再会、そして決意
〔5〕
僕は逃げていた。
とにかく、現状から少しでも遠ざかりたくて、逃げることしか考えてなかった。つまり、自分が可愛くて、周りなど知ったことではない。そんな意識が僕の破滅を許しかけていた。
人は、失ってからそれがいかに大切なのかを知る。いくら後悔しても、もう失ってしまったものは二度と手に入れることはできない。完成したパズルも、消えたピースの部分だけは一生埋まるはずはないように。僕も同じことをしていた気がする。家族や友達を遠ざけ、一人で悲しみに暮れることを選んでいた。だけど、それは何の解決にもならない。僕は、もういろんなものを失い始めている。時間、信頼、言葉、気力・・・確かに、失ったものをそのままの形で取り返すことはできない。しかし、今度は違う形で、もしかしたら作り上げることができるかもしれない。僕は、そんな希望を頼りに、鉄のドアを押し開けた。
なんで僕が、ここまで利口になれたのか。
それは、ある人との再会のおかげだった・・・。
「GWも終わって、次は夏休みまでまとまった休みはなしかい。もっと、日本は休日を増やすべきじゃね?なあ、里見?」
「・・・うん」
「なんだよ〜、休み明けからいきなりそのテンション。こっちまで、参っちゃうな〜。どうだ、昼飯おごるから、帰りどっか寄らない?うまいラーメン屋見つけたんだぜ」
「・・・おう」
川田は、頭に手を乗せて言った。
「ったく、じゃあいいんだな。先に帰るなよ!誰かに見張っててもらうからな。よっしゃ、四音に頼むか。おい!四音!」
「え?なにっ、ひっちゃん?」
四音は、友達との話を中断して川田の方に歩いていく。
「どうしたの、困った顔して」
「こいつさ、一人で帰らないように見張っといてくれよ。帰り、ラーメン屋に寄る約束してんだ。でも、こんな顔だろ。俺のホームルームが終わる間に、ベランダから飛び降りられたら困るからよ。ははは」
「あんま笑えないっ・・・別にいいけど。里見、帰っちゃ駄目だよ。でも、いいな〜、ラーメンか。そうだ!ね、三人で久しぶりに行こうよっ!」
「あれ、部活は?」と川田。
「今日は、体育館使えないの。休み、休み」
「そっか。じゃ、三人で行きますか!でも、四音連れてくと、人一倍喰うからさ、恥ずかしくて。な、里見!そういえば、また太った気がしないか?」
バンと、彼女は川田の背中を叩く。
川田が、目を飛び出さんばかりに悶絶している。まあ、これも通例の儀式みたいなもんだろう。二人の夫婦喧嘩は、何も高校から始まったわけじゃなく、中学からのこの調子なのだ。で、その後のご機嫌取りや仲介人は、当然僕の役目となる。
「あたしも行くから。おいてったら、ただじゃおかないからね」
四音はそのまま、また女子の輪に戻ろうとしたが、
川田のほうを向いて、
「ひっちゃんのおごりだから〜」と付け加えた。
「う〜、小遣い前なのに・・・あ〜、財布の中身まで寒くなってしまったら、俺は凍死しちゃうぜ」
「足りなかったら俺が出すよ」
「ほ、ほんとか?やっぱお前は、見込みのある男だと思ってたんだ。よっ、日本一!」
川田は、僕の肩に手を回して、ごまをすっている。
あんまりうっとしいので、
「わかった、わかった。教室に四音といるから。だから、安心して自分のクラスに帰りな」と言って、お引取り願った。
ため息を吐きながら、
ふとべランドに目をやると、
クラスの男子が何やら怪しい雰囲気を漂わせて話している。
いつもなら気には留めないし、もっとも今は人と話すようなテンションではないので放っておこうとも思ったが、
何か気になってしまい、
ベランダに出て話に混じろうとした。
「よう、里見。相変わらず、暗い顔して。元気出せよ!」
そう気遣ってくれても、それは礼儀上みたいなもので、川田みたいに心の底からは心配してくれていないだろう。
人の苦労など、どうせ他人事なのだから。僕は、わざと大きな声で言った。
「元気!元気!んで、なんか面白そうな話してたみたいじゃん?」
座り込んだ四、五人の中から、
クラスのリーダー格、佐伯 将が、にやにや顔を歪ませて近づいてきた。
「いやさ、後輩によ、すんげえ可愛い子がいるんでよ。情報収集してたってわけ」
僕は、一瞬ヒヤッとした。
いや、あの子のことではないだろ・・・綺麗だが、可愛くはない。僕の中では、可愛いと綺麗は別次元のものである。
「だれ?そんな可愛い子いたか、一年に?」
「おう、細川 雪乃ってつうんだ。駅でよ、たまたま見かけたんだよ。うちの制服着てたしな、んで後輩に探らせて、やっと名前まで突き止めたってわけ」
心臓が跳ねる。
だが、それを悟らせるわけにはいかない。
「そんな子なら、も、もう彼氏とかいるんじゃないのか」
「いや、それがよ、なんでも気味悪い女で、クラスでは避けられてるみたいだぜ。仲のいい友達はいるみたいだけどな・・・でもよ、なんかそういう女って惹かれないか?分かるだろ、経験豊富なお前なら?」
これにはどう答えたらいいのだろう。
佐伯も、相当な物好きだなと言おうとして、僕は慌てて引っ込めた。あまりに自虐的すぎる・・・それに、彼女のことを冗談でも悪く言う資格など僕にはないのだから。
「ま、まあな。そっか、で、話したりはしたのか?」
佐伯は悔しそうな表情を浮かべて言った。
「それがよ〜、ここんとこ休んでるらしくてよ。お前、なんか知らないか?」
「な、俺が知るはずないだろ。まあ、佐伯も大変だな。んで、見込みはありそうなのか?」
「なくても、モノにするのが俺のポリシーだ。どうせ、女なんてたいしたことないんだからよ。力押しだ!いちころ、いちころ!はは!」
こいつの言うことを聞いていると吐き気がする。
僕は、そうだな、と適当あいづちを打って、教室に戻った。
心臓の鼓動が速くなってるのが、自分でもよくわかる。
あんな下衆野郎に・・・。不安と怒りが、僕の中で音を立てて、波となり押し寄せる。
でも、自分もおなじではないか。佐伯とおなじくらい、いやもっと酷いことをしてしまったのだと思い直して、ここ数日、毎晩苦しめられる自責の念に駆られた。
雪乃ちゃんは今頃・・・どうしているのだろうか。
昼休み終わりのチャイムが、しつこく鳴り響いた。
僕と川田と四音は、
三人で下駄箱まで降りてきた。
「ほんと、おいしいから!マジだぜ」
「ひっちゃんのおいしいは、おいしかったためしがないじゃない。舌までいかれてるからね、ね、里見」
「里見!お前は俺を信じるだろ?」
僕は顔を引きつらせて言った。
「十に一つはな」
「里見!いいこという!」
四音が僕の肩に手をのせる。
「よ〜し、早くいこ!はい、靴!」
学校に自転車を残して、
校舎から正門へと向かった。
すると、川田が、
「おいおい。正門の横の木の下、すんげえ美人さんがいるぜ。いや〜、なんか絵になるな。あれ、あの話かけようとしてるの佐伯じゃねえか?」と言った。
「ほんとだ。こりないな〜、あの馬鹿佐伯」と四音。
僕は、目をこすって確認してみる。
そう、立っているのは雪乃ちゃんだった。
で、佐伯と何やら話している。いや、話していると言うよりも、佐伯が一方的に口説いている感じである。
僕の中で、またあの熱い感情が沸き立ってきた。
「お、おい、里見!」
「里見!どこ行くのよ」
二人を残して、僕は雪乃ちゃんの元に駆け寄る。
ぽんと、佐伯の肩に手をかけた。
「おう、里見じゃねえか。ほら、さっき話しただろ。細川さんだよ。お前からも言ってくれよ。俺がそんな怪しいやつじゃないってよ」
僕は、怪しい奴どころか、最低の男だと断言してやりたかったが、
佐伯の怒りを買うことは、あまり賢いことではない。
雪乃ちゃんが、はっと僕の方を見る。
「久しぶりね」
それを察した、佐伯が
「お、お前ら、知り合いなのか。なんだよ〜、早く言えよ。んじゃ、三人で遊びに行こうぜ。な、里見」と言った。
僕はそれを無視して、
「ほら、雪乃ちゃん。行こっ」と言って、腕を掴んだ。
「おい、里見!待てよ、てめえ」
佐伯は、追ってはこまい。そこまで勇気のあるやつじゃないのは分かっている。
僕は、早足で彼女を引っ張って、校門が見えない位置まで歩いてきた。
「強引ね。いつもそうなの?」
と彼女は柔らかく言った。
「はぁ〜、あんな所で何してたんだよ?」
僕は、息を切らせて言った。
「ん、里見君を待ってたの」
「え!?」
彼女は、切れ長の目をやんわりとさせて微笑んでいた。
と、後ろから、四音と川田が走り寄ってくる。
慌てて、雪乃ちゃんを掴んでいた手を離す。
「里見!その子、お前の知り合いのなの?」と川田。
「ま、まあね。雪乃ちゃんっていうんだ」
二人とも、目をキョトンとさせて、僕と雪乃ちゃんの顔を見比べている。
「あのさ、悪いんだけど・・・この子と急用ができちゃって・・・。今度、おごるから!ごめん!」
手を合わせて謝った。
「まあ〜、俺はいいけどよ・・・仕方ないか・・・。次は頼むぜ。四音、二人で行こうぜ」
四音は呆然とした表情を浮かべて、立っていた。川田の声に反応してか、ゆっくりと首を縦に振った。
「んじゃ、また来週な」
四音と顔を合わせないように、
僕は足を引きずるようにして二人の目の前を去っていった。
「里見君、ほんとにいいの?私なら、別に今度でも・・・」
「大丈夫。あの二人とは古い付き合いだから。こんなことしょっちゅうだし」
本当は、全く大丈夫じゃなかった。ついに、四音に見られてしまったのだから。
しかし、雪乃ちゃんと久々に会えたのだし、暗い顔でいるわけにはいかない。
「どっかで、軽く食事でもしない?あの、話したいことがたくさんあるし」
「そうね〜、それもいいけど、ねえ、私の家にこない?」
「君の家に!?」
「そう、暇でしょ?」
「ああ、じゅあお邪魔するよ」
彼女は足取りを宙に浮かせるようにして、自分の隣を歩いている。
この前の、僕の醜態を気にしている様子は見られなかった。だけど、自分としては膝をついて、頭を床にこすりつけて謝らねばならないと覚悟していたけれども、彼女がこんな明るい様子だと、どうも調子が狂う。しずしずと、彼女に置いてかれないように必死に歩いた。
僕らは、電車を使って、隣町まで行く。
駅から、十分くらい歩いて、
狭い裏通りを通ると、彼女の家はあった。
僕は目を疑った。
家といっても、アパートで、それもかなり古そうなアパートだ。僕は、あまりに彼女から想像されるイメージとはかけ離れているので、コメントに戸惑ってしまった。
「汚いアパートでしょ?ごめんね、こんなところによんで」
僕は、慌てて首は横に振る。
ギシギシときしむ階段を登って、一番奥の部屋の前まで行く。
「お邪魔しま〜す」
「ふふ、誰もいないわ」
「えっ、一人暮らしなの?」
「まあ、半分ね。さ、入って」
中に入ると、きれいに片付けられていて、住みやすそうな空間が広がっていた。台所と、ぎりぎり6畳の畳部屋が二部屋。そのうちの一部屋はふすまが引いてあって見えないが、食卓と食器棚、冷蔵庫、あとは小さなテレビに、難しそうな本が並んだでかい本棚しか家具はない。僕は、驚愕していた。ここで、ほとんど一人暮らしのような生活をしているのか・・・。自分よりも恵まれていない生活だろう。いや、自分なんて比にならない。だけど、そんな苦労を感じさせない彼女の態度に、ただ感服していた。
「今、紅茶入れるから。適当に座ってて」
「え、ありがと・・・」
窓の外には、風呂屋の煙突がでかでかと見える。遠くには、高架鉄道の路線が見えた。列車の通るたびに、その音で部屋全体が揺れているような気にとらわれる。
「はい、どうぞ」
アップルティーだ。甘く酸っぱい味が口全体に広がる。小皿には、自家製のクッキーだろうか。すごくおいしそうな香りがここまでしてくる。
「ありがと・・・なんか家と雪乃チャンのイメージとが違って、驚いちゃったよ」
「そう?私は、貧乏暮らしのしがない女よ」
と、薄く笑って皮肉っぽく言った。
とても高校一年生には見えない。その思いは、彼女と接するたびに強くなる。僕の手の届かないところを生きていて、自分の知らない世界ばかりを彼女は見つめているのだろう。
「難しい本ばかりだね」
「うん、全部医学の本よ。言ったでしょ?父親が医者だって」
医者の娘の暮らしとは思えないのだが・・・。
僕は、今更ながら、母親や父親が暮らしている生活感ないのに気づいた。
「そういえば、お母さんは?パートかなにか?」
彼女はカップを置いて、足を抱えて座りなした。
僕の方に顔だけ向けてぽつりと言った。
「とっくに死んだわ」
思わず、僕は紅茶を少しこぼしてしまった。
「ご、ごめん。嫌なこと聞いて・・・」
「別に嫌じゃないわよ・・・真実なんだから。いくら嫌がっても、生き返るわけじゃないでしょ?」
自分には、到底考えられない言葉であった。それを平気で言ってのける彼女は、一体・・・僕はこうしたやり取りを彼女と繰り返すたびに、どうしても埋まらない距離があることを思い知らされる。
「里見君のお母さんは?」
「三年前に事故で亡くなったよ」
「じゃあ、私と同じだ」
彼女は、明るく笑ってみせた。それは強がりなのだろうか・・・それとも、本当に母親が死んだことは苦ではないのだろうか。
沈黙が流れる。
僕は、気にしていたことを座り直して彼女に言った。
「あのさ、この前は本当にごめん。怒りにまかせていったって言えば、言い訳になるかもしれないけど、本当に酷いことを言ったと反省してる・・・本当にごめんね」
「謝るのは、里見君じゃなくて、私よ。私があなたのをもっと思いやっていれば、あそこで言うことはなかったもの。私の方こそ、ごめんなさい」
「いや、本当の事を言ってくれてありがたかったよ。まあ、まだ気持ちの整理はついてないんだけど。でも、もっと後になってれば、俺は自分を完全に見失っていたと思う。本当にありがとう。恩人だよ、雪乃ちゃんは」
彼女は手を僕の方へと差し出してきた。
「仲直りの握手。はい」
紅茶で温まった彼女の手を握った。強く。
手を離すと、再び手を膝の上に置く彼女。
「私ね、あなたが許してくれないと思ってた・・・もう一生、話せる日はないんじゃないかって・・・でも、今日、校門で賭けてみたの。そしたら、ああいう風にしてくれて、嬉しかったな」
「え?ああ、佐伯のこと?あのしつこい男だろ」
「違うわよ。あんなのどこにでもいるわ。そうじゃなくて、里見君が私の腕を握ってくれたこと」
彼女は満面の笑みで、僕に言った。
なんでこんなことがすらすらと言えるのだろう・・・病院のあの赤面の反応を思い出して、僕はますます彼女のことが分からなくなった。一体、どっちが本当なんだ。もしかしら、どっちも本当の雪乃ちゃんなのか・・・う〜ん、謎だ。
心臓がドキドキしているのは、明らかに僕のほうだった。なんて返せばいいか、思案していると、
彼女が言った。
「五沙羅ちゃんは、どう?」
「あぁ、そのことだけど、五沙羅は病院を移るって。来週に。もっと設備の整った所に・・・そうなると、会えなくなるのかな?」
「白血病は、そんなことないわよ。症状が治まってくれば、外泊も認められるし。大切な人と一緒に闘える病気なの」
そう言うと、
彼女は本棚から、二、三冊本を取り出して、
僕に渡してくれた。
「これ、分かり易いから。まずは、病気を正確に知ることよ」
これが分かり易いのか・・・一ページ二段で、所狭しと小さな字が羅列している。
「ありがと、借りてくよ」
「で、五沙羅ちゃんとの約束はどうするの?私は、どっちでもいいわ」
自分を一番悩ませていたことを聞かれて、僕はたじろいだ。
だけど、今日、彼女に会えたことは、これは運命だろう。心の中でも、弱い自分が前よりも小さくなって、なんだか力が出てくるのを感じた。彼女にこうして、闘うことを形にしてもらって決心がついた。僕は、もう無意味に逃げることには疲れた。そして、哀れむエネルギーを今度は挑む力に変えることにようやく踏ん切りがついた。
人間の気持ちというのは、ころころと変わるもので、どんなに苦しい状況でも、たとえばお気に入りの先生から温かい一言をもらうだけで、がらっと暗い気持ちが変わって、また前に進む力が湧いてくるものだ。僕は、それを閉ざしていたのだから、悪循環の狭間に追いやれていたのだと今理解する。
ここから抜け出して、妹のためにも動かなければならなかったのに・・・。
彼女の目を見て
きっぱりと言った。
「やるよ。約束は果たす。それが俺のできることだし。また、教えてほしい・・・」
彼女は胸に当てて、
ふーと息を吐いて、言う。
「試したの・・・もし、里見君がやらないと言ったら、帰ってもらうつもりだった・・・そんな男と友達でいたくないし。よかった〜じゃあ、来週からね」
「うん、よろしく」
「ブランクを取り戻すつもりで、もっとスパルタでいくから」
「え!定規をやめろよ!あれ、ほんとに痛いからさ」
「そんなもんじゃなくて、先に針でもつけちゃおっかな。ふふ」
僕らは、凍っていた二人の関係を溶かすいきおいで笑いあった。
彼女の横顔が、窓から射してくる光に淡く照らされていた。
僕はもう一つ、大切なことを言いたかった。
これは、こうやって彼女と話しているうちにはっきりしたことだ。
彼女のことをまだ自分はぜんぜん知らない。だけど、どんな真実があとから分かったとしても、受け入れる自信はある。変わらない気持ちで、彼女と接することができる。
「クッキーおいしいね」
「そう?どんどん食べて」
今はこうした関係で満足するべきかもしれない。
でも、いつか伝える。この気持ちを・・・。
名前が読みにくとのご指摘をいただきましたので、本名を載せておきます。
里見 義実
里見 五沙羅
如月 四音 (きさらぎ しおん)