前夜*「第2記 ディオウの勘」
若者二人が慌しく通りを駆けていく。
「やっべー、やっべぇって! ちょっと、すんません、急いでるんです!」
入り乱れる人を掻き分けて進むアズウェルに、後ろからマツザワが疑問を投げる。
「そんなに濡れるのが嫌なのか?」
「シャワーは好きだけど、雨は大っ嫌いなんだよ」
首だけマツザワに向けて、アズウェルは顔を顰めた。
雨は、トラウマだ。
「どれくらい嫌なのかっていうとな、木陰で休んでいたら、いきなり服と背中の間に蛇が落ちてきたくらい嫌なんだ!」
これもアズウェルにとっては体験談だった。
しかし、そんなシチュエーションに遭遇したことのないマツザワは、具体的だが何処かずれているような気がする喩えに、目を瞬かせている。
確かに、そんなことは想像するだけでも御免蒙りたいところだが。
結局のところ彼女に伝わったのは、とにかく嫌いなのだということだけだった。
街を出ると、アズウェルは街道ではなく林の中に入っていく。
「お、おい。どこに行くんだ?」
マツザワに呼び止められて、アズウェルは振り返る。
「どこって家だよ。おれの家、山の中にあるんだ。ディオウに乗ってかねぇと夜が明けちまう」
「ディオウ? ライド・ビーストか。だが、二人も乗れるのか? ライド・ビーストは普通一人乗りだぞ」
「乗れる乗れる。ディオウなら三人くらい余裕だぜ。ま、見りゃわかるさ」
得意げに答えるアズウェルに、釈然としない気分でマツザワは頷いた。
「そ、そうか……なら大丈夫だな」
果たして、三人も騎乗可能なライド・ビーストなどいたのだろうか。
ライド・ビーストとは、その名の通り移動用の獣だ。大地を駆けるもの、空を翔けるもの、様々であるが、速さが売りのライド・ビーストは基本的に一人乗り。
三人乗りなど、任務で大陸中を駆け巡っているマツザワでも聞いたことすらもなかった。
アズウェルは左肩にフレイトの袋を担ぎながら、右手で草むらを掻き分けている。
「おーい、ディオーウ! 戻ってきだぞー」
アズウェルが呼びかけに応じて、純白の獣が姿を現した。
「ったく……遅いぞ、アズウェル。もう雨が降るぞ」
待ちくたびれて不貞寝をしていたディオウは、眠そうに欠伸をした。
「わりぃな。スチリディーさんのとこで色々あってさ」
「また余計なことに首を突っ込んだのか」
「あはは。ま、そーいうコトで」
「いい加減学習したらどうだ。どうせあの店主に厄介事を頼まれてきたのだろう」
呆れているディオウの言葉を軽く流しながら、アズウェルはマツザワに手招きする。
「まぁまぁ……今日家に泊まりに来る奴ができたんだ。マツザワー! そんなとこに突っ立ってないでこっちに来いよ」
「あ、あぁ」
マツザワの声は上ずっていた。
百聞は一見にしかず。確かに三人はゆうに乗れるだろう。だが。
瞠目しているマツザワの瞳には、全身を純白の毛で包まれ、黄金の瞳を三つ持つ獣――伝説の聖獣ギアディスが映っていた。
何故ギアディスが此処にいるのか。
そもそもギアディスは、千年以上前にリウォード王と共に姿を消した幻の獣。もう、語られるだけの架空の存在となっていたはずなのに。
「……信じられない」
「マツザワー! 何してんだよ。早く乗れって!」
アズウェルの催促によって、彼女の思考は掻き消される。
「ほ……本当にギアディスに乗るのか!?」
そんな罰当たりなことができるわけがない。
平然としているアズウェルが、マツザワには別の世界の住人に思えた。
「ぎあ……でぃす?」
一方アズウェルは、初めて聞く言葉に小首を傾げる。
常識外れの反応に、マツザワは思わず頭を抱えた。文字通り絶句する。
そんな彼女に代って、ディオウがアズウェルの問いに答えた。
「ギアディスとはおれのことだ。おれの俗名」
「そんなの初めて聞いたぞ」
「別にお前が知らなくてもいいことだ。それより、雨が降るんだろ? 急がなくていいのか?」
「そうだ! とにかく早く乗ってくれ、マツザワ!」
どうしたものかと立ち尽くしていたマツザワは、意を決して一歩足を進める。
次の瞬間、アズウェルは驚きのあまり目を見開いた。
「お、おまえ何してんだよ?」
「ギアディス、いや……ディオウ様。私のような者が騎乗してもよろしいのでしょうか?」
マツザワは深々と頭を下げ、ディオウの前に膝をついていた。
「ディオウ様……? なんでディオウなんかに様付けしてるんだ? マツザワ一体どうし 」
「別に改まる必要はない。アズウェルがいいと言うのだ。構わん。乗れ」
アズウェルの声はディオウの声によって遮られる。その声は静かで威厳のある声だった。
「承知いたしました」
再度頭を下げ、マツザワはディオウに騎乗する。
先程まで硬直していたマツザワと入れ替わるように、今度はアズウェルが動けなくなっていた。
「一体どうしたんだよ? なんかディオウ、いつもと違くね……?」
思わず口を衝いて出た言葉に、ディオウは反応しない。
困惑の表情を隠せないアズウェルを見て、マツザワが申し訳なさそうに言った。
「すまない。困らせてしまったようだな……」
「気にすることはない。アズウェル、何をしている? 早くお前も乗れ。雨が嫌なんじゃなかったのか?」
ディオウがなかなか乗ろうとしない飼い主を促す。
その言葉を聞いて、アズウェルは漸く我に返った。
「あ! いっけね!!」
アズウェルが飛び乗ると同時に、ディオウは飛翔した。
「急げディオウ! 雨雲に追いつかれる!!」
アズウェルたちの後方で雷鳴が轟く。積乱雲が背後まで迫っていた。
「あのなぁ! 元はと言えばお前が余計なことに首を突っ込んだりしたからこうなったんだろ!?」
ディオウは叫びながら更にスピードを上げた。
「わ! バカ落ちる!」
「しっかり掴まっていろ!」
ディオウは追い風を味方にし、凄まじい速度で空を翔る。
無茶苦茶だ。雨雲と競争するなど、常識外れもいいところだ。
そんなことを思って、マツザワは考え直す。
聖獣が出てくる時点で既に理解の域を超えてた。いや、闇職人を公言したところからかもしれない。最初から無茶苦茶だったのだ。
それにしても、こんな状況でよく会話していられるものだ。
アズウェルとディオウはまだ言い争いをしている。もはや会話ではなく、怒号の応酬になっているが。
マツザワは思わずくすっと笑みを零した。
大自然と聖獣。はてさて、軍配はどちらに上がるのか。
「よっしゃ! 村に着いた!」
ディオウは少しずつスピードを落としながら村の上空を横断する。村は気持ち悪いほど静まり返っていた。
嵐の前の静けさだろうか。
だが、静寂とは違う〝静けさ〟を感じ、マツザワは思わず身震いをした。
全く灯りのついていない家々。止まった水車。枯れた噴水。
この村は、死んでいる。
直感だ。だが、間違ってはいないだろう。
――アズウェルは今村で一人じゃからの
スチリディーの言葉が、急激に重さを増した。
不自然なことに、各家々の庭に雑草は見当たらない。人の住む気配こそしないが、家自体も荒廃しているものは一つもない。
一体、この村で何が起きたのか。或いは、起きているのか。
「んとねー。そのことはおれも結構考えたんだけど、わかんねぇんだよな。ま、そのうちわかるさ」
「あ、アズウェル?」
その言葉は、あまりにタイミングが良すぎた。マツザワが、無意識に声として外に出していたのかと錯覚するほどに。
アズウェルの背中を見つめて、静かに訊く。
「やはり……何か意味があるのか?」
「え? 意味? 何のこと? おれなんか言ったか?」
その答えにマツザワは自分の耳を疑った。
「さっきそのうちわかるって……」
「おれそんなこと言った覚えねぇけど?」
互いに相手の言葉に驚いて、口をつぐむ。
廃村の上空を翔ける一行の耳に届くのは、風を切る音だけとなった。村は沈黙を守っている。
点在する家々が背後に遠ざかり、目の前には大樹の森が見えてきた。
ディオウは速度を落とさずに、枝と枝の間を器用に縫っていく。
アズウェルとマツザワは、その逞しい背にしがみつきながら、先刻の噛み合わない会話に内心で首を傾げていた。
「着いたぞ」
困惑する二人の思考を止めたのは、ディオウの短い一言だった。
「……お! サンキュー、ディオウ!」
ディオウから降りると、アズウェルは一目散に家の中へと駆け込む。
アズウェルが家に入るのを待っていたかのように、雨がどっと降り出した。
「ふ~、ギリギリセ~フ。二人とも早くはいらねぇと濡れるぞ~」
「あぁ、わかった」
アズウェルに応じて、マツザワはディオウから降りた。
そのまま彼女の故郷に定められている掟通り、再び叩頭しようとするが、ディオウが制止する。
「そんなことをする必要はない。服が汚れるぞ」
「ですが、ディオウ様……」
「敬語も様付けもしなくていい。今は千年前とは違う。おれはただの獣。アズウェルのペットだ」
言ってから、己の情け無さにディオウは思わず自嘲した。
普段アズウェルにペット扱いされれば、反論するというのに、自分で言っていては救えない。
しかしマツザワは〝ペット〟よりも〝千年前〟という単語に釘付けになっていた。
「千年前……やはりあなた様は……」
ディオウは静かに首を横に振る。
「それ以上今は言うな。アズウェルの友というなら、おれの友だ。そういうことにしておけ」
「……承知した。では……ディオウ殿、一つ聞いてもよろしいか?」
「構わん。何だ?」
マツザワは気になっていたことをディオウにぶつける。
「何故、貴殿が人と……アズウェルとこんな山奥にひっそり暮らしているのか。それとあのアズウェルの発言は一体……」
くすりと笑うと、意地悪そうな表情でディオウが返す。
「それだと質問は二つだぞ?」
「え、あ……す、すみません」
慌てて頭を下げるマツザワを一瞥して、ディオウは空を仰いだ。
「まぁ、気にするな。……さて、おれが何故アズウェルといるか、か」
通り雨は慌しく過ぎ去り、雲の隙間から星影が降り注いでいた。
ディオウは静かに語り出す。
「アズウェルと会ったのは今から十二年前だ。その時おれはアズウェルにただならぬ気配を感じたんだ。まぁ訳もなく惹かれたと言う方が、むしろ正しいのかもしれないな。だが、お前も感じただろう? 他と違う感じを」
マツザワはディオウの言葉に無言で頷く。
聖獣を知らないということを除いても、アズウェルは纏う空気が他の若者とは異なっていた。
「千年前を……彷彿とさせる何かを、おれはその時肌で感じたんだ」
「それは、まさか……」
「具体的にどうとは言い表せないが……恐らくアズウェルは何らかの形で王と関わっているだろう。まぁおれの憶測でしかないがな。それと、あの不可解な発言はおれにもわからない。あんなことはこの十二年間なかったからな」
「そ、そうですか」
「ただ……」
ディオウは一息ついて言葉を繋げる。
「あれは、旅立ちの合図だと思う」
「旅立ちの合図……? 一体何の?」
ディオウは遠い彼方を見つめる。
「アズウェルの……いや、それはまたこの次にしよう」
「またこの次って……」
「お前も既に巻き込まれているからな。おれと話した時点で」
いや、正確には――アズウェルと出会った時点かもしれない。
それは、マツザワだけでなく、ディオウ自身にも言えることだった。
「巻き込まれてるって……一体どういう……」
「どうって、お前はいずれアズウェルと共に旅をするからだ」
「私には私のやるべきことがあるのだ。いずれと……そう言われても……」
ディオウの的はずれな答えに、マツザワは困ったように首を振る。
「じきにわかる」
「ギアディスが予知できるとは聞かないが?」
ディオウは口元に不敵な笑みを浮かべ、はっきりと言い放った。
「おれの勘だ」