前夜*「第12記 ワツキ」
どくん。
心臓が跳ね上がる。
――――!!
頭の中で叫び声が響く。言葉は聞き取れない。だが、この声は知っている。
目の前が暗くなり、直後に映像が飛び込んできた。
人が倒れる。誰かがその人の名前を呼んでいる。
倒れた人の向こうに不敵な笑みを浮かべて立っている者がいた。
その歪んだ口が微かに動く。
――墜ちる。片翼の鳥……〝ヴィアンタの失墜〟……〝絶望のファルファーレ〟
刹那、アズウェルの意識は途絶えた。
◇ ◇ ◇
風が吹いた。それは自然の風ではない。
男は小さく舌打ちした。
それが、主の命だと言うならば。
「お前たちは主のところへ戻れ。俺は……」
崖の下の集落に視線を落とす。男の顔が苦痛に歪んだ。
「……主を頼んだぞ」
兵士たちは男の背中を数秒見つめた後、無言でその場を立ち去った。
気配が遠のいたことを察して、右の手で左目の眼帯を覆う。
彼らに会うことは許されない。だから、せめて、彼らが生き抜くことを願う。
長剣の鞘を持つ左手に力が入る。
もし見つかれば、切腹する覚悟が必要だろう。
男は一度天を仰ぐと、その身を翻した。
◇ ◇ ◇
いくら呼びかけても、アズウェルは反応しない。
ディオウは焦りだけが募っていた。
「アズウェル! おい返事をしろ、アズウェル!!」
「ディオウ、ただ呼びかけてもだめよ……! 五年前の状態に近いわ!」
ラキィが少しでもディオウの冷静さを取り戻そうとするが、事実を述べることは逆効果だった。
「くっそ! アズウェル……戻ってこい……!!」
深刻な色を浮かべている二人を、アキラとマツザワは見つめていることしかできなかった。
ラキィがアズウェルの足下に移動する。辛そうな表情で彼を見上げた。
アズウェルは今、意識がない。人形のように突っ立っている。美しく透き通っているはずの蒼の瞳は、闇に包まれたように黒く濁っていた。
「何か……衝撃でも与えられれば……」
小さく呟いた時、彼女の体躯が地面から離れた。
「え、ちょっと、何?」
ディオウがラキィの尾を銜えている。
ラキィの質問には答えずに、ディオウは彼女を力一杯投げつけた。
「きゃん!!」
びたん、とアズウェルの顔に叩きつけられたラキィは、そのまま真下に落下する。
ラキィがぶつかった衝撃で、棒立ちしていたアズウェル尻餅をついた。
「いった~い……」
ラキィが嘆くと、その頭を温かな手がそっと撫でた。
「ラキィ……? どうした? 大丈夫か?」
聞き慣れた声にラキィは顔を上げる。アズウェルが心配そうに彼女を見下ろしていた。
「あ……アズウェル! 戻ってきたのね!」
「ご、ごめん。おれまた意識飛ばしてた?」
「アズウェル……! 良かった、もう大丈夫なのか?」
決まりが悪そうに頭を掻くアズウェルに、マツザワが駆け寄る。その後ろにはアキラもいる。
「心配したんやでぇ。ディオウはんなんかえっらい焦っとって……」
「ごめんごめん。もう平気だよ。それよりラキィ何で痛いっていってたの?」
人の心配より自分の心配をしろ。
その場にいた誰もがそう思った。
「アズウェルを起こそうとディオウが投げつけたのよ……」
苦笑気味に答えると、アズウェルはディオウを睨む。
「おい、いくらなんでもそれはラキィが可哀相だぞ」
批難されて、ディオウは一瞬アズウェルの顔を見る。
澄んだ蒼の瞳。眉根を寄せる表情。いつもの、アズウェルだ。
「ったくディオウは……ラキィ、平気か?」
「ええ。もう大丈夫よ」
飼い主に怒られようが、ラキィに後で毒づかれようが、そんなのはかまわない。ただ戻ってきたのに安心した。
「……すまない、ラキィ」
珍しく素直に謝るディオウに、ラキィは何も言わなかった――否、言えなかった。
ディオウはしょんぼりと項垂れていた。
わしゃわしゃとディオウの頭を撫でつつ、アズウェルは皆に謝る。
「ごめんな、急いでいたのにおれのせいで遅くなっちまった」
「いや……大丈夫ならそれでいいんだ。我が村はもうじきだ。あそこに竹林が見えるだろう?」
マツザワが南を指差す。その向こうには緑色の林が見えた。
「ここからなら、歩いてもすぐやな」
アキラが数歩歩いて振り返る。
「ほな、皆はん、行きましょか」
「おう!」
アズウェルの元気な返事と共に、一行はワツキを目指して歩き出した。
笹の葉が身体を揺らし、見知らぬ客人たちにざわめいた。
四方八方竹で囲まれている。どちらから来たのか、振り返っても全く見当がつかない。
「何だか迷子になりそうだぞ……」
アズウェルが眉根を寄せる。
「夜一人で歩くと、他所から来た者は迷うかもしれないな」
苦笑を浮かべてマツザワが応じた時、一羽の白い鳩が飛んできた。アキラの眼前まで降下すると、その鳩は一枚の紙切れに変貌した。
「……またロサリドまで行けと」
その紙に何か書いてあったのだろうか。
アキラががくりと両肩を落とす。
「え、アキラどうしたんだ?」
「すまんのぉ、アズウェルはん。ちょっくらお使い行ってきますわぁ」
竹林を抜けるまでは、狭すぎて算盤に乗れないのだから走るしかない。
もう少し早くに報せが届いてほしかった。
そう思いながら身を翻すと、アキラは来た道を走っていった。
「ユウに買い物でも頼まれたのだろう。いつものことだ。……ほら、見えたぞ。あれが我が村ワツキだ」
急に視界が開けたと思うと、高い崖で囲まれた集落が目に飛び込んできた。
土で出来た家々が立ち並んでいる。屋根には独特の形をした黒いものが敷き詰められていた。
「お~。これがマツザワの故郷かぁ。あの屋根にある黒いのはなんだ?」
「あれは瓦といって、粘土を焼いたものだな」
「へぇ~。あれ、窓の格子は竹か?」
「あぁ、そうだな。竹窓と言うんだ」
アズウェルとマツザワは会話をしながら進んでいく。その後ろを、頭にラキィを乗せたディオウが歩いていた。
至る所に点在する菜園には、色取りどりの野菜が栽培されている。青々と伸びた稲を覗き込むと、水黽が水面を這っていた。
「こういう自然もいいもんだなぁ」
田畑を縫うようにして歩いて行く。
暫くすると、一際大きな屋敷が悠然と建っていた。その前で、マツザワが足を止める。
「さて、まずは族長に会っていただきたいのだが、よろしいか? ディオウ殿」
「あぁ。構わんぞ」
「マツザワの父ちゃんか~」
玄関に踏み入ると、靴がいくつか並んでいた。
そのまま家に上がろうとするアズウェルを、マツザワが止める。
「すまぬが、靴を脱いでくれ。我々の村では家に上がる際、履き物を脱ぐ習慣になっているのだ」
「そ、そうなんだ……」
土足で上がりかけたアズウェルは、慌てて右足を引いた。頬が赤く染まる。
横を見ると、玄関に用意されていた桶の水で、ラキィとディオウは足を洗っていた。
知っていたなら一言くれればいいのに。
火照った顔を落ち着かせながら、靴を脱いで一段上がる。床は木で造られているようだった。
「では、いこうか」
マツザワの案内で、三人は一番奥の部屋――族長の間へと通された。
何とも言い難い空気が部屋中に漂っている。
「わざわざ足を運んでいただき、感謝する。ディオウ殿、少々二人で話したいことがあるのだがよろしいか?」
「おれだけということか?」
「すまないがお願いしたい」
淡々と進められていく会話にアズウェルが口を挟む隙はなかった。
族長は厳かな気迫を放出している。その気迫に均衡するほどの威圧をディオウも放っていた。
「あ、じゃぁ……おれたち外出てます」
ラキィを抱えてアズウェルは立ち上がった。
「そなたがアズウェルか?」
部屋を出る直前に声をかけられ、アズウェルはびくりと硬直する。
「え、あ、はい。おれです」
「そうか。後ほどそなたとも話をしたい」
「わ、わかりました」
一礼すると、アズウェルはぎこちない足取りで族長の家を後にする。
外に出たアズウェルは、肺の中が空になるほど息を吐き出した。
「こ、こっえ~……」
「情けないわね、アズウェルったら」
「いっや、だってあのオッサン迫力がすっげぇのなんのって」
外に出た二人は「さて、これからどうしよう」と辺りを見渡す。
「アズウェル」
呼びかけられて振り返ると、マツザワがいた。
「あれ、おまえも出てきたのか?」
「あぁ。ところでアズウェル、昼はすませたか?」
「いや……まだだけど……」
家の中へアズウェルは視線を送る。
「ディオウ殿なら心配することはない」
「でも、あいつも腹減ってると思うし……先に食うと後で色々言われるしなぁ、ラキィ?」
「大丈夫でしょ。文句言うなら族長さんに言いなさいって言えばいいじゃない」
ラキィは何食わぬ顔でそう言う。
そんなこと、頼まれても御免蒙りたいところだ。自分の代わりにラキィが言ってくれればいいのに。
ちらりとマツザワを見る。目が合うと彼女は首を傾げた。
「……う~ん。わかった。じゃぁ、昼飯にすっかぁ」
この後何事もないことを祈って、アズウェルは渋々頷いた。
◇ ◇ ◇
「なぁ、ディオウ。あんなに長い時間何話していたんだ?」
「まぁ、色々とな。気にするな」
結局、ディオウが戻ってきたのは夕方だった。今はアキラの家で夕餉を食べている。
「ディオウ……それ、骨あったよな?」
アズウェルがディオウの皿を差す。皿の上に残っていたのは魚の頭だけだ。
「あぁ、あったような、なかったような」
「骨まで食ったのかよ」
「お前と違っておれの顎は鍛えられているからな。あれぐらい大したことじゃない」
そう言うとディオウは大きく欠伸をした。鋭利な歯が見える。
「こんな太い骨バリバリいっちまうのかよ……」
アズウェルは魚の尻尾を持ち上げて、そのがっしりとした骨を半眼で見据える。
「んまぁ、これくらいなら食えまっせ」
アズウェルの向かいに座っているアキラは難なくそれを噛み砕いていた。
「マジ? おれも食ってみるかな……」
「あんたはやめておいた方がいいわよ」
ラキィの忠告を無視してアズウェルは骨に噛みつく。
「……――――っ!?」
「だから言ったのに。喉に骨が刺さったんでしょ」
呆れたラキィが片耳でアズウェルの喉をつついた。
口を押さえたまま、アズウェルは涙目でこくこくと首を縦に振る。
「あら、それは大変ですね。ご飯を飲んでください」
ユウが空になっていた竹造りの茶碗に白米をよそった。
団扇を扇ぎながら、アキラが説明する。
「噛まずに丸ごと飲み込むんやでぇ。ごっくん、とな」
頷いて、アズウェルは口に含んだ飯を飲み込んだ。
「……お? 取れた、取れた!」
「よかったですね」
ユウがにっこりと微笑みかける。
「おう! サンキューな」
アズウェルも笑顔で応えた。その正直な笑顔に、ユウの頬が桃色に染まる。
「い、いえ……」
ユウは空いた食器を盆に乗せると、慌てて部屋を出て行った。
「おやまぁ……」
「あらあら……」
「…………」
アキラ、ラキィ、ディオウが揃ってアズウェルを見る。
「へ?」
アズウェルは懲りずに魚の骨にかぶりついていた。
「いやまぁ、面白いことになりそうでんなぁ」
にやりとアキラがほくそ笑む。
「ん? だから何が?」
「大変ね。彼女も」
ラキィに尋ねても、彼女も笑うだけだった。
今度はディオウに訊く。
「だから、何?」
「……まぁ、お前は気付かないでいいことだ」
ぶっきらぼうに答えて、ディオウはそっぽを向いた。
「あら……ディオウ、あんた……」
「おや、ディオウはん……」
また妬いているのか。当人には伝わっていないが。
アキラとラキィは、未だに「わからない」とぼやくアズウェルと、「知らなくていい」の一点張りのディオウを面白そうに観賞していた。
◇ ◇ ◇
日は沈み、ワツキは夜の静寂に包まれている。
アズウェルたちは今晩アキラの家に泊まることになったのだが。
「う~ん。どうも寝付けない」
夜のワツキをアズウェルは一人で散策していた。
「何でディオウもラキィもあんなすぐに寝ちゃったんだ?」
腕組みをしながら静かな夜道を歩いていく。
「どうも、布団っていうのは寝にくいんだよなぁ」
ぶつぶつと独り言を並べているアズウェルの瞳に、見たことのある男が映った。
男は深刻な面持ちで足早に村の奥へと進んでいく。アズウェルには気付いていないようだ。
「あ、あれ……あいつ!」
呼び止めようとして、その名を飲み込む。
何故彼が、こんな夜中に此処にいるのだろうか。
足音を立てないように注意を払いながら、アズウェルは男の後を追った。




