裕也 9歳
前のお話【汐里 10歳】の裕也サイドです。
物置の奥にしゃがみこんで、ひざを抱える。今日も負けた。くやしくてしょうがない。
新しく同じクラスになった奴らが、僕のことを気にいらないって言う。チビのくせに生意気だって。
教室の中だと女子がわりこんできて話ができないから、自然と学校帰りに話をつけるようになった。
最初は口げんかだったのが、口で勝てないとわかると、つきとばされるようになった。あいつらの方が体が大きくて、人数も多い。いろいろ試してはいるが、まだ勝てない。
物置の外から、かすかな足音が聞こえた。誰にも会いたくなくて隠れているのに、もう見つけてくれたことがうれしくなる。
ゆっくりと戸が開いて、光がさしこんできた。
「みいつけた。」
クラスの女子の甲高い声とは違う、優しく耳に届く声。光が、汐里の姿を後ろからやわらかく浮き上がらせて、思わず目を細める。
僕が動く様子がないのを見て、汐里が中に入ってきた。僕のすぐ前でひざをつき、傷の確認をしている。うつむく汐里のまつげが近くで震えている。やわらかそうな頬も、切り揃えられた小さな丸い爪も、汐里の女の子らしい部分に気づくたびに、胸の音が勝手に早くなる。汐里は5年生になって急に大人っぽくなった。手をつなぐことも、ふざけて触ることも、今までどうして何も意識せずにできていたのか不思議なくらい、もう僕からは近づけなくなっていた。
汐里が救急箱を開け、慣れた手つきで傷の手当をしてくれる。消毒液が傷にしみたって、声なんか出さない。けんかに負けてみっともない所をさらしているんだ、これ以上情けない所なんか見せたくない。消毒液を乾かすように、汐里がふうっと息をふきかけていく。その度に心臓がはねるのを、ばれないように手を握りしめる。
汐里が頬の傷に薬を塗った。あ、もしかしてこの後、と思ったときにそれはきた。
汐里の唇が僕の頬に寄せられて。頬にやわらかな息がかかる。
カラダが、びくっと跳ねて、息が、止まった。
「ごめん、痛かった?」
勘違いした汐里がのぞきこんできたが、違うと頭をふるだけで精一杯だった。
もう痛みなんか感じない。ただ熱さを感じるだけ。汐里が触れたところから、痛みが熱にかわっていく。
傷あとの熱に耐えながら思った。どうして、汐里だけにこんなに苦しくなるんだろう。
好きになってはいけない人なのだということは、もうわかっている。
この気持ちを外に出してはいけないことも、わかってはいるのに。
ばんそうこうでは足らず、ガーゼを貼られたひざを手でぎゅっと握りしめていたら、不意に汐里が言った。
「裕也、ちょっと手を出してみて。」
言われるままに手を出すと、汐里が手の平をあわせてきた。思わず手を引こうとすると、逆の手で手首をつかまえられて、無理矢理手の平をくっつけられる。「あっ」と声が出て、目を見開いた。
僕の手の方が、汐里の手より少しだけ大きくなっていた。
「裕也、きっと大きくなるよ。」と汐里がうれしそうに笑う。
本当にそんなときが来るんだろうか。
いつか、僕が汐里より大きくなって、今よりずっと大人になって、今よりずっと強くなったら。
君に、伝えたいことがあるんだ。