不思議な関係
放課後、音楽室に寄ると、そこには先客がいた・・・
丸いラインの小顔を支える細い首。少しつりあがった大きな瞳には、暗い憂いが帯びている。整った目鼻立ちを締めくくるのは、紅い唇。率直な感想を言えば、美人だ。少し違った趣味を持つ男以外は、彼女をそう見るだろう。
こんな子、うちの学校にいたのか・・・いれば、野郎どもの間でそれなりに噂になって、俺の耳に入ってきてもいいはずなんだけどな・・・と、彼女に、考古学者が歴史が引っくり返るような化石を見つけたときに送るであろう眼差しを送っていた。
彼女は、呆然と自分を見る僕に、
「聞いてるの?」と問いかける。
「え!?」
「あなたがここを使って。私は帰るから」
僕は慌てて、荷物をまとめる彼女を引き止める。
「い、いや、君が使ってよ。俺は、また明日使えるから。ごめんね、邪魔して」
急いで、部屋から出ようとすると、彼女が、
「あなた・・・いつも放課後の一時間、ここでピアノの練習をしている人でしょ?」、と言う。
「あ、うん、そうだけど・・・なんで知ってるの?」
彼女は不適に微笑みながら、
「私がたまにここに来ると、いつもあなたが入っていく姿を見かけるの。許可をもらってやっているんでしょ、あなたが優先よ」、と言った。
「まあ、そういうことにはなるけど・・・」
演奏を途中で中断させて、このまま自分がのうのうと練習するのは躊躇われる。
どうしたものか・・・。
焦って、悩む僕は、とんでもないことを思いついてしまった。
再度出でいこうとする彼女に、何も考えずにそれを告げる。
「よければ、さっきの曲、聴かせてくれないか?」
言葉にして、これがどれだけ突拍子のないことかを自覚する。
振り返って、立ち止まる彼女に
「いや、なんか聞いたことのある曲だったから・・・」「ちゃんと聞きたいと思ってさ」
と苦しさを紛らせるために付け加えた。
本当は、このまま彼女と別れるのはなにか勿体無い気がしていた。さすがにそれを口にするわけにはいかない・・・。
彼女は独特の困った表情をみせたあと、しばらく考えていた。
そして、顔をあげて、僕を見つめて言った。
「聞いたことのある?ふふふ、いいわよ。どうせ暇だから、弾くわ」
「ほんとに!?」
思わず、驚いてしまった。こうもあっさり返事をしてもらえるとは。彼女は、見かけとは違い、中身はすごくサバサバしているのかもしれない。
「私は、細川 雪乃。よろしく、先輩」
「あ、お、俺は里見 義実。えっと、高2・・・なんで先輩って分かったの?」
「上履きを見れば分かるじゃない」
明らかに、僕は動揺している。普段なら、こんなミスは犯さないのに・・・でも、彼女はさっきよりも顔を崩して、くすくすと笑っている。
「細川さんは、一年生か・・・あ、俺のことは、里見でいいから。先輩は付けないで。俺、そういう上下関係苦手だからさ」
彼女はなんというか、冷ややかに笑いながら、ピアノの席に座った。
「聴いてくれるんでしょ?」
僕は頷いて、彼女の横顔が見える位置に腰掛けた。
細川さんは、軽くブレザーを巻くって、すーと息を吸い込む。
次の瞬間、白く、細い手が鍵盤に触れる。
途端に、流れるようなメロディーが音楽室全体を覆った。
そんな流れるようなメロディーに、懐かしく、どこかで聞いたことのあるような気がして、僕はすぐに聞き入ってしまう。同時に、細川さんの顔を見つめてもいた。
彼女は首を軽く振って、リズムを取っている。
そのたびに、透き通る黒髪が揺れて、隠れた耳が現れる。
ピアノと美女は似合う。改めて感じてしまう・・・でも、彼女の美しさは、普通ではなかった。悪くいえば、異常であった・・・彼女の放つ雰囲気がそう感じさせるのであろう。暗く、重たい、人を寄せ付けない冷たい雰囲気。とても高校生の女の子には見えない。本当に不思議な人である。今までに会ったことない、初めてのタイプである。道行く人に聞いても、僕のほうが年下だと言うだろう。それぐらい彼女の雰囲気は、大人を感じさせる。
しかし、僕はもう一つ彼女から別のものを感じ取っていた。
優しく撫でるように弾く姿は、彼女が本当は思いやりのある、温かい子だというのを・・・そして、わざとそれを隠しているのではないかと。だから、不自然な異常さが滲み出ているのかもしれないと、真剣に弾く彼女を見てそう思った。
素の彼女を知りたい・・・いつしか、僕の中にこんな気持ちが芽生え始める。
意識は、自然と演奏から細川さんを見ることにいってしまっていた。
僕は、彼女が僕の求めるものを持っているような気がした。忘れられた感覚・・・それは、自分を包んでくれるもの・・・つまり・・・。
「終わったわよ?里見君?」
彼女の言葉に、はっと我に返る。
「どうしたの?」
「い、いや、音楽にあまりに聴きいれちゃって・・・」
彼女は疑わしそうに、本当と眼で語りかけてきた。
「ほんとだよ。これ、なんて曲なの?なんかこう、懐かしい感じがするからさ」
「・・・ずっと前に、自分で作ったの・・・」、と彼女は重く口を開いた。
「へぇ〜、すっごいな〜。感動しちゃったよ・・・良い曲だね」
「ありがとう・・・」
照れくさそうに彼女は言った。
案外、純情なのかもしれない。
しばらく沈黙が流れる。
僕は、彼女に対して何を話していいのか・・・何を聞いていいのか・・・、その判断がしにくくて、発しようとする言葉を思い留まってしまう。話すことは好きだし、得意なのだが、彼女が相手だとやりにくさを感じる。
思い悩んでいると、
窓の外に目をやる彼女から沈黙を破ってきた。
「里見君は、なんでピアノの練習をしているの?」
一番僕にとっての聞かれたくないことである。僕がピアノを練習している理由を知っているのは、親友の川田と音楽の先生だけ。この二人から漏れることはないという自信があったし、信用したから話したのであって、今日、初対面でしかも、まだ全くその性質が掴みきれてない人に話すのは躊躇われた。話して、思いっきり引かれるのは御免だ。
僕は、先ほどよりも考え込んでしまう。彼女は、多分、真剣に聞いてくれるだろう。その安心感は、もう僕の中でははっきりしたものであった。彼女の僕を見つめる目を見ると、ぽろっと言ってしまいそうになる。
自然と口を閉じる僕を、細川さんは見かねたのか、
「答えにくいのなら、無理することはないわ。ごめんなさいね、嫌なこと聞いてしまって・・・」と言った。
僕は、さらにどうしようかと考える。
彼女は信用しても良い・・・それは自分の直感で分かる。
もし、わけを話せば、五里霧中の僕に力を貸してくれるかもしれない・・・それに、彼女ともっと話してみたいという気持ちが混在している。
そこからどう考えたのか、僕は、今日、二つ目のとんでもない事を彼女に尋ねてしまった。
「ねえ、ピアノ・・・俺に教えてくれないかな?」
「え!?」
細川さんは、大きな眼をさらに大きくして、驚いている。
言った僕も、言葉にして驚いた。
俺は何を言っているんだ!−慌てて、彼女に言った。
「ご、ごめん。冗談だから!そう、冗談だから気にしないで。もし、細川さんみたいな上手な人に教えてもらえればって・・・そう思って、でも冗談!ごめん、今のは聞かなかったことにして」
彼女は、口に片手をあてて、じっと考え込んでいる。
「いや、ほんとに気にしないでって・・・ね、スパッと嫌なら嫌って、言ったほ」
「いいわよ」
「そう、そうやってスパってね断ったほうが・・・え!?」
「何?私はいいわよ」
思わず、耳を疑ってしまう。
だって、彼女と初めて会ったのは、三十分前で・・・。どこの馬の骨かも分からないような男である。新手のナンパだと間違われて、騒がれても仕方がない。そのぐらい僕は理の通らないことをしている自覚はあった。それを、彼女は受け入れてくれるのか・・・。
「教えてほしいんでしょ?」
「うん、いや嬉しいよ。ありがとう」
彼女は、頷いて、僕の顔を覗きこんで、
「で、それならあなたも教えてくれるんでしょ?ピアノを練習する理由を・・・」
もちろんだよ、と僕は頷き返す。教えてもらうのに、秘密が秘密のままだというのは、あまりに虫が良すぎる。
それを言葉にしようものの、まだ動揺を押し隠すことは出来なかった。
とりあえず、僕は震える手で、彼女に手を差し出し、、改めて挨拶をした。
「よろしくお願いします」
「ふふふ、こちらこそ」
ちらっと細川さんの表情を見る。もしかして、本音は嫌なんではないだろうか・・・。
しかし、彼女は、今日一番の笑顔を見せてくれていた。恥ずかしそうにはにかんでいる。
僕は、多分、その顔が彼女の本来の顔なんだろうと悟った。そして、彼女と僕のまだまだ遠い距離を縮めてみたいと思った。異性にこういう風に感じたのは、僕は初めてであった。中学の頃、それなりに恋をして付き合ったりもした。でも、暇を紛らわす程度の付き合いで、今考えると、多分、付き合っていた女の子もつまらなかっただろうと思う。彼女はどうなんだろう・・・こうして男と話す機会は、あるのだろうか。
彼女は手を離し、またさっきのとりつきにくい雰囲気に戻ると、言った。
「さ、じゃ、今から始めましょ」
「え!?」
彼女はあたりまえよと、そんな冷ややかな目で僕を見る。
こうして、初めてのレッスンが幕を開けた・・・