前夜*「第8記 決意」
「主、一体どういうつもりなんだ? 攻撃時刻を流したなんてことが奴らに知れたら……」
黒い短髪を風に流しながら、左目に眼帯をした男は前を歩く少年を見据える。
どこかで転んだのだろうか。男の額には一本切り傷のような痕があった。
「大丈夫ですよ。絶対にばれっこないですから」
主と呼ばれた少年が振り返って男を見上げる。
「〝ボク〟がここにこうやって来ていることも今は知られていないでしょう。この姿だってあいつらは知りませんから」
「確かにそれはそうだが……」
「ボクがキミに頼んだのも、元はと言えば彼女にそれを教えるためでしょう。この地で様々な種族から信頼を得ているスワロウ族を簡単に消されちゃ困るんです。奴らの企みを阻止するには、負けていただかないと後々面倒なのです」
そう簡単にはいきませんが、と少年は笑った。
「それに、奴らが絡んでいなくとも、この戦にキミは手を貸すつもりだったでしょう?」
「そ……それは……」
言葉を濁らせ、視線を逸らせた男を見て、少年は呆れたように溜息をついた。
「ルーティング、今は過去のことをうだうだ言っている時ではないでしょう。さ、早くスワロウ族の村に行って監視していてください。スワロウ族の様子と、到着した彼らのことを」
「……御意」
主の言葉は絶対。
数秒躊躇ってから、ルーティングは渋々頷いた。
少年は右手の人差指を立てて、更に続ける。
「定期的に報告してくださいね。それと、今度勝手に暴れたら、ボク本気で怒りますからね」
最後の方は些か声が低くなっていた気がしたが、それは単なる脅しではない証拠。
結局弁解などしてはいないが、したところで睨まれるのが目に見えている。
ただ聖獣に誇張表現をされたのは事実であり。
「……肝に、銘じておく」
苦々しげに呟くと、ルーティングは兵士たちを連れて、風と共に姿を消した。
草原に一人佇む少年、シルードは天を仰ぐ。
「待っていますよ、アズウェル」
朝日を浴びたシルードの栗毛が、黄金色に輝いていた。
◇ ◇ ◇
どくん、と。
突然アズウェルの心臓が跳ね上がった。
また、だ。
シルードの瞳を見た時と、同じ感覚。
「さて、そろそろ行きましょうか」
「あぁ、そうだな。街の奴らも全員エルジアに連れて来たしな、アズウェル」
ラキィとディオウの声は、アズウェルの耳を素通りする。
彼の耳に響いている音は。
けたたましく主張する己の心音と、耳鳴りに近い高い音。
遠くから聞こえていた高音が、徐々に存在感を増していく。
「ねぇ、アズウェル聞いてる? 眠いの?」
反応のないアズウェルを二人は訝しげに見上げていた。
呼びかけても、アズウェルの瞳は宙を凝視している。
「アズウェル? おい、アズウェルどうかしたのか!?」
ディオウが声を荒げた時、アズウェルの頭の中に言葉にならない悲鳴が迸る。
――――――――!?
鼓動が、一層激しさを増していく。
――エル……アズウェル!!
名を、呼ばれた。
それは、誰の声なのか、アズウェルは知らない。
思考を強制停止させるように、意識を手放した。
「アズウェル! おい、大丈夫か!?」
「……ん?」
瞼を上げると、瞳にディオウとラキィの顔が映った。
「大丈夫なの?」
「え、うん。平気だけど」
それでも二人は「大丈夫か」と聞き続けた。
ラキィがアズウェルの頬や額を耳でぺたぺたと触れる。
アズウェルは怪訝そうに顔を顰めた。
「大丈夫だってば、何すんだよラキィ」
「じゃぁ……じゃぁ、何で起き上がらないの?」
「へ?」
どうやらアズウェルはベッドに仰向けになっていたらしい。
ゆっくりと上体を起こすと、見慣れた家具が目に飛び込んできた。
「ここは……」
「おれたちの家だ。出発しようとしたら、お前がいきなりブッ倒れたから連れてきたんだ」
「そっか」
力なく答えるアズウェルを見て、二人は顔を見合わす。
「やっぱり、ディオウの言う通りにした方がいいわね」
「え?」
「アズウェル、お前は少し休んでいろ。おれたち二人で一度マツザワのところに行ってくる」
ディオウの言葉にアズウェルは目を剥く。
「な……何言ってんだよ!? おれも行くに決まってるだろ!」
「けど、あんたまた倒れるかもしれないのよ?」
アズウェルは鋭い目付きでラキィを睨みつけた。
「行くったら行くんだ! おれは平気だ、どこも悪くない!」
「アズウェル、わかってるのか? 遊びじゃないんだぞ」
今度はディオウを睨む。
「そんなこと、言われなくてもわかってる!」
アズウェルはベッドから降りると戸棚を漁る。
木箱を一つ取り出し、中から必要なだけ金を財布に移した。
それは、アズウェルが村の面影を維持するための貯金。
誰が、いつ、此処に戻ってきても住めるように。
一度終わらせてしまったエルジアでの続きを、すぐに始められるように。
村をそのまま残しておくために、アズウェルは給料を持ち帰る度に、半分を木箱の中に保管していた。
其処から金を出すということは、この村に見切りを付けるということだ。
無言で自分の行動を見ている二人を振り返ると、怒気を帯びた声で言った。
「とにかく、おれは行く」
二人は反論しようと口を開きかけるが、アズウェルの眼光に気圧されて言葉を飲み込む。
木箱を開けたアズウェルを見れば、彼の意志がどれほどのものかは想像に難くない。
ただでさえ、一度言い出したら誰が何と言おうと聞かないのだ。
いくら正論を並べてもその努力が報われることはないだろう。
アズウェルの暴走を止められるといえば、過去に二人いたが、いずれも今此処にはいない。
くるりと背を向けたアズウェルは、乱暴に扉を蹴り外に出て行った。
二人は深々と嘆息する。
頭を抱えて悩んでいる二人の耳に、外からアズウェルの怒号が突き刺さる。
「行かないならそれでもいい。でもおれは行くからな!」
「ダメだな、もう」
「そうね、フェルスもロウドもいないもの」
がくりと頭を垂れた二人は、首を横に振った後、意を決したように顔を上げた。
「仕方ないわ、行きましょう。アズウェルを一人で行かせるのはとぉっても不安だわ」
「まったくだ」
◇ ◇ ◇
真夏の太陽がじりじりと地上を照らす。
その暑さに対抗するかのように、涼しい風が草原を駆け抜けていった。
「スワロウ族の村って……確か、南西だったな」
「ええ、そうね。ここからならさほど遠くはないと思うわ。急いで行けば明日のお昼には着くでしょ」
三人はエンプロイを南に抜け、隣街ロサリドを目指し広大な草原を横断中である。
ロサリドは北と南を繋ぐ大きな街だ。そこにはあらゆる物と情報が行き交う。スワロウ族の村にはラキィも初訪問ということで、まずはロサリドで情報収集することになったのだ。
「しっかし、全然見えてこねぇな、ロサリド」
「あと、百四十七キロはあるわね」
ラキィの言葉を聞いて、ディオウは瞠目する。
「マジか? こんなにのんびり歩いていたら、そこに着くまで何日もかかるぞ」
「エンプロイは辺境だからねぇ~。確かに隣街まで百五十キロ近くって異常よね」
なんて呑気な、とディオウはラキィを一瞥し、無言で歩いているアズウェルに言った。
「アズウェル、飛んで行かねぇと間に合わないぞ」
アズウェルはその声に一瞬足を止めるが、すぐにまた歩き出す。先程よりやや歩調を早めて。
「まだ怒っているのね」
ラキィが残念そうに言う。が。
「……」
「アズウェルゥ~」
ディオウが間抜けな声で名を呼ぶ。が。
「……」
「ねぇ、本当に空飛ばないと間に合わないわ」
ラキィがアズウェルの肩に乗って言う。が。
「……」
アズウェルは肩に乗っているラキィを払い落とし、更に歩調を早める。
「アズウェルゥ~」
再度ディオウが名を呼ぶ。が。
「……」
「相当怒っているわ……」
アズウェルの背を見ると凄まじい怒気が燃え上がっている。
自分だけ置いて行かれるのが余程嫌だったのか、あれからずっと沈黙を守っていた。
「アズウェルゥ~」
ディオウは諦めずに名を呼ぶ。が。
「……」
「アズウェルゥ~、アズウェルってばぁ、なぁアズウェルゥ~」
「………………」
無言、無音、無視。
だが、その程度で諦めるディオウでもない。
「アズウェルゥ~、いい加減口きいてくれよぉ」
尽く黙殺されるが、ディオウはアズウェルの黙りを破ろうと名を呼び続ける。
「アズウェルゥ~、アズウェルゥ~、アズウェルゥ~、アズウェ」
「うるさい! いい加減にしろっ!」
遂にアズウェルが口を開いた。ディオウはにやりとほくそ笑む。
「やっと口きいてくれたな」
アズウェルはディオウの背に乗ると、その頭を叩きながら怒鳴りつけた。
「気持ち悪い声でおれの名前を呼ぶな!!」
「アズウェルがおれたちを無視するから、ちょっと工夫しただけだ」
ディオウは何とかアズウェルの気を引こうと、わざと高い声で名前を呼び続けていたのだ。
それを間近で聞いていたラキィが、懸命に笑いを堪えて身体を震わせている。
ディオウの言い訳を拳骨で返したアズウェルは、そんなラキィに冷ややかな視線を送った。
「ぅぅ……何も殴ることないのに……」
前足で目頭を器用に押さえたディオウが泣いてみせるが、アズウェルは無反応だ。
「ディオウ、その辺にしとかないとまたアズウェル怒るわよ」
ラキィがぴょんとディオウの頭の上に飛び乗る。
ディオウはラキィの忠告を聞き流し、更に続けた。
「ひどいよなぁ……心配してたっていうのに、おれって不憫だよなぁ……ぅぅ……あぁ、なんて可哀想な聖獣でしょう……」
アズウェルが肩を小刻みに震わせる。
此処もじきに危険地帯だろう。
ラキィがディオウの頭から離れた時。
「いい加減に飛べ――――っ!!」
怒声と共に、強烈な拳骨がディオウの頭に降ってきた。
「狂暴アズウェル――――ッ!!」
どす、と鈍い音がディオウの脇腹辺りで生じる。
ディオウの四肢が、砕けた。
踵を落としたアズウェルは、素知らぬ振りをしている。
「今のは……入ったわね……」
溜息をつき、ラキィは酷いと嘆くディオウの後を追った。
ディオウはロサリドに向かってふらふらと飛行中。
アズウェルは未だディオウの頭を叩き続けていた。かれこれ、三十分以上経過しているだろうか。
ラキィはそんなディオウを同情の眼差し見つめていた。
怒りを煽った自業自得とも言えるだろうが、心配した結果なのだから確かに不憫だ。
とはいえ、怒りの矛先を向けられたくないラキィは、あえて近づこうともせず、付かず離れずの距離でディオウと並行飛行していた。
「……ごめん」
不意に手を止めたアズウェルが小さく呟いた。
心配してくれたのに。
それは風に消えそうなくらい微かな声だったが、ディオウには届いていた。
どんなに心配されていても、一人でいるのは耐えられない。
もう何もできずに何かを、誰かを失うなんて、心が耐えられない。
ディオウは優しく微笑み、アズウェルにだけ聞こえるように囁いた。
「わかっている。耐えられないなら、守ればいい」
小さく頷いてアズウェルはディオウの背に頭を埋める。
「動くなら、最後まで足掻けばいい」
アズウェルはディオウの言葉を深く、深く噛みしめた。
目頭が熱くなり、自然と涙が流れる。アズウェルは声を殺して泣いた。
村人が、家族が死ぬとわかっていて助けられなかった、何もできなかった。無力な自分を責めて。
もう、失いたくない。誰も。何も。もう、絶対に失うものか。
アズウェルは自分に強く言い聞かせる。
誰かが泣かなくて済むように。自分みたいな想いをしないで済むように。
その決意は、アズウェルの涙を自然に止めた。
アズウェルは瞳に溜まった涙を拭うと、蒼穹を振り仰ぐ。
青く、何処までも青く続いている空。
この下の何処かに、守りたかった人がいる。守りたい人がいる。
陽の光がアズウェルの顔を照らした。蒼の瞳がサファイヤのように煌めいた。
「ディオウ、ラキィ」
アズウェルは自分の決意を口にする。必ず、達成するために。
「絶対に、ワツキを守り抜く」
ディオウとラキィは無言でそれを受け止めた。
何も言わない。言葉は不要だった。
他の誰よりもアズウェルの気持ちを。その想いを。
かつて、幼さ故に失った事実だけを伝えられた過去を。
そして、今を――……
知っているから。