、本番と同じ心持ちで来いよ」
「わかりました。しっかり勉強させていただきます」
「お前、今いくつのネタを持っている?」
「そうですね、一月にひとつ覚えさせていただいていますから、四〇と少しです」
「そん中で高座で演れそうなものは?」
「自信のあるものは随時演らせていただいておりますから、少なくとも三〇は」
文太は一口酒をすすりますと、美雪のほうを見て口を開きました。
「順調だが、ただ単に覚えりゃいいってもんじゃねぇ。ひとつのネタをじっくりやるってのも大事な務めだ」
美雪は頭を下げると、その状態のまま文太のその言葉に返事をします。
「わかりました。自信の無いものは一回さらい直したいと思います」
「うん、がんばれよ」
美雪はそのまますっと立ち上がり障子に手を掛けたところで、文太が彼女を呼び止めます。
「弘也君はどんな感じだ?」
「どんな感じ、とは?」
「いやそのうまくやれそうか?」
「ええ。彼、素直ですから」
美雪はふっと微笑みを浮かべ、そう言います。
「そうか。ならいいんだ」
それに対して文太は不器用そうに微笑みながら焼酎の入ったグラスをぐっと仰ぎました。
「ふう」
食事から帰った弘也は、布団を広げ、その上にあぐらをかいて座りました。手には、買ってきてもらったメロンパンがあります。
「持ち運びのテレビ、持ってきてたはず……」
テレビを探そうと荷物のほうを見ます。そこには、まだ膨らんだままのボストンバッグが置いてありました。
(やべっ、荷物開けてねぇ)
弘也は持ってきた衣服をたんすに片付けようと、かばんの中から取り出します。
「これで最後だ」
仕上げとしてかばんの中から新聞紙に包まった写真入れを二つ、たんすの上に並べます。
ひとつが、新築で家を建てたときに家族で撮った写真です。手前には満面の笑みでピースサインを作る小学生の時の弘也がおり、後ろには弘也の肩に手を乗せた父親と、弘也を後ろから抱きしめている母親が写っています。
そしてもうひとつが、弘也が中学校の空手の県大会で入賞した際に撮った写真です。
そこに写っている頭のはげあがった目の大きな老人。それが、弘也の祖父です。そしてその隣には、照れ隠しのつもりなのかカメラから目線をはずし、はにかんでいる弘也が写っています。
「いつ見ても無愛想だな、俺」
いまさらのように写真を見て微笑む弘也の顔は、写真に写ったはにかんだ顔そのままでした。
荷物をまとめた弘也は、持ってきていたポータブルテレビを広げるとアンテナを伸ばし、電源を入れます。弘也はテレビのチャンネルを合わせ、何か面白そうなものはないか、と探しますが、特にこれといったものが見当たりません。
「はぁ」
軽くため息をはくと弘也はテレビをたたみ、そのまま部屋の外へ出て行きました。
居間に着くと、そこには銀縁の眼鏡をかけ、読書をしている美雪が座っていました。
「あら、弘也君。さっきはありがとうね」
弘也が入ってきたことがわかった美雪は、弘也のほうを見て微笑みかけました。
「いえ、別に。あの、それ……」
「ああ、これ? 私、ちょっと近視でね。普段は問題ないんだけど、何かするときはこうやってつけてるのよ」
何か言いかけた弘也の言葉を察するように、美雪は掛けていた眼鏡をはずして弘也に見せます。
「そんなことより、どうしたの? こんなところに」
「暇なんですよ。それで、誰かいないかなと思って来たんです」
「なら、少しお話しない?」
美雪はふっと微笑みながら、自分の隣の開いている座布団をポンポン、と叩きます。立っていた弘也は誘われるようにその座布団に座りました。
「パン、どうだった?」
「おいしかったですよ。メロンパン」
「そう、よかったわ。カレーパンも買ってこようと思ったんだけど、売り切れていたの。今度はカレーパンのほうも買ってくるわ」
「いいですよ、別に。迷惑だろうし」
弘也は美雪から目をそらします。
「いいのよ。私にできることならしてあげる。大事なお客さんだからね、弘也君は」
美雪は弘也の手を取り、そっと語りかけます。
「すんません、なんか。特別扱い受けてるみたいで」
弘也はその手のぬくもりに内心ドキドキとしながらも、平静を保ちながらそう返します。
「ううん、いいのよ」
美雪は弘也のその返事を聞くと、微笑みを浮かべてやさしい口調で弘也に返事をしました。
「ねぇ、学校っていつからかしら?」
「学校……ですか? 確か、4月の頭だったはずですけど」
弘也は、頭の中にある記憶を呼び起こして、答えを出そうとしました。
「ならちょうどいいわね」
広げた手帳を手にして美雪は正面を向き、そう呟いくと今度は弘也のほうを見て提案いたします。
「ねえ。もしよかったら、今度の日曜日、少し歩いてみないかしら?」
「今度って言うと、二八日ですか?」
「うん。どう? 予定は合うかしら?」
こちらに着たばかりの弘也には当然予定などあるわけもなく、ここ一帯の土地勘がない弘也は、美雪の提案に二つ返事で乗りました。
「ええ。構いませんよ」
「そう。よかったわ、ふふっ」
美雪は、満足そうに笑みを浮かべました。