後夜*「第28記 言霊」
何も見えなくなった。
ディオウに呼ばれて振り返ったと思ったら、そこは光一つない暗黒の世界。自分の手すら確認できない。
「マジで何にも見えねぇ……」
呟かれた言葉だけが、出口の見えない闇に木霊した。
実に不気味だ。生き物の住む場所ではない気がする。
「誰かいれば……」
出口を聞けたかもしれない。
嘆息して、頭を抱え込む。
耳鳴りにも似た叫び声が、頭に荒々しく叩きつけられていた。
アズウェルは口をへの字にして低く唸った。
「……ディオウめ」
そんなに呼ばなくても、ちゃんと聞こえている。
声色からは必死さが伺えるが、出られないことにはどうしようもない。
「おれだって早く出てぇよ、こんなとこ」
髑髏に呑まれる瞬間、目があったディオウの表情。それを思い出す度に、アズウェルはいたたまれない気分を味わった。
「もうちょい早くに気付いていれば……」
体力の限界と、精神の限界が交わって起きた惨事。
どのような状況でも気を緩めてはいけない。
ルーティングとの修行で、痛いほど身体に叩き込まれたというのに。
「アキラ、死んでねぇよな……?」
渦巻く不安を抱え込み、一人暗闇の中を延々と歩いていく。
足音すら響かない不気味な空間で、名を呼び続けてくれるディオウの声だけが、アズウェルの心を繋ぎ止めていた。
◇ ◇ ◇
さっきまで此処にいて。
今はいない。何処にも。
「そ……ソウ……?」
ただ其処にあるものは――……
哀しみの音を立てて、蒼い刀が地に堕ちた。
「そう。お利口さんね、ショウゴ」
『それが貴様の能力か……!』
ソウエンの表情が怒りで歪む。
「違うわ。私はキヨミよ、ソウエン?」
『生憎だが』
両腕に纏っている炎を集め、キヨミの姿に化けたゼノンを一瞥する。
『一度死んだ人間に用はない。貴様は偽物だ』
仮面を燃やせば、その不快な容姿も元へ戻るだろう。
一気に片付けなければならない。
ショウゴがいつ暴走してもおかしくないからだ。
『……人間は、弱い』
己だけに囁いて、背後のショウゴへ視線を送る。
一度抉られてしまった傷は、長い年月を経ても赤みを帯びている。僅かでも触れられれば、深紅の涙が流れるのだ。
クエンは人の子に近い、柔の炎。しかしソウエンは違った。
『俺は怒りと哀しみの剛の炎だ』
人の心を照らし、温めることができるクエンとは、双子でありながら相容れない部分がある。
『お前ができないと言うならば、俺がやる』
「そ、ソウ……?」
『あれは偽物だ。仮にあれが〝キヨミ〟の仮面だとしても、容赦はしない』
「だ……め……」
ゆらりと立ち上がったショウゴは、ソウエンの前に立ちはだかる。背後の〝キヨミ〟を庇うように。
『退け』
首を横に振るショウゴの腕を掴み、手加減することなく竹林に投げつけた。
『クエンが顕現している限り俺は消えない。甘かったな、外道』
ソウエンの真骨頂だ。
怒りも哀しみも、全てを〝無〟にして。本能のままに、怒りのままに炎を操る。
『貴様は敵だ』
冷たく放った言の葉が、ショウゴの心に刃物と化して突き刺さる。
あの時、あの人は、自分を庇って。
自分は、親友から、幼い女の子から、母親を奪った。
でも、あの人は、まだ、生キテ、イル――……
渦巻くどす黒い思念に支配された使い手が、命令を下した。
「ソウエン、やめろ! 炎を消せ!! 消えろ!!」
我を忘れた哀しい怒声が、ソウエンの鼓膜を貫く。
「消えろって。可愛そうね、ソウエン」
狐のような笑みを浮かべる〝キヨミ〟を、ソウエンはこれ以上ない程に目を見開き、音もなく凍り付いていた。
人の子の一言は、其処に宿る想いが強い。
消えろ。
その一言で、ソウエンの炎を封じるのは容易かった。
瞬く間に両腕から蒼い炎が掻き消える。
光源を失った竹林がざわめき、風がソウエンの四肢を縛り付けた。
刀に宿る自然の化身。彼らは使い手がいて、初めて存在意義を成す。
使い手に否定されること。それは存在意義を否定されたことに等しい。
「あなた、もう炎使えないんでしょ? 邪魔だから、私の盾にでもなってネ」
醜い本性を現した偽りの〝キヨミ〟は、指一本動かせないソウエンの額に手を当て、呪を唱えた。
「絶望」
いくら回想してみても、受け入れることなど、到底できない。
「ソウ……エン……?」
ただ、其処に、在るものは。
――蒼い、仮面。
◇ ◇ ◇
族長コウキは冷ややかな視線を岩石に送った。
岩石の下から黒い影が伸びてくる。
それは鴉になり、更に複数の鴉がネビセを創り上げた。
「無駄って言ってるじゃなぁい? 相変わらず物覚えが悪いのねぇ~」
幾度潰そうが耳障りな鴉たちは鳴き止まない。
底が見えないネビセの能力に、コウキは眉をひそめた。
印破りはできても、倒すまでには至らない。
『コウキ。ゲンチョウとソウエンが』
ガンゲツの示唆に、コウキの眼光が険しくなる。
「クエンは」
『波はある。だが無事だ』
「そうか」
それきり両者は口を閉ざし、ネビセの動きに意識を集めた。
◇ ◇ ◇
頭が痛い。胸が痛い。
「もう、動けねぇ……」
衰弱しきった少年が一人、闇の中で足を引きずっていた。
「ここどこ? おれ、何してんの……?」
考えれば考えるほど、心が塵となり、姿が幼くなっていく。
また、何かを忘れてしまった。
だんだん自分が誰なのかすらわからなくなってくる。
「眠っちゃえば楽なのかもな」
虚しく己の言葉が耳の奥まで響き渡る。
本当に眠ってしまおうか。
そう思った時だ。
「うお、今声がした?」
誰もいないはずの闇を青年の声が切り開く。
「だれ……?」
「お、やっぱ声がする! どこにいるー?」
答えたとしてもこの暗闇だ。自分の居場所を口で伝えることはできないだろう。
少年はしばし逡巡の後、両手を振り回す。
近くにいれば当たるはず。
「おーい! あっれ? 空耳だったのかぁ? ……いて!」
当たった。
「おまえ、だれ?」
「あ、今目の前にいんのか? ホント、暗くて不便だよなぁ」
溜息混じりに放たれた声が、突然輝き出す。
「そうだ、あいつ呼べばいいじゃん!」
少年の視界を塞いでいた闇に、一筋の光が差した。
◇ ◇ ◇
白光を放つ魔法陣が、少年の足下を煌々と照らしていた。
「タイムリミット、ですか……」
ふと、空を見上げる。
蠢く黒雲が、闇色に染め上げられた満月すらも呑み込んでいく。
「ダークマジックが発動されたら、流石にこちらも待ってはいられませんね」
村が絶望に呑まれるのも時間の問題だ。
しかし、栗毛の少年はなかなか魔法を発動しようとはしなかった。
「ザント、貴方ならどうしましたか?」
淡く微笑み、瞳に慈しみの色を浮かべる。
「きっと……こう言うでしょうね」
――アズウェルに任せておけ!
懐かしい声が聞こえた気がした。