最後の日まで、ここで
登場人物
**八雲左京**
古書店『八雲堂』の店主。六十を過ぎた偏屈な老人。本と古いものをこよなく愛する。
**ユウ**
四十二年前、八雲堂に通っていた少年。左京から一冊の本を贈られ、ある約束を交わす。
**サツキ**
二十五年前、八雲堂に通っていた少女。本を読むことが好きで、左京ともある約束を交わす。
これは、三人と一冊の本をめぐる、長い年月を越えた物語です。
山あいの小さな村、霧島村。その片隅で、時代に取り残されたようにぽつんと佇む一軒の古書店があった。
看板には、かすれた筆文字で『八雲堂』。店主の名は、八雲左京。齢は六十を幾つか過ぎたところだ。白髪交じりの髪を無造作に後ろで束ね、丸いレンズの老眼鏡を鼻の先に引っかけた、いかにも偏屈そうな老人である。もっとも、本人は「偏屈などではない。私はただ、紙とインクと少しばかりの埃を愛しているだけだ」と主張するのだが。
この八雲堂は、もともと左京の親父が始めた店だった。幼い頃から、本に囲まれて育った。親父が亡くなり、彼が店を継いだのは、二十歳を過ぎたばかりの頃だ。あれから、もう四十年以上になる。気がつけば、八雲堂は六十年もの間、この村の片隅で静かに息づいてきたことになる。
(ああ、まただ)
カウンターの奥で、左京は小さくため息をついた。手にした文庫本のページの端が、ほんの少し黄ばんでいる。まるで、時が目に見える形で染み込んでいるかのようだった。
「あと……三十日か」
カレンダーを見やる。赤いペンで、大きく丸がつけられた日付。三十日後、この八雲堂は、その長い歴史に幕を閉じる。後継者はおらず、何より店主である左京自身が、もう体力的に限界だった。本を一冊、棚に戻すだけでも、腰に鈍い痛みが走る。
(潮時、なんだろうな)
そう思うのに、胸の奥がちくりと痛むのはなぜだろう。いや、わかっている。わかってしまっている。
「約束、したからなあ」
左京の呟きは、誰に届くでもなく、古い本棚に吸い込まれていった。
* * *
四十二年前のことだ。まだ左京が若く、親父から店を継いで間もない頃。両親を亡くし、親戚をたらい回しにされた末に、この村に流れ着いた少年がいた。名を、ユウといった。
ユウはいつも、ぼろぼろのリュックサックを背負って、八雲堂に通ってきていた。
「おっちゃん、ただで本、読ませてくれてありがとう」
ある日、ユウは決まり悪そうに、そう言った。
「金がないのはお互い様だ。気にするな」
左京は、適当に手をひらひらさせて応じたものだ。店の本を自由に読ませる代わりに、ユウは店の掃除や本の整理を手伝ってくれた。(今思えば、あれは立派な児童労働だったかもしれんなあ)
ユウがこの村を出ていくことになったのは、それから一年も経たないうちだ。
「遠くの施設に行くんだ。……もう、ここには戻れないかもしれない」
そう言ったユウの目は、ひどく寂しげで、それでいて、どこか遠くを見ていた。
「そうか」
左京はそれだけ言って、しばらく黙り込んだ。それから、一冊の本を差し出した。児童文学の、なんの変哲もない一冊だ。
「餞別だ。持っていけ」
ユウは驚いたように目を見開き、それから、泣きそうな顔で笑った。
「ありがとう。おっちゃん、俺、いつか絶対、この本を返しにくるから」
「ああ、待ってる」
左京は、ぽん、とユウの頭に手を置いた。
「いつまでも、待ってるからな」
それが、約束だった。
* * *
それから十七年が経った。二十五年前のことだ。今度は、ユウとは違う、少女が店に通うようになった。
サツキは、児童養護施設で育った少女だった。十一歳の時、ようやく引き取ってくれる養親が見つかった。優しい養母だったが、体が弱く、長く患っていた。その養母の療養のために、都会からこの霧島村へと引っ越してきたのである。
サツキは、いつも、どこか憂いを帯びた目をした、綺麗な黒髪の子だった。決まって手に取るのは、西洋のファンタジー小説だ。
「この村には、なんにもないのね」
サツキはある日、ぽつりとこぼした。
「そうか? 私は好きだがね。この村の、なんにもなさが」
左京が応じると、サツキは意外そうに彼を見つめた。
「変わり者ね、おじさんは」
「偏屈者と言ってくれ。褒め言葉だ」
左京がそう言うと、サツキは初めて、ふわりと笑った。
「……ねえ、おじさん」
サツキはある日、本のページを繰りながら、ぽつりと話し始めた。
「私がいた施設にね、ユウお兄ちゃんっていう人が、時々来てくれてたの」
「ユウ……?」
左京の心臓が、どきりと跳ねた。
「うん。その人、昔その施設で育ったんだって。大人になってからも、よく顔を見せに来てくれてね。いつも一冊の本を宝物みたいに持ってて。『いつか、この本を返しに行くんだ』って、よく話してくれたの」
「その本、どんな本だったか、わかるか?」
左京の声が、少し震えたことに、サツキは気づかなかったようだ。
「えっとね、児童文学の名作って言われてるやつで……」
それからサツキが話したあらすじは、間違いなく、左京がユウに渡した本の内容だった。
「お兄ちゃんね、いつも言ってた。『霧島村には、最高の本屋のおっちゃんがいるんだ』って」
サツキは、懐かしそうに目を細めた。
「だから私、この村に来るって決まったとき、嬉しかった。お兄ちゃんが大好きだった本屋さんに、私も行けるんだって」
「そうか……」
左京は、それ以上何も言えなかった。あのユウが、大人になって、施設の子どもたちに自分の話をしてくれていた。その話が、また新しい客を、この店に連れてきてくれたのだ。
(お前は、ちゃんと約束を守ろうとしてくれていたんだな)
左京は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
* * *
養母が亡くなり、サツキが村を出る日。彼女は、一冊のファンタジー小説を抱えて、店に現れた。村に来てから、わずか一年も経っていなかった。
「これ、おじさんに借りてた本」
「ああ、そうだったか」
左京は、もうとっくに忘れていた。
「ありがとう。……私、この本、大好きだった」
サツキの目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「おじさん。私、大人になったら、絶対この村に戻ってくる。そしたら、この本、また借りにきていい?」
「ああ、もちろんだとも」
左京は、できる限り優しく、そう言った。
「いつまでだって、待ってるよ」
だから、約束したのだ。二人の、まだ幼い子どもと。いつかまた、この店で会おうと。
* * *
閉店まで、あと十日。店の蔵書は、ほとんどが買取業者に引き取られ、棚はがらんどうになりつつあった。残っているのは、売れ残った本か、左京がどうしても手放せない本ばかりだ。
(それにしても、静かになったもんだ)
カウンターに座って、ぼんやりと窓の外を眺める。穏やかな春の陽射し。遠くの山々は、うっすらと桜色に霞んでいる。
ガラガラ、と引き戸が開く音がした。
「いらっしゃい……」
言いかけて、左京は目を丸くする。入ってきたのは、スーツをびしっと着こなした、若い女だった。年の頃は、三十代半ばといったところか。きっちりと揃えられた黒髪に、銀縁の眼鏡。都会の空気を、そのまま連れてきたような女だ。
「八雲左京さん、でしょうか」
女は、抑揚の少ない声で尋ねた。
「そうだが……あんたは?」
「申し遅れました。私、サツキと申します」
サツキと名乗った女は、ぺこりと頭を下げた。
「サツキ……?」
左京は、耳を疑った。二十五年前、この店に通っていた、あの少女と同じ名前。
(まさか、そんな)
心臓が、早鐘を打つ。
「氷室、サツキか?」
左京が恐る恐る尋ねると、女は、ふっと表情を崩した。それは、あの日、初めて左京に笑いかけたときと、同じ笑顔だった。
「はい。お久しぶりです、おじさん。……大きくなったでしょう?」
* * *
左京は、しばらく言葉を失っていた。目の前に立つ、このきりっとした大人の女性が、かつて「この村には、なんにもないのね」とこぼしていた、あの憂い顔の少女だなんて。
「いや、驚いた。まさか、本当に戻ってくるとは」
左京がようやく絞り出すと、サツキは、申し訳なさそうにうつむいた。
「遅くなって、ごめんなさい。本当は、もっと早く来るつもりだったんです。でも、仕事がどうしても抜けられなくて」
「いや、いいんだ。来てくれただけで、充分だ」
左京は、ぶっきらぼうに言って、カウンターから出た。
「それで、あんた、今日は……」
「これを、返しに来ました」
サツキは、鞄の中から、一冊の本を取り出した。それは、見覚えのある、少し古びたファンタジー小説だった。
「二十五年前に、おじさんに借りた本です」
「ああ……」
左京は、震える手で、その本を受け取った。表紙は色あせ、ページの端はすっかり黄ばんでいる。でも、確かに、それはあの日、サツキが抱えていた本だった。
「よく、覚えてたな」
「忘れられるわけ、ないじゃないですか」
サツキは、少し泣きそうな声で言った。
「この本が、私の宝物だったんです。お母さんが亡くなって、何もかもが嫌になったときも、この本を読むと、おじさんの店の匂いや、おじさんの声を思い出せて。……だから、絶対に、返さなきゃって」
「……馬鹿だなあ」
左京は、目頭が熱くなるのを感じた。
「たかが、本一冊だろうが。こんなもの、いつまでも取っておかなくたって……」
「たかが一冊、じゃないです」
サツキは、きっぱりと言った。
「おじさんにとっては、それだけかもしれない。でも、私にとっては、違った。おじさんの『いつまでも待ってる』って言葉が、ずっと、私を支えてくれてた」
左京は、返す言葉を失った。二十五年前、何気なく口にした言葉が、こんなにも長く、一人の人間の心に残っていたなんて。
「……ありがとう」
やっとの思いで、それだけ言った。
「本当に、ありがとう」
サツキは、泣き笑いのような顔で、うなずいた。
* * *
それから、閉店までの数日間、サツキは毎日のように店を訪れた。昔のように本を読むわけではない。ただ、カウンターの前に立ち、左京が本を読む姿を、じっと見つめているのだった。
「なんだ、まだいたのか」
「はい。もう少しだけ、ここにいさせてください」
サツキは、まるで子どものように、そう言って微笑んだ。
そして、ついに、最後の日がやってきた。八雲堂、閉店の日。
朝から、ぽつぽつと、常連客が顔を出した。「長い間、お疲れ様でした」「ここの本、大好きだったんですよ」「ありがとうございました、八雲さん」一人ひとりと言葉を交わし、頭を下げる。
(ああ、終わるんだな)
そんな実感が、じわじわと胸に広がっていく。
夕暮れ時。店には、左京とサツキの二人だけが残された。
「サツキさん、今日まで本当にありがとう。助かった」
「いいえ。私の方こそ、貴重な時間をありがとうございました」
サツキは、深々とお辞儀をした。
「八雲さん。最後に、どうしてもお伝えしたいことがあります」
「なんだい? 改まって」
左京が尋ねると、サツキは、持っていた鞄の中から、もう一冊の本と、一通の封筒を取り出した。
「これは……?」
「四十二年前に、あなたがユウという少年に渡した本です」
サツキの声は、わずかに震えていた。
「ユウ……!」
「ユウは、数年前に病で亡くなりました。亡くなる少し前のことです。病床で、この手紙を書いたユウお兄ちゃんは、ずっと大切にしていたこの本と一緒に、私に託してくれたんです。『必ず、おっちゃんに返してくれ』と。それが、彼の最後の願いでした」
言葉が、出てこない。
「私が施設にいた頃、ユウお兄ちゃんは、いつもこの本を大切に持って訪ねてきてくれました。『いつか、この本を返しに行くんだ』って、それが口癖で。……あの日、私がこの店に初めて来たのだって、ユウお兄ちゃんに教えてもらったからなんです」
サツキは、一呼吸置いて、続けた。
「だから、約束したんです。私が大人になったら、二人分の約束を、果たしに来ようって」
左京は、震える手で、ユウの本と封筒を受け取った。児童文学の名作。四十二年前、ユウに渡したのと同じ本。表紙は擦り切れ、ページは手垢で黒ずんでいる。どれだけ、ユウがこの本を読み込んだのか、その痕跡が、痛いほどに残っていた。
「馬鹿な、やつらだ」
左京の目から、涙がこぼれ落ちた。
「たかが、本一冊のために。……こんな、約束のために」
「あなたにとっては、たかが一冊の本だったかもしれません」
サツキは、優しく微笑んだ。
「でも、私たちにとっては、違った。あなたの言葉が、あなたのくれた一冊が、どれだけ私たちの心を支えてきたか」
「っ」
「約束は、果たされました。八雲さん」
サツキは、まっすぐに左京を見つめた。
「これで、あなたは、ようやく、自分の人生を生きられるんですよ」
* * *
サツキが帰った後、左京は、震える手で封筒を開けた。中から出てきたのは、一枚の便箋。几帳面な、でも少し右上がりの、少年らしい文字が並んでいた。
『おっちゃんへ
おっちゃん、元気ですか。俺は、あんまり元気じゃありません。たぶん、もう長くないんだと思います。
だから、手紙を書きます。おっちゃんに、どうしても伝えたいことがあるから。
おっちゃんがくれた本、今でも大事に持ってるよ。もうぼろぼろだけど、俺の宝物です。
おっちゃんは、「いつまでも待ってる」って言ったよね。俺、あの言葉が、ずっと心の支えでした。施設で辛いことがあっても、学校で嫌なことがあっても、霧島村に帰れば、おっちゃんが待っててくれる。そう思うだけで、頑張れた。
それからね、俺が大人になって、前にいた施設に顔を出すようになったんだ。そしたら、サツキっていう、目がくりくりした小さな子がいてさ。あいつ、俺の本を読んで、「私もこの本屋さんに行ってみたい」って。だから教えてやったんだ。霧島村の、八雲堂って本屋さんのこと。偏屈だけど、すごく優しいおっちゃんがいるんだぞって。
そしたらあいつ、本当に霧島村に行くことになって。すごい偶然だろ? 運命って、あるんだなあ。
約束、守れなくてごめんなさい。でも、サツキに託しました。あいつなら、きっと届けてくれる。あいつも、おっちゃんの本が大好きで、いつか絶対に返しに行くんだって言ってたから。
おっちゃん、本をありがとう。そして、約束をありがとう。
おっちゃんの言葉は、俺の人生そのものでした。
新荘優』
左京は、手紙を握りしめたまま、しばらく動けなかった。涙が、ぼたぼたと便箋に落ちて、インクを滲ませる。
(ユウ……)
あの日、ぽんと頭に手を置いた少年。遠くの施設に行くと、寂しそうに笑った少年。彼は、四十二年前の約束を、一生、抱えて生きてくれたのだ。
そして、サツキ。
(そうか、お前は、ユウから聞いていたのか)
十一歳のサツキが、初めてこの店を訪れたときのこと。左京は、そのときの情景を、ありありと思い出した。
「この村には、なんにもないのね」
そう言ったサツキは、それでも、どこか懐かしそうな目で、店内を見回していた。
(あの目は、ユウの話を聞いて、ずっと憧れていたからか)
二十五年前の少女と、四十二年前の少年。二人の時間が、この店で、確かにつながっていたのだ。
「ちっ」
左京は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を、手の甲で乱暴に拭った。
「ああ、もう。せっかく、きれいに畳もうと思ってたのに」
人生ってやつは、最後の最後まで、思い通りにはいかないらしい。
ふと、サツキが返してくれたファンタジー小説を手に取る。ページをぱらぱらとめくると、物語の最後のページに、一枚の栞が挟まっていた。押し花がラミネートされた、手作りの栞だ。裏返すと、そこには、少し右上がりの、見覚えのある文字で、こう記されていた。
「いつまでも待ってる。それは、呪いの言葉なんかじゃない。生きる理由をくれる、優しい約束だ」
(これは……ユウの字だ)
左京は、息を呑んだ。この栞は、サツキが自分の本に挟んでいたものだ。二十五年前、彼女がこの店に通っていた頃から、ずっと。
(サツキは、この言葉を、毎日見ていたのか)
ユウの言葉を。ユウが左京から受け取った、約束の言葉を。彼女はそれを、自分のお守りのように、大切に本に挟んでいたのだ。
「そうか……」
左京は、本を閉じた。表紙には、二十五年前と変わらない、ファンタジーの世界が広がっている。でも、その物語は、もうとっくに、本の外にまで溢れ出していた。
八雲左京は、二冊の本と一通の手紙、そして一枚の栞を抱え、誰もいなくなった店の奥へと消えた。その背中は、どこか憑き物が落ちたように、軽く見えた。
店の外では、春の宵が、静かに更けようとしていた。
――おわり。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。




