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もつれる心境

〔2〕

 「ここは、こう。理屈じゃなくて、身体で覚えて」

 額に汗を浮かべて、僕は細川さんの指導を受けていた。

 こうして本格的に練習を始めると、今までピアノを舐めていたことをひどく痛感する。これは、もはや体力と集中力の勝負だ。さらに、隣にいる指導者はスパルタ主義者のようで、失敗するたびに、竹製の三十センチ定規で思い切り叩かれる。

 これが、本当に痛い!

僕は、正常な普通の趣味の持ち主であって、Mではない。だからといってSでもないが・・・この仕打ちはあんまりだと、一回反論したが、彼女は「妹さんのためでしょ」とあっさり言い返された。それを言われると僕も弱い。決まって僕が罰の悪そうな顔をして、練習は再開される。

 彼女との練習が終われば、病院によって、妹、五沙羅いさらに彼女にならったことをそのまま伝えるようにして、教えている。病院には、グランドピアノはないが、特別にアップライト型のサイレントピアノを妹の部屋に置いてもらって、それを利用する。もちろん、妹に教えるときは、僕は溺愛主義者と成り果てる。間違っても、自分がされているようなことは妹にはしない。妹もすごく喜んでくれて、最近、顔色が優れているような気がするし、それに練習後は、よく笑うようになって、しゃべり方にも弾みがついてきていた。

 だから、僕がどんなに細川さんにつらく当たられようと、特訓放棄という選択肢はないのである。

 妹が、僕の手に赤いあざがあるのを訪ねたことがある。

僕は、苦し紛れに、こう答えた。

 〈お兄ちゃんは、寒がりだから、春でも手が赤くなっちゃうんだよ〉

 次の日に、妹が手袋をプレゼントしてくれた。暖かい毛糸の手袋だ。サイズもぴったり。可愛らしい、サクランボのワッペンが付きだ。

 僕は、暑いのを我慢して、病院に入るとすかさずそれを装着する。今では、病院に入るための許可証みたいなものだ。そんなことをしていれば、看護士の皆さんには早速、名前と顔を覚えられ、「あら〜今日も来たの〜」とか「いや、君も偉いね」と、この前はなぜかバナナを一房いただいた。そんなわけで、ある意味有名人になりつつある。

 僕としては、大変な日々だけど、充実もしていた。

今日で、彼女に教わるのは七日目。

 しかし、相変らず僕と彼女の距離は埋まらない。七日も立てば、自ずと相手に対してもっとオープンになってくるのが、常識であろう。それも、ほぼ毎日、顔を合わせているのである。放課後の二、三時間を大いに使い、マンツーマンで行われるのに、細川さんは僕をいまだ信用していないようであった。

 まあ、表面上はそれでも幾分改善されてきた気がする。彼女の独特の言葉遣いに慣れたことは大きい。

 当初は、なんて生意気な奴なんだろうと思っていた。いくら、顔が綺麗でも、これではせっかくの外見も台無しである。

 彼女はわざとそうしているのだろうか・・・疑問は深まるばかりであった。

確かに、雰囲気や外見を見れば、僕が下に見られようと、当然のことのように思える。いつも落ち着いていて、行動も大人である。頭も良いのだろう、こちらが言わんとしていることを先に推測して、見透かされているような会話が僕らの間では交わされる。だから、会話は総じて短い。要点だけのやり取りになるからだ。

僕が一時期、期待していた、男女の甘い関係というのは、夢のまた夢の話であったようで・・・。

 「ほら、集中!ここからが大事なの!」

 定規で手を叩かれる。

 誰か、慈悲を与えてくれ。この女に慈悲の精神を。

 「駄目、駄目。最初に変な癖がつくと、あとからはなかなか直らないものなの。正しい弾き方を指に覚えこませて」

 そうは言われても、難しい。

 高齢者が新たに勉強を始めるというのが、ブームであることをテレビの特集で観た。多分、僕は彼らと同じ心境であろう。やりたいようにできない、そんなもどかしさ。

でも、彼女が言うには、「上達してきたわよ」、らしいが・・・。授業中に、机に鍵盤を薄く書いて、指使いの練習の成果だろうか。これは、僕の勝手な練習方である。僕も男の端くれだ。女の期待に答えなければ、男ではない。そのぐらいの覚悟を持つしかないのである。

 細川さんが、蓋を閉めて言った。

 「っと、今日はここまで。だいぶ指が動くようになってきたわね。自分で練習するときは、癖に気をつけて」

 「はいさ。ああ〜、疲れた〜。今何時?」

 「・・・7時よ」

 「えっ!?じゃあ、病院いけないじゃないか!」

 「ごめんなさい、私も夢中で・・・」

 彼女が肩を落とす。

 「いやいや、明日行ければいいから。そんな毎日会いに行ってても、迷惑だろうしさ。そうだ!」

 「なに?」

 「今度さ、一緒に病院行かない?妹も喜ぶよ!友達増えたって」

 「私が!?」

 彼女は、いつも考えるときの癖である、手を口に当てて考え込んでしまった。

 「いいじゃん。でも、ピアノのことは内緒で、頼むよ。明日は、面会禁止の日だから。明後日、どうかな?」

 「そうね・・・」、と彼女は呟いて続けた。「じゃあ、一緒に妹さんに会いにいこうかしら」

 「うん、それがいいよ」

 少し前進したような気がする。こうやって、強引ながらも距離を詰めていけば、彼女のことをもっと分かることができるはず。

 僕らは音楽室を後にして、下駄箱まで降りていく。

 一年生と二年生の下駄箱は同じ場所にある。

 彼女が靴を履き終えるのを待って、僕は言った。

 「じゃあ、帰ろう。遅いし、家まで送ってくよ。電車、それとも自転車?」

 「自転車よ・・・でも、送ってくれるのは遠慮するわ。寄るところがあるから」

 「そう・・・」

 こういう所をしつこくすると彼女は怒る。まるで、私のことに首を突っ込まないでといわんばかりの剣幕で・・・それは、今まで一度か二度あって、気まずい雰囲気になったものの、彼女がいつも丁寧に謝ってなかったことになる。

僕は、彼女がどうしてそんな剥きになりなって怒るのかが疑問であった。

 何か、触れられてのないことがあるのだろうか・・・。

 「じゃあ、また明日」と、自転車置き場で彼女に言う。

 「あ、明日は忙しいから、次は妹さんのところに行く明後日で・・・ちゃんと自分で練習して、一日も欠かしちゃ、鈍ってしまうから」

 「分かってる。じゃあ、気をつけて」

 「あなたも」と、彼女は白い自転車に乗って、僕とは反対方向の道に行ってしまった。

 一体、こんな時間からどこに行くのだろうか。高校生が・・・。遊び?−それは、細川さんのイメージからは連想できない。

 何か、別の深い事情がありそうだけれど、まだ僕がそれを知るのを彼女は許さないだろう。

 僕は、一人、まだひんやりと寒い春の夜を自転車で帰っていく。

家までは、二十分はかかる。それも、思いっきりこいでだ。

 人通りの少ない裏道を、すいすいと抜けていく。

 一汗かいて、それが乾く頃に家に着いた。

 

 自転車を置こうとすると、車庫が締まってることに気づく。

 どうやら、親父が帰宅しているようだ。

 自転車をその横に置いて、

 家に入る。

 「ただいま〜」

 「おう」、と親父ののんびりした声が聞こえた。

 「今日は早いじゃん。ご飯は?」、と僕。

 「お、弁当買ってきたから、そこに置いてある。俺は、もう食べたからな」

 そのまま服を部屋着に着替えて、洗面所に行くと、案の定、洗濯物がうず高く積みあがっている。全部男物・・・それだけで、何か異臭が感じられてしまう。

 「早く帰ったんなら、洗濯ぐらいしろよな・・・」と愚痴を言って、食の前の家事を片付けることにした。こういうことは、日常茶飯事である。

 「あっと」と、僕は大事な儀式を忘れるところだった。

 母さんの位牌に、「ただいま」を言わなければならない。

 そう、僕の家を見ての通りの父子家庭である。

 母は、三年前に亡くなっている。僕が中学生の頃だ。妹は三歳。

 まだ、記憶にも新しい。母がなくなったのは、真冬の頃であった。

パート帰り、自転車に乗った母を一瞬にして帰らぬ人にしたのは、一台の暴走トラックだった。運転手は、仕事の過労を紛らわすために、覚せい剤を乱用していたらしい。本当に、狂気の沙汰としかいいようがない事故であった。母は、激しく後頭部を打ちつけ、病院に搬送されたものの、息を引き取った。

 悲しみに暮れる暇はない。

母が亡くなって約三年後、今年の春から、妹は入院し始めた。親父曰く、精神の病であるらしいが、長期の治療で良くなるらしい。

 それで一度は安堵を感じた。この度重なる不運に、僕と父は打ちひしがられていた。

少なくとも、僕はそうだった。よく泣いていたような気がする。

 しかし、妹を想うと、涙も枯れてしまう。

 そう、一番可哀想なのは、妹なのだ。妹は、母親の顔さえも、はっきりとは覚えていない。

一回、母ついては病院で、五沙羅と会話を交わしたことがある。

僕らの目の前を、退院する男の子が、母親に連れられているのを見てしまったときのことだ。

妹は、悲しい目で、その光景を見て、僕を見上げて言った。

 〈お兄ちゃん、五沙羅のお母さんは?〉

そう聞かれたとき、僕はすぐには答えられなかった。

ただ、自然と出てくる涙を見せまいとして、歯を食いしばった。

 そして、辛うじて言葉にした。

 〈お母さんは、別のところで暮らしているんだよ〉

なんて子供だましの答えだろう。でも、ほかに思いつく言葉はなかった。

 僕は、それから強くなったような気がする。妹を守らなければならない正義感からであろうか・・・いや、悲しむ感情が欠落しているのかもしれない。

僕は、妹に会うたびに、自分の気持ちを殺した。何度も。

自分が悲しみを抱けば、それは五沙羅に伝わってしまうから。

 こうして、いつの間にか、まるで鉄のように固まってしまっていた、僕の心は・・・。

それでも、うまくやってこれたのは、四音や川田のおかげだ。彼らに、感謝するところは大きい。言葉では言い尽くせないほどに。

 洗濯を終えて、食卓に行くと、

親父がタバコをふかして、テレビを見ていた。

 僕は、近頃思ってたことを、良い機会なので、父に言った。

 「父さん、もっと病院に寄ってあげてよ。ばあちゃんに面倒見させるのも、限界だよ。五沙羅、寂しがってるし・・・」

 親父は、タバコをもみ消して言う。

 「そうしたいんだがな・・・仕事が、後から後から出てくるわけだ」

 「で、でも、今月、一回も行ってないだろ」

 「・・・そうだな。じゃあ、今週中に一度行くか。土曜か、日曜なら休みは取れるだろう」

 「そうだよ。せめて、週に一回は行ってくれよ」

 「・・・分かってる」

 親父は、記者だ。それも、語学堪能であるから、国内ばかりでなく、海外にもよく出張に行く。家にいることの方が少ない・・・親父の大変さは、身近にいる僕が一番知っている。五沙羅の入院費用だって、自分の稼ぎにかかっているわけだし・・・だけど、僕としてはもう少し五沙羅の傍にいてあげて欲しかった。妹は、父が来ることをいつも楽しみにしている。それを叶えてあげるのは、僕の役目である。

 食事を終えると、洗濯物を夜に干す。

考えられないことだろうが、室内干しよりはいくらかマシであろう。

 親父の沸かした風呂に入り、寝る前に今日の課題をこなす。

 その中で、重要なのは、当然、ピアノの練習である。

 とにかく、今日教えられたことは、今日覚える・・・。

 何時までやっていたのだろうか。

 深夜まで続いた練習に疲れて、起きたときは机の上であった。


 「ふぁ〜」

 大きな欠伸が漏れてしまう。

 「おいおい、疲れてんのか?まだ、二時間目だぜ。先は長いのに、大丈夫か?」

 「おう、元気、元気」

 「お前、マジで無理すんなよ」

 川田はそう言って、僕の肩をバンと叩く。

 「大丈夫だって。俺は、不死身だ」

 「んで、今日は?放課後、空いてんの?」

 「空いてるよ〜今日は休み。なんで?」

 「たまには、どうよ?遊びに行こうぜ。駅前のボーリングが今さ、半額!しかも、靴も無料!どうだ、行くしかないだろ?」

 僕は、川田の顔のまん前に、親指を突き立ててOKサインをした。

 「そりゃあ、行くしかないな。でも、お前、あの子はいいのか?」

 あの子とは、二日前に、川田は屋上に呼び出した子のことである。それをすっぽかしたために、再度お呼ばれしたらして、それが今日の放課後であった。

 これは、クラス皆の周知の事実だが、川田はもてる。不思議なほど、もてている。僕はこいつの魅力が分からなくもないが、女から見たときその良さが理解できるものなのかと考えてしまう。

 女は、知らず知らずのうちに男を観察している・・・て、ことなのかもしれない。

 しかし、川田は一度もそんな勇気ある女の子を認めたためしはない。片っ端から、断っている。

親友ながらも、僕は、こいつが男の方が好きなのではないか、と心配したもんだ。本人に冗談めかしに聞くと、それは本命があるから、そうしていると遠まわしに語っていた。それが誰なのかは、僕にも全く教えてくれない。  

 「いいよ。取り合ってると、泣くのを慰める間に日が暮れちまうんだ」

 うーん、と僕は唸ってしまう。

川田の性格から悪意のある一言ではないのだろうが、世のもてない男性諸君が聞けば、たこ殴りに値する言葉である。

 僕は、その女の子に報いるつもりで、、

 「いや〜、もてる男は言うことも違う。分かった。今日は、ボーリング三昧といきますか」と嫌味を混ぜて答えた。

 川田が、僕の顔を覗きこむ。

そして首に手を回し、きつく締め上げならが言った。

 「おまえな〜、最近、えっ、うまくやってるみたいじゃないか?巷で噂になってんぜ。綺麗な後輩とピアノのレッスン!何を狙ってんだ、この色男め!」

 「は!?」

 僕は、思わず叫んでしまった。

もう噂にまでなるほど、目撃されてしまったのか。僕としては、細心の注意を払って、内密にしようとしたのに・・・。

 にやにや笑う川田に、僕は慌てて付け加える。

 「違えよ。あの子とは、先生と弟子みたいなもんさ。何もないから・・・」

 しかし、親友相手に、嘘は通らない。こちらの特徴を把握しきっている。

 「で、本当は?どこまでいったんだ?」

 ごつい手で、横の腹をこずく川田。

 「だから、そんなんじゃないっつうの」

 「ふ〜ん、まあそのうち、分かりますか?でも、お前も罪作りな野郎よ・・・」

 彼はため息混じりに、続けた。

 「もう少し、四音のことも考えてやれよ」

 それを聞いて、僕は心臓が締め付けられるような痛みを感じた。

 そう、川田の言う通りなのである。

僕は、細川さんとああいう関係になって、最大に危惧をしているのは、もし、四音がそのことを知ったときであった。

 彼女のことだから、直接、細川さんに話を聞きにいくに違いない・・・そうなると、ややこしいことになりそうで。

 でも、直接、細川さんとの関係を話しても、四音は納得するまい。

逆に、これもまた四音を傷つけることになるのは目に見えている。

 せめて、妹のことだけでも・・・あと、ピアノのことも。

 そんな中で、僕は、ふと、最近感じるのは、その心配の気持ちともに、そうなっても構わないという気持ちが同時に存在するのを自覚していた。すごく凶暴な胸の高鳴り。抑えようとしても、そいつは止められない。それは、細川さんに対して、なにか特別な感情を持ったという証なのだろか・・・。

 頭を激しく横に振る。

 そんなことを考えてはいけない・・・細川と僕は、師弟関係である。それだけなのである。

 あまり深く考えないことにして、僕は、今は、ピアノの練習に集中することに全ての気を注いぐことに努めている。

 僕は、四音の方へ目を移した。

 彼女は楽しそうに、部活の友達と話している。

 彼女には色々世話になった・・・数え切れないほどに・・・。

 だけど、どうしても特別な感情は芽生えない。友達として好きだけど、女としてと聞かれると、僕は首を傾けるしかなかった。

 実を言えば、分からない・・・はっきりと煮えきれないということは、やはり好きではないのかもしれない。

 ただの幼馴染。

 彼女と僕の関係は、それ以上でも以下でもないのである。

 ふと、気配を察してか、振り返った四音と目が合う。

 彼女は、二、三秒、こっちを見て、

 すっと視線を逸らして、僕に背を向ける。

 ここ一週間、彼女とは一度も帰らなかったし、ちゃんと話もしてない。長い目で見れば、珍しいことである。中学は違っていたが、よく遊んでいた。

 僕は、窓の外に目を向けた。

 外は、春の柔らかい日差しに、校庭にある木々が少しずつ薄緑の葉を付け始めている。

 桜はもう散ってしまっていた。

 そよく風に、暖かい気温。

 僕は思わず、本日、何度目かの大きなあくびではなく、ため息をついた。 

 申し訳ありません。あらすじに不備がありました。

細川 雪乃ゆきのが、正しい表記です。ここまで読んでいただいた皆様、本当にありがとうございます。これから、まだ続きますので、どうぞ宜しくお願いします。

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