海に浮かぶ星
少年の初恋を、その視点で描いてみました。
ただ、星企画という観点からいうと、微妙かもしれません。
「好きだよ。いつかここで一緒になろう。」
そう言って、星の元に別れた。
俺は、小学3年の夏から病気療養のために、気候のいい南の離島に移り住んだ。
借りていた民家の裏にある入江は、浜辺がないようで、人はあまり寄り付かない。
親は、早くよくなるようにと思っていたようだが、三年目には、さすがに父は諦めたかのように、母を残し仕事のために単身赴任するようになった。
毎日、好きな空の観察をしながら、過ごす。
特に、夜空はお気に入りだった。
この島に来てから、都会の狭くて夜も明るい空は、星なんて見えなくて、ただの墨が広がった壁のように思えてしまう。
宝石をあちこちに散りばめられた空を、毎晩眺めてはいつか宇宙に行けたら…と思うようになった。
ある夕、スコールのような雨雲が急に空を覆って、間もなく窓には雨粒が付いた。
母さんは生憎留守にしていて、これでは帰ってくるのは、明日の朝になるだろうと考えている時だった。
―コンコン―
玄関を叩く音がしてくる。
母さんなら、鍵を持っていたはずなのに、と訝しみつつ、ベッドを降りて、玄関先に向かう。
「どちら様ですか?」
薄い引き戸を開ける前に、確認する。
すると、か細い声が返ってきた。
「三宅です。」
すぐにガラッと開けた。
そこには、この借家の持ち主の娘がいるではないか。
挨拶に行った時も、か細い声で「空音です。」と言って、すぐ自分の母親の背に隠れてしまうほどの、極度の恥ずかしがり屋だった。
その彼女がなぜここにいるのか?
それよりも、軒先の雨の雫が彼女を濡らし続けているので、とりあえず玄関先に入るように促すと、傘を貸して欲しいと言ってきた。
俺は、手短にあったビニール傘を差し出すと、彼女は仄かに笑って、礼を言う。
そのあとの俺は、なぜか凍りついたかのように、体が言うことを聞かなくなった。
どうやって、彼女を見送ったのかも、よく覚えていない。
ただ、頭から彼女の仄かな笑顔だけが離れず、その日は眠れなかった。
それから数日経って、また彼女がやってきた。
今度は夕方に。
さすがに数日顔を会わせずにいると、冷静になっていて、なぜ彼女があの晩この近くに居たのかをただひたすら考えていた。
それに加えて、なぜかあの日から彼女が今何をしているのか、気になって仕方なかった。
どうして、そう思うのかも、ただ持てあますだけの昼の時間に、ずっと考え続ける。
ただ、どれだけ考えても、それには答えが出なかった。
だから、次に考えたのは、いつ彼女に会えるかということだけだった。
そして、指折り数えていた頃に、彼女は傘を返しにやってきたのである。
最初は、母さんが出ていたが、自分が出ていくと、母さんは晩御飯を作る最中だったようで、早々に奥へ引っ込んでしまった。
彼女は、母さんが居なくなったら、途端にそわそわし出す。
上げていた顔を俯かせて、また小さな声で、俺に話しかけてきた。
「その、この間は傘を貸してくれて、ありがとう。だから、その…」
「別に大したことはしてない。それより、なんであの時間に来た?この家の近くには、何もないだろ?」
素朴な疑問を彼女にぶつけてみた。
しかし、その疑問はさらに彼女を俯かせるだけだった。
そして、意を決したかのような、だがどこか不安な顔で、こちらを真っ直ぐに見てきた。
こうして近くで彼女を目の当たりにして、ようやく実は表情豊かなのだなと思った。
またしても、俺の頭が脇道にそれかけていた時、先ほどよりもしっかりした声が降ってきた。
「あの…。坂下君は、病気でおうちに居なきゃ駄目ですか?」
「いや…。毎日学校は休んでいるけど、別に散歩くらいなら構わないとお医者さんには言われているよ」
その言葉に、ぱぁっと明るくなった彼女は、俺の手を掴んで、引っ張った。
その手を今でも覚えている。
今思えば、それがきっかけだった。
何かが、俺の中で弾けて、体の中の悪いものも一緒に弾けて飛び出してしまったみたいだった。
彼女の手は思ったよりもずっと小さくて、身長は彼女のほうが少し大きくなっていたが、それでもなぜかとても可愛く思えた。
「それなら、良いところがあるから、一緒に行こう?」
恥ずかしがり屋な彼女からの誘いは、それが初めてだった。
手を引かれてやって来たのは、借家の裏にあった、入江だった。
防波堤沿いを歩いていくと、いつもの夕日がとても綺麗に見えた。
ある場所で、彼女は立ち止った。
―ピューククククッ―
指笛と喉を鳴らして、彼女は海を見遣った。
その視線を追って、俺も海を見た。
すると、夕日が水平線に溶け合っているところに波飛沫を立てながら、なにかが近づいているところだった。
そして、真っ直ぐこちらに向かっていることに初めて気が付いた。
最初、もしかしたらサメではないのかと焦って、彼女を引っ張って、沖から離そうとすると、「大丈夫だから」と小さな声で宥められた。
最後にそれが勢いよくジャンプして、海面から現われて、すぐに海へ潜った。
「い、イルカ?」
「そう、イルカ。オルハっていうの。」
オルハと呼ばれて、反応したのか、また目の前でジャンプしてみせるイルカが一頭。
彼女は、なんてこともなくイルカに淡々と話しをしている。
「オルハ、この人は坂下 輝くん。うん、そうだよ、前に話していた人。」
その間、イルカは相槌のような声も出している。
ただこの光景を声もなく見入っていた。
まだ彼女たちの話は続いているのだが、耳に入ってこなかった。
夕日をバックに、イルカと会話する少女の姿は、それだけで一枚の絵か、はたまた写真のように美しかった。
これでまたひとつ、俺は彼女を知りたくなった。
「オルハ、坂下君と友達になりたい、だって!良かったね」
「あ、あぁ…。」
「でも、坂下君は、学校行ってないから…、ううん、その前に病気だから泳げないか…」
そう言って、とても悲しそうな顔で考え込んでいる彼女は、しばらくして何かを閃いたようだった。
「今度天気が良くて、坂下君の体調が良かったら、この奥に小さな浅瀬の浜辺があるの。そこに行こうよ。少しな
らオルハも大丈夫だから!」
そうして、時々彼女はライフジャケットを片手に持って、俺の体調を母さんに確認してから、潮が満ちていく時間帯を選びながら、浅瀬にオルハを呼んでは、俺と一緒に遊ぶようになった。
ひとしきり遊んで帰ったときには、いつもなぜかよく眠れて、すごく幸せな気分になる。
もちろん、他の日にも遊びに来てくれるようになった彼女と話したり、親の了解を得て、望遠鏡を使って、夜空の観察をして過ごすようになった。
俺は、彼女と名前を呼びあえるほど仲になった。
でも、あの最初から感じる飢えにも似た、あの感情が決して消えることはなく…。
むしろ、日ごとに増幅していくようだった。
ちなみに、空音がなぜ最初あんなに恥ずかしがっていたのか、分かった。
彼女は、極度の人見知りで、何回か顔を会わせないと、打ち解けるのが難しいのだと言う。
それに加えて、イルカと会話するのも特殊で、滅多に人前ではやらないそうだ。
保育園時代に、皆の前でやってしまって、それ以来どこか一線を引かれてしまったように感じたからだと言っていたが、俺はそれが空音に特別に許してもらった気にさせる。
そうやって空音を知る度に、何かが膨れては、弾けて、また膨れてと繰り返し。
それは、鍋が煮えたぎって、噴きこぼれるのに似ている。
そうこうしているうちに、通院している病院の半年に一度の定期検査がやってきた。
もうこの機械に何度体を通したことか…。
どうせいつもと同じ結果だろうとタカを括っていた。
「これは信じられないですね。良くなっています。」
そう医者に告げられた後、何をして過ごしていた等質問された。
その後、しばらく単身赴任していた父さんと一緒に夕食を共にした。
母さんは、ようやく俺の病状に回復の兆しを見せたと喜んで、父さんに報告した。
すると、父さんは母さんを労って、ようやく家族一緒にまた暮らせると喜んでいた。
しかし、その言葉に俺の感情が急速に冷えていった。
ナオレバ、ソバニイラレナイ…
その晩、俺はなぜか分からないが、涙が出てきた。
一人、声にならないように必死に押さえて、目から溢れる滴を流れるままに布団と枕に染み込ませていく。
「輝、寝たか?」
父さんの声だった。
父さんは、俺が泣いていることに気付いたみたいだった。
かすれ声で、起きていることを告げると、彼は俺の寝ているベッドに腰掛けてきた。
俺は、それでも泣いている顔を見られたくなくて、背を向けたままでいた。
何を話すでもなく、ただ沈黙が心地よかった。
でも、ふと気になることを父さんに聞いてみた。
「父さん。」
「うん?」
「父さんは、どうして母さんと結婚したの?」
「会わないうちに、好きな女の子でも見つけたか?」
「どうかな…。好きってどういう気持ち?」
その質問はとても複雑だったようで、顔に出易い父さんは複雑そうな顔をしていた。
「好きは、この人のことになると、どうしても知りたいと思ったり、自分のことをもっとよく知ってほしいと思ったり…。あとは、笑っていて欲しい、幸せでいて欲しいと思うこと…、かな。実際、父さんも母さんやお前には幸せで居てほしいと思っているし、自分がそれを守るんだって、思っているよ。」
そう言って、父さんは俺の頭を撫でて、寝るように促す。
その夜、俺は空音のことが好きなのだと、ようやく感情に名前を付けることが出来た。
それからは、父さんの言葉がまた頭に廻った。
家族と、好きな人と一緒に居たいという気持ちが分かった俺は今、悩んでいた。
父さんは、俺が良くならないのを諦めたわけではなくて、俺たちがこの島でも暮らせるように、幸せであれるように、働いてくれていたのに気付いた。
そう気づけたのも、空音のおかげと言える。
しかし、この島から、空音から離れたくないとも思っていた。
だが、結局父さんが島にやってきて、空音の家に行って、引っ越すことを伝えてしまって、もう後戻りが出来なくなってしまった。
引っ越しの準備に追われる中、すでに空音はそのことを知っているからか、ほとんど来てくれなくなったことに悲しさを覚える。
最後は、俺から誘ってみることにした。
俺が大好きだと言っていた、この島の夜空。
空音も夜空を見上げて、明日の天気を占いのように言い当てるのが面白いと言っていた。
今日もその夜空が、輝いていた。
「輝くん、おめでとう。病気治って、良かったね。遠くに行っても、元気でね。」
出会った時のように、俯き加減でか細い声で、それを伝えてきた。
「あぁ。今まで、ありがとうな。俺、空音に言いたいことが、ある。」
「うん、何?」
うんと大きく深呼吸してみるが、緊張はやっぱり解けなかった。
「俺は、空音のことが好きだよ。本当はずっとここに居たかった。」
そういうと、俺は空音の手を握って、顔を近づけて、頬に軽く口付けた。
星明かりの元、そこまで暗くはないところなので、空音がアタフタとして、顔が真っ赤になっているのが分かる。
「それで、返事は貰えないのか?」
「うっ…。えっと、あっと…、その…。私もそうだと思う。」
しどろもどろに空音は答えを返してきた。
「私はね、最初輝くんを見た時から、すっごくドキドキしていて、とっても怖い人だからドキドキして緊張しているのかと思っていた。でも、輝くんはすごく優しくて、その…イルカのオルハと話していても、全然気にしてなくて、すごく嬉しかった。そこからは、もっともっと輝くんのことを知りたいって思えたよ。あぁ、もう自分でもなんと言えばいいか、分からないよぉ…。これが好きっていうのなら、私も輝くんのことが好きだよ。」
それを聞いた俺は、勝手に空音を抱きしめていた。
「好きだよ。いつかここで一緒になろうな。」
星のみぞ知る、秘密の約束を交わして、俺は空音と別れた。
もちろん、その後はお互いに手紙のやり取りや、ケータイを持つようになると、メールや電話で連絡を取り合っていた。
ただ、お互い会いたいとは思っていても、会うことはしない。
再び会う時には、もう二度と離れたくないから、彼女を守ってやりたいから…。
自分にそれだけの力が、社会的地位が築けたら、空音の元へ帰るのだということを力に変えて、頑張っていた。
空音とその島は、俺を導く海に浮かぶ星だった。
十数年を経て、ようやく天文学者の端くれになれた俺は、ようやくその島へと、空音の元へと辿り着く。
お読みいただき、ありがとうございました。
11/12 編集しました。