前夜*「第9記 疾走マツザワ」
第9記から前夜の後半となります。
急げ。一刻も早く村に辿り着かなければ。
フレイトのエンジン音が、殺風景な平原に響き渡る。
現在、真昼。太陽が南の空に高く昇っていた。
急げ。早く。急げ。早く。
気持ちだけが、ただ逸る。
夏の日差しは女の額から汗を呼び出した。
アズウェルの家を出てからおよそ半日、彼女はフレイトを飛ばし続けている。流石に疲労と睡魔が強襲していた。
彼女は眠気を振り払うために下唇を強く噛み締めた。口の中に鉄の味が広がる。
早く、早く。
焦る気持ちに引かれるようにして、更にアクセルを踏み込んだ時。
がくりとバランスが崩れ、浮遊走行していたフレイトが大地を擦る。
「な……!?」
あまりの揺れに彼女が飛び降りると、フレイトは地面を抉りながら跳ねていき、程なくして停止した。
「く……! 何故動かない!?」
彼女がフレイトのスピードを上げすぎたため、エンジンがいかれてしまったのだ。
だが、彼女がそれに気付くはずもない。
「あとわずかで着くというのに!」
がん、と蹴り飛ばし、忌々しげに舌打ちする。
「走っていくしかないか……!」
突如目眩が襲い、彼女は片膝をついた。
眠っていない上に、食事も取っていない。凄まじい眠気が彼女の四肢を縛り付ける。
まだ倒れるわけにはいかない。早く、少しでも早く村へ辿り着かなければ。
その気落ちが彼女の体を動かす。
だが、皮肉なことに頭の中はぼんやりと霞がかかり、視界も歪む。
ふらりと立ち上がるが、疲労と睡魔が休めと誘惑してくる。彼女は強く頭を振ってその誘惑を払い除けた。
眠ってなどいられない。
ぎり、と正面を睨みつけ、彼女は走り出した。まるで風のように、彼女は疾走する。
急げ、急げ。少しでも一歩でも前へ、前へ。
平原が瞬く間に後方へと遠のいていく。
代わりに姿を見せたのは、鬱葱と茂る竹林だ。
大地を足で蹴る度に、笹の葉がぱりっと音を立てる。
この林を抜ければ、故郷だ。
強風が唸りを上げて女の長い黒髪を靡かせた。
深緑の視界が、明るく開けた。竹林が覆い隠していた家々が、数日前と少しも違うことなく佇んでいる。
「着いた……!」
女の足が、自然と速度を上げた。
心中に仕舞い込んでいた怒りと疑念が、沸々と湧き起こる。
この感情を吐き出すまでは、とても休めそうにない。
「お、あれ、マツザワ殿ではないか?」
「本当だ。もの凄い勢いでこっちに来るぞ」
村人が彼女を見つけて呟く。
「な、なんか凄い気迫が……」
ごくり、と村人は唾を飲んだ。
彼女の背後に龍の幻影が垣間見えた。何故かわからないが、彼女は激怒している。
「おい!!」
女の怒号が轟いた。
「は、はいっ!?」
村人はいきなり怒鳴られて上ずった声を上げる。
「族長は今どこにいる!?」
「え、あ、族長様は今、村役場で会議中かと……」
村人が全て言い終わらないうちに、風の如く彼女は駆けていった。
「何であんなに怒っていたんだろう? それにやけに急いでいたような……」
「一体どうしたんだろうな……」
取り残された二人は呆然と呟いた。
◇ ◇ ◇
「いいか、皆に急いで戦の準備をさせたまえ」
「は、承知いたしました」
「しかし、族長。そのような攻撃を受けきれるものなのでしょうか。第一、今マツザワ殿が離村しております」
「あれは、別にいなくてもいいだろう」
刹那、みし、という音と共に会議室の襖が吹き飛んだ。
付近にいた者が慌てて飛び退く。
「いなくてもいいなどと、勝手なことを言われては困る……!」
襖があったはずの場所には、鬼のような形相をした女が立っていた。
女は抜いた刀の先を族長に向け、厳かに言い放つ。
「次期族長である私が、何故村から遠ざけられなくてはならない? この村は私が守る! たとえ離村することが、父上の命令であろうと、私はクロウ族と戦う!!」
突然現れた我が子に族長は絶句する。
「な……何故、お前が此処に……」
「ディオウ殿とアズウェルに真相を聞き、帰還した」
「ディオウ殿……? アズウェル? 誰だそれは」
女は父に向けた刀を静かに下ろした。
「ディオウ殿は、ギアディスだ」
「な……!?」
その場にいた者全員が、彼女の言葉に息を飲む。
「千里眼を持つディオウ殿、言語能力のあるトゥルーメンズのラキィ殿、そしてその主であり、予知能力を持つアズウェル。以上三名が、我々の味方に付いた。クロウ族の企みを教えてくれたのも彼らだ」
女、マツザワは滔々と語る。
「父上、ディオウ殿からの言伝がある」
「な……何だ?」
マツザワは悠然とディオウの伝言を口にする。
「この戦は勝てる……!」
その言葉を言い切ると、マツザワは昏倒した。
◇ ◇ ◇
「うっ……!」
低い呻き声を上げて、マツザワは目を開いた。
「マツザワさん、気がつかれましたか?」
聞き慣れた声が耳に届く。
「ユウか……?」
ユウと呼ばれた少女は、にっこりと微笑んで頷いた。
少女の名はユウ・リアイリド。彼女は艶のある黒髪を肩よりやや短めに切り揃え、〝浴衣〟というスワロウ族独特の服を身に纏っていた。
「気分はいかがですか?」
柔らかく、温かい声でユウは尋ねる。
「あぁ、大分いいようだ」
「よかった……」
そう言うとユウは湯飲みに茶を注ぎ、マツザワに差し出した。
「どうぞ」
「ありがとう」
ユウは笑顔で応えると、薬草の煎じたものをマツザワに見せる。
天敵の襲来に、マツザワは顔を顰めた。
「薬もちゃんと飲まなきゃだめですよ。あ、でも何か食べないと飲めませんね」
ユウはすっと立ち上がると台所に行く。
「別に、薬も食事もいらない……」
その言葉に反してマツザワの腹の虫が鳴いた。
思い起こせば、アズウェル家での夕食が最後だ。
「お腹は素直ですね」
ユウが盆に夕餉を乗せて持ってくる。
スワロウ族の食事は、メニューを見れば時刻がすぐにわかった。
「もうそんな時間か……」
マツザワは布団から出て、窓の外を見る。夕日が空を紅く染めていた。
「私はどれくらい倒れていたんだ?」
マツザワが眉を寄せて言った。
「そうですね。だいたい三、四時間くらいでしょうか」
「そうか……」
「さぁ、早く食べてください。冷めてしまいます」
マツザワは無言で頷いて床を出ると、座布団の上に腰を下ろした。
夕餉を口に運びながらマツザワは小さく呟く。
「こんなにのんびりしていていいものなのだろうか……」
「大丈夫ですよ。呪い師が、クロウ族が攻めてくるまでに二、三日あると仰ってましたから」
「二、三日か……」
箸を置き腕組みをすると、口を閉ざして思案する。
すぐに動けないのだから、この際致し方あるまい。
「マツザワさん……?」
「ユウ、あの阿呆男を呼んでくれ」
「阿呆男……」
ユウは思い当たる人物を探しあぐねて、目を瞬かせた。
「あの、阿呆商人だ」
「あぁ、彼ですか。わかりました。少々お待ちください」
合点がいったユウは、静かに立ち上がると部屋を出て行く。
「あ、薬はちゃんと飲んでくださいね」
ひょこっと顔を出し、マツザワに念を押す。
「御意……」
「では、呼んできます」
ユウが家から出て行くと、マツザワは薬を睨みつけた。
「貴様だけは、ユウに頼まれても好きにはなれないな……」
できることなら、厄介になりたくない相手ではあるが。状況が状況なだけに、疲労を引きずるわけにもいくまい。
はぁ、と息を吐いて首を振る。
飲まなければ、あの穏やかな治療師に叱られるだろう。普段が温厚だからこそ、怒らせると村で一番恐いのだ。
再び溜息をついて薬を飲み干すが、あまりの不味さに卓上に突っ伏した。
◇ ◇ ◇
「やぁ、マツザワはん久しぶりやなぁ~」
耳障りな声にマツザワは抜刀した。
「来たか……阿呆商人!」
「おぉっと。いきなり何すんねん」
さして驚いた様子も見せずに飛び上がり、男はマツザワの太刀を避ける。そのまま突き出された刀の上に降り立った。実に無駄のない動きだ。
「……」
ひくひくとマツザワの頬が引きつる。
彼女が乱暴に刀を払う。それと同時に飛び上がった男は、空中で一回転して着地した。
「あんさん、さっきまでブッ倒れてたんやろ? そないな危ないモン振り回しとぉないで、休んでいた方がいいんとちゃう?」
「黙れ、阿呆商人」
「阿呆商人……くぅ~素晴らしいわぁ。そないに誉めなくてもええでぇ~。いやぁ照れまんがなぁ~」
堪忍袋の緒が、強烈な断裂音を伴って切れる。
我慢の限界だ。
素早く振り下ろした刀は、算盤によって軽々と受け止められた。
木製だというのに、傷一つつかない男の得物が恨めしい。
「ちょっと、マツザワさん、アキラさん。何喧嘩してるんですか!」
遅れて戻ってきたユウが、その様子を見て口を挟む。
ユウの兄でるアキラは、マツザワと同じ齢十九。幼馴染に相当するアキラが、マツザワはこの村――いや、この世界で最も苦手な生き物だった。
「ユウよ~、聞いとくれぇ。マツザワはんったらわいを見るなり、刀で襲ってきたんよぉ~。ひどい話やろぉ~? わいは心配して駆けつけてきたんよ? この仕打ちはあんまりやろぉ~」
実に精悍な顔つきの青年だが、その口調と内容が評価を下げていることを、彼は自覚しているのだろうか。
「黙れ、阿呆商人。何が心配して駆けつけた、だ。私がユウに頼んで呼んでもらっただけの話だろう」
「マツザワはんがわいを呼んでくれたんかぁ~。そら嬉しいわぁ~。何? わいに会いたかったんかぁ?」
アキラの満面の笑みと歓喜に満ち溢れた声が、マツザワの神経を逆撫でする。
「変なことを言うな! お前は今すぐ村から出て行け!!」
「ひどいわぁ~。わいを追い出すんかぁ?」
大声で怒鳴るマツザワに、アキラはわざと涙を浮かべてみた。
「マツザワさん、何もそこまでしなくても……」
そうやってユウの同情を呼んで面白がる態度が、気に入らない。
マツザワは二人の言葉を完全に無視して、大股でユウの家を出て行く。
「ちょい、待てぇな」
アキラがマツザワの腕を掴む。瞬時にマツザワの平手がアキラの頬に炸裂した。
「私に触れるな! 戯け者! さっさとロサリドに行って、客人を連れてこい!!」
「ほぉ。そういうことかいな。客人とは、ちまたで噂の彼らのことやな?」
「ギアディスも共にいる。くれぐれも無礼な行動はするな」
マツザワは背を向けたまま冷然と言う。
「あいな~」
「アキラさん、お気をつけて」
「ほいほ~い」
二人の忠告に何とも気の抜けた返事をして、アキラは村を出て行った。
「よかったです。アキラさんが追い出されなくて」
「あの阿呆はもう少し我が種族である自覚を持つべきだ」
見届けたマツザワは大きな溜息をついた。
何事も起きずに送迎を終えてくれれば良いのだが。
「疲れた……」
よろけたマツザワをユウが抱き留める。
「大丈夫ですか?」
「あぁ、すまない。……ん、どうした?」
淡く微笑んでいるユウに尋ねると、彼女は更に顔を和ませた。
「いえ、何も。マツザワさん、綺麗です」
「何が……」
怪訝そうに尋ねてくるその顔が、仄かに赤みを帯びているのは、きっと夕日のせいだけではないだろうから。
とても綺麗だと、ユウは思った。
「夕日、綺麗ですね」
そう微笑んだ三つ下の幼馴染に頷いて、マツザワも茜色の空を見上げた。