Extra Chapter*「陽炎 -4-」
立ち止まってはいけない。
振り返ってはいけない。
前に、進まなければ。
何があろうと、前へ、前へ。
◇ ◇ ◇
目の前は雪の壁。
後ろも右も底の見えない谷間。
残された道はただ一つ。
私は、敵が逃げたと思われる唯一の道、赤褐色の断崖を見上げた。
水華を支えにして跳躍すれば、登れないことはない。
躊躇している暇はないのだ。
頬を濡らした水滴を拭い、水華の柄を握り締める。
「逃がす、ものか……!」
このままでは終われない。
強く、強く、大地を蹴った。
山頂まであと僅か、というところまで来ていたのだ。
断崖といえども、数歩跳躍すれば平地が見えた。
純白の絨毯に模様を描くかのように、所々青緑の草花が顔を覗かせている。
そんな平地に一際目立つ一軒家。赤い土で塗り固められた壁には亀裂が入り、今にも崩れそうな状態だ。
「これは、確か……」
この山を所有している者の家。
記憶通りなら、ここは隠密の頭領が管轄しているはずだ。
そっと扉に手を当てる。
中から微かに音が伝わってきた。
誰か、いるのだろうか。
静かに扉を押し開けると、耳に残っている声がした。
「はい、ユーラ様。本隊は私自身が手を下し、先程」
一つは先刻対峙した敵の声。
それに驚いたわけではない。
もう一つは。
『ご苦労だったねぇ~。ヒオリ』
忘れるはずもない。
この声は、下弦の乱で聞いた、鴉の。
「貴様が裏で糸を引いていたのか!」
勢いよく扉を開け放し、女と会話する漆黒の鴉に鋒を向ける。
『ヒオリ、詰めが甘いわ~。ほら、まだキヨミの娘が生きてるじゃな~い』
「ネビセ……! 貴様っ!!」
斬り込んだ刃は鴉を裂くはずだった。
しかし、湾曲した大刀に阻まれる。
速さを纏った二本の衝突は、高い金属音と共に火花を生んだ。
「ユーラ様には指一本触れさせん!」
「く……! 貴様、何をしたかわかっているのか!? 我が一族を、裏切ったのだぞ!?」
「黙れ。主のような浅慮な者に、ユーラ様の崇高なるお考えなど理解できぬじゃろう!」
重い。
弾き返される。
二歩退き、間合いを開く。
「貴様、名をヒオリと言ったな? 貴様が護衛派遣された先遣隊はどうした!?」
「あれは囮部隊。邪魔者は消去するのみよ」
「何だと!?」
ヒオリが懐から黒い短冊を取り出す。
あれは本家以外の人間が扱う符術の呪具。
「焔舞!」
瞬時にして小屋が炎に包まれた。
だが、炎に躊躇している余裕はない。
再び大刀が降りかかってきた。
太刀音が響く。
「ここで主も終いじゃ」
『ヒオリ、あんたももういいわ。その小娘と一緒に死んじゃって』
「何だと? ネビセ、貴様っ……!」
「ユーラ様のお言葉、心得た」
あり得ない。
命令だろうと、己の命をこうも簡単に手放すというのか。
その疑念に答えるかのように、剣戟の最中、ヒオリは無表情で呟いた。
「これで、一族の安泰が約束される」
「それはどういう意味だ?」
突き出された凶刃を、水華の白刃で受け止める。
「答えろ!!」
「そのような鈍刀を振り回している主などに、本当に我ら一族を託せるとでも思うのか?」
言葉に、反応が鈍る。
一瞬の隙を、ヒオリは逃さなかった。
私のみぞおちに蹴りを入れ、大刀で水華を薙ぎ払う。
「ぐ……!」
カシャンという音が、私の劣勢を伝えた。
「あの有能だったリュウジ様を追い出し、名すら与えられていないのに水華を手に取り、その弱さでよく今日まで生き延びたもんじゃ」
そろそろと身体を動かし、水華に手を伸ばす。
「主が手に取れば、一族一の名刀水華も鈍刀に様変わりするのだ!」
水華に指先が触れた時、大刀が腕を落とさんと振り下ろされた。
間に、合わない……!
『貴様、仮にもこの水華に鈍などとよく吐けたものだな』
場にそぐわない凛とした声音が、大刀の動きを止める。
「主は……主は……!?」
『私に名を訊くとは大それたことを』
「な、何故貴女が……!」
眼前に立つ優美な女性。
全身を澄んだ空色の布で包み、白藍の髪をなびかせる。
金色こんじきの角を輝かせ、透き通る耳はひれのような形状。
間違いない。
このお方は守り神の長、水龍様。
『使い手よ、自惚れるな。貴様を認めたわけではない。私は私の名を保つために舞い降りた』
「力及ばず……申し訳ないです……!」
『戯け。謝辞の言葉なんぞ聞きたくもない。無駄口を叩く暇があるのなら、早く水華を手に取るのだ』
「は、はい……!」
力が入らない四肢を叱咤して、水華を握る。
よろめきながらも、敵の瞳は真っ直ぐ見据えた。
「往生際の悪い女め……!」
『それは、貴様だ』
横一線に振り切った水華は、刀とは思えないほど軽かった。
先刻押し返された大刀を易々と弾く。
『他愛のない……』
頭を一つ振ると、スイカ様は姿を消した。
「す、スイカ様!?」
「何故だ!? 何故主がぁああああ!!」
半狂乱になったヒオリが大刀を振り上げる。
『終わりだわ~……』
少し物足りなそうに鴉が呟くと、ヒオリの大刀が砕け散った。
あの一振りで、片はついていたのだ。
「く、主など、ここで死ぬのだ!!」
「待て、ヒオリ!」
「焔舞、焔舞、焔舞!!」
瞬間、ヒオリの身体が赤い閃光で包まれる。
爆音が轟き、小屋は深紅の炎で覆われた。
先程より勢力を増した炎たちは、中にいる者を飲み込もうと、盛んに息巻く。
「く……出口がっ」
爆発の衝撃で壁に叩きつけられた私は、立ち上がるのがやっとだった。
一歩、前に足を出す。
しかし膝は折れ、無様に頬を床に打ち付けた。
「くそ……!」
私を見下ろすように、鴉が窓際から飛んでくる。
「貴様、ヒオリに何を吹き込んだ……!」
ヒオリという名は聞いたことがある。
誇り高く、一族のことを重んじる人だ、と。
『あ~? この任務を抹消してくれたら、あんたたちスワロウ族にこれ以上攻撃はしないって言ったわぁ。随分すんなり信じたわよ、あの子。お陰でかなり楽だったわ。そんな約束、こちらが守ると思っているのかしらねぇ~?』
「外道が……!!」
『ふふふ。あんたがキヨミの娘だっていうなら、生き延びてみせるんだねぇ~、小娘』
にぃっと嗤った鴉は、窓を突き破り、炎の海から姿を消した。
猛る業火が急激に小屋を蝕んでいく。
ここから、出なければ。
腕が、手が、指先が、外を求め、あてもなく彷徨う。
生き延びなければ。生きて、帰らなければ。
ヤヨイさんの想いを無駄にするわけにはいかない。
ヤヨイ、さん……
ごめんなさい、私は、私は、こんなにも無力で。
もし水龍様が現れなかったら、負けていた。
もっと強くならなければいけない。ここを出て、強く。
動けと念じてみるが、身体は眠ったように動かなかった。
四肢は鉄のように重く、休めと要求してくる。
瞼が下がり、徐々に視界が狭まっていった。
もう、動けない……。
最後まであがいていた左手が、力なく床にひれ伏した。
「ここで、死ぬのかな……」
ずっとずっと、修行してきたから、少しは追いつけたかなって思っていたのに。
まだ私は、あの頃のミズナのまま。アキラを傷つけた、弱いミズナのままで。
ごめん、ごめんね、アキラ。
ごめんなさい、兄さま。
霞む視界を見つめながら、目を細めた。
山吹色に照らし出される水華が眩しい。
どうして水龍様は助けてくれたのだろう。
何度呼びかけても、あれから彼女の声は聞こえない。
龍は、本当に気まぐれ。
ねぇ、母さま。
母さまはどうして――……
水面に波紋を描く雫たち。
薄れゆく意識の中で、木霊するものは。
雫の調べ。