王女が恋したお相手は。
今夜はとても大事な夜会のはずだった。
しかし、王族席に座る国王夫妻の表情は険しく、招待客はいつまでも始まらない夜会に戸惑った。
国王夫妻待望の娘である、シャーリー王女の婚約発表。
それが夜会の名目だ。三人目の王子の出産から、だいぶ離れてからの王女の誕生。国王夫妻はそれはそれは甘やかして育てた。三人の王子が呆れかえるほどに。
王女をずっと手元においておきたかった国王夫妻だったが、王女が十八歳を迎える頃、とうとう諦めて婚約者探しを始めた。しかし、釣り合う年齢の有力貴族令息にはすでに婚約者がいる。
そこで白羽の矢が立ったのは、留学帰りのスティーブン・フロスト公爵令息だった。
そんなシャーリー王女とスティーブンの婚約発表を兼ねた夜会なのに、肝心のシャーリーだけが姿を現していないのである。
無表情で立つフロスト公爵親子を、招待客はいたたまれない気持ちで眺めている。
長く感じられた地獄のような時間も、突然終止符が打たれた。
血相を変えた宰相が、息を切らしながらホールに飛び込んで来た。注目の中で宰相が国王に耳打ちをしたのと同時に、ホールの大きな扉が開いた。
全員が扉に注目する。
そこには、背の高い男と微笑み合うシャーリー王女の姿があった。招待客は、王女の登場に礼をするのも忘れていた。それほど、その光景が異様だったからだ。
「シャーリー! お前はいったい何処に」
国王が立ち上がった。シャーリーは一瞬目を見開いたが、隣に立つ男性の腕を取ったまま、フロスト公爵親子の前を通り過ぎると国王夫妻の前に立った。
「遅くなってごめんなさい。私、この人……トムと一緒になるの」
嬉しそうに笑顔で言うシャーリーに、王妃が小さく悲鳴を上げた。
悲鳴を上げるのも無理はない。トムと呼ばれた男性は顔の造形こそ美しかったが、汚れたシャツとスラックスに、底のすり減った靴という姿。どこから見ても貴族ではなく平民そのものだ。
この場にいる全員が驚きで声を失っている中、シャーリーとトムだけが幸せそうに微笑み合っていた。
「シャーリー。お前は王女だ。平民なんかと一緒になれないのはわかるだろう」
「そうよ。今まで何不自由なくお前を育てたのに、何が不満で平民なんかと……」
国王がまるで幼い子どもに言い聞かせるように諭し、王妃は泣き崩れた。しかし、シャーリーはわかっているという風に頷いて言った。
「実はこの人ね、お隣の国のとある王族の落胤なんですって」
国王がちらりと宰相を見る。宰相は首を横に振った。
「信じていないのね! トムのお母様が毎晩そう言っているんですって。だから本当よ!」
シャーリーはトムの腕にしがみつく。そんなシャーリーの背中を、トムは諫めるように軽く叩いた。
「それに、トムはとっても働き者なのよ。朝早くから夜遅くまで、毎日働いているのよ」
「ほう、そんなに働かなければならない理由が……。おい、トムとやら」
顎に手をやり考えていた国王が、トムの名を呼んだ。トムは国王に笑顔を向けた。
「はい」
「なぜ、そんなに働いておる。まさか、借金があるのではないだろうな」
「はい。あと、五年で完済できます」
「……!?」
あまりにも堂々と借金の存在を認めたトムに、国王も周囲にいる者も絶句した。
「仕方がないじゃない。トムのお母様は働いていないのよ。それにお金目当てなら、とっくに私から騙し取っているはず。私、トムに何ひとつ渡したことはないわ」
確かに……。場に複雑な空気が流れる。
「しかし、お前はどうやってトムと出会ったんだ」
再び国王が尋ねる。シャーリーは頬を染めながら答えた。
「お母様の娘時代の話を聞いて、王宮の外に興味を持ったの。お忍びで出かけているのは、お父様もお母様も知っていたでしょう?」
国王夫妻がばつが悪そうに顔を見合わせた。侯爵家令嬢だった王妃は王都の街の話をしたことがあった。それに、シャーリーが羽を伸ばしているのも見て見ぬふりをしていたのは事実だ。
「だからと言って、平民のいる下町に通っていたとは……」
「侍女から報告はなかったわ。誰か、シャーリーの侍女を呼んで来なさい」
何人かがバタバタとホールを出て行く。シャーリーは続けた。
「ある日、私は侍女のメアリを怒鳴っていたの。理由は忘れたわ。きっと、些細なこと。そうしたらトムが現れて言ったの」
シャーリーはうっとりした目でトムを見つめた。
「そんなキレイな顔をして酷い言葉を言っちゃダメだって。私、誰かを怒鳴ることが悪いことって知らなかった。酷い言葉は人を傷つけるって知らなかった……トムが教えてくれたの」
国王夫妻は何も言えなかった。シャーリーをわがままに育ててしまった自覚があったからだ。幼い頃から、専属の侍女たちはすぐに辞めていった。
シャーリー専属の侍女メアリは、すぐに連れられて来た。メアリは気の毒なぐらいに青ざめていた。
「お前がついていながら、どうしてシャーリーは平民なんかと付き合うことになった」
国王が鋭い目つきで質問する。メアリはガタガタと震えていたが、勇気を出したように口を開いた。
「ト、トムさんと会われるようになってから……王女殿下は怒鳴ったり、物を投げたりされなくなりました」
メアリがその場に泣き崩れた。そして、両手を床についたまま続けた。
「いけないとはわかっていました。でも、せっかくお優しくなった王女殿下が元に戻ってしまうのが怖くて……申し訳ありません!」
泣きながら謝罪するメアリを、誰も責められなかった。確かに、最近のシャーリーは丸くなったと使用人の中では噂になっている。使用人たちも、いつも辛く当たられるメアリを気の毒に思っていたのも事実だ。
後ろに控える使用人たちの目が痛い……国王夫妻は、これ以上メアリを責めることができなかった。
「それに……」
しばらく泣いていたメアリが、顔を上げた。国王夫妻もシャーリーも、メアリを見つめた。
「トムさんは、私にも優しくして下さいました」
涙こそ浮かんでいたが、メアリはどこか嬉しそうに爆弾発言を落とした。皆、視線をメアリからトムに移す。
トムは相変わらずニコニコと立っていた。
「トム、本当なの? あなた、メアリにも優しくしていたって」
「ああ、本当だよ」
「私が泣いていると、そっと背中を摩って慰めてくれました」
「……どういうことなの、トム」
ニコニコしているトムを挟んで、シャーリーがメアリを睨みつけた。肩を震わせたメアリだが、王妃だけはメアリの表情に女の嫌らしいものを感じた。
トムはしゃがんだままのメアリを立ち上がらせてから、シャーリーの髪をそっと撫でた。
「俺は、すべての女性に優しくするって決めているんだ。世の中の女性は皆、宝物だからね」
シャーリーにとってはとんでもない発言だったが、ホールにいる女性たちのトムに対する目が少し柔らかくなった。
「女性だけじゃないよ。子どもも可愛いから好きだよ。世の中の子どもには、いつも笑顔でいて欲しいし」
これを聞いたシャーリーは、トムの心の大きさに感心した。そして、メアリに対して醜い嫉妬をした自分を恥ずかしく思った。
「俺の三人の子どもたちも、いつも笑っているし」
その途端、ホールの温度が下がった。
シャーリーは理解が追いつかないのか目を見開き凍りつく。招待客はトムの発言に驚愕し、特に女性たちは、ついさっきトムに肩入れした自分を記憶から即座に消した。
国王が震える声で聞く。
「お前……子どもがいるのか」
「はい! 妻と可愛い子どもの五人で幸せに暮らしています」
まるで褒められたかのように嬉しそうなトムに、ホールにいる誰も、状況が理解できないでいた。
「宰相っ!」
国王が獣の咆哮のような怒鳴り声を上げ、宰相含めた数人が素早くホールを飛び出した。トムの裏を取りに行くのだろう。
「お、奥さんと……子どもがいたの?!」
「いるよ」
「何も聞いていないわ!」
「聞かれたっけ?」
蒼白になりながら、シャーリーがトムを問い詰める。が、トムは責められているとも思っていないのだろう。終始態度が変わらない。
「お前、結婚するつもりでシャーリーと……王女と過ごしていたのではなかったのか?」
国王が低い声でゆっくりと尋ねた。これは相当怒りを抑えている……招待客たちの背中に冷たい汗が流れた。とうとう、シャーリーも涙声となった。
「結婚するつもりじゃなかったの?」
「そんなこと、言ったっけ?」
「一緒にずっと笑っていたいって……」
「ずっと怒っているより笑っていたいって言ったね。懐かしい」
「……」
今度はシャーリーが膝から崩れた。トムは驚いて、シャーリーを支えた。国王がゆっくりとトムに近づこうと歩き出す。近衛が止めていいものか焦る。皆、ことの成り行きを黙って見ているしかなかった……。
「失礼します!」
またしても空気を変えたのは、宰相だった。夜会にシャーリーが現れなかった時点で、情報収集に部下を走らせていたのだ。
「今、報告がありました。その男、トムについてです」
国王が足を止め、報告を促すように顎をしゃくった。
「借金についてですが、その男の言う通り五年後に完済予定です。母親の作った借金を、毎月遅れることなく返していると金貸しがいたく誉めていまして……」
国王は眉間に皺を寄せた。トムはニコニコと頷いた。
「下町の女性たちも、感謝こそすれ恨んでいる者は誰一人いませんでした。暴力男と別れる時に間に入ってもらったやら、娼館に売られそうになったところを助けてもらったやら……年齢問わず、女性はその男に好印象でした。夫婦仲も良好だそうです」
国王は唸る。これでは非の打ち所がない。
「最後に、隣国の王族の落胤の話ですが……。これは、男の母親の十八番と言いますか。酔った時に必ず言い出す与太話だそうで」
最後に宰相は言いにくそうに声を小さくした。
「あのあたりの平民たちのジョークと言いますか……明らかに陛下より年上の男性が『俺は国王陛下の隠し子だ』なんて酔っ払って言うことも少なくなく……」
最後の報告に、国王は頭を抱えてしまった。平民は、そんな不謹慎な遊びをしているのか、と。
それまで黙っていた王妃が、国王に代わって口を開いた。
「でも、シャーリーに手を出したのでしょう?」
それを聞いて国王の目に一気に怒りの色がもどってきた。どんなに好青年でも、妻帯者の平民が王女に手を出していい訳がない。しかしトムは、今日初めて顔をしかめた。
「手なんて出す訳ないでしょう! そんな不埒なことをするはずがない!」
あまりの勢いに、国王と王妃はシャーリーを見る。シャーリーは少し俯いて、そして頷いた。
「何度誘っても、手すら握ってくれなかったわ。大事にされているって思っていたぐらい、何も」
俯いてしまったシャーリーに、誰も何も言えなかった。
しかし、トムだけは違った。
「もう外が暗い。俺、そろそろ帰らなきゃ。子どもも風呂に入れないとだし」
お前、何言っているんだ……。
そう言いたそうな周囲の目なんて気にせず、トムはシャーリーの肩をポンと叩いて言った。
「ある日、身なりのいいお嬢さんが現れて、町のみんな心配していたんだ。どこかの貴族令嬢が親子喧嘩して家出したんじゃないかって」
シャーリーは目を伏せる。
「親子喧嘩の仲裁だと思ってついて来たけど、あまり親父さんに心配掛けるんじゃないぞ。いつでも話は聞くからさ」
トムはそう言うと、シャーリーにウインクをひとつして颯爽とホールを出て行ってしまった。
残された面々は、内心では自分も帰りたいと思ったものの、国王やシャーリーの心境を慮るとその場に居残るしか選択肢はなかった。
「結局、王女殿下が勘違いして暴走した?」
「どう育てたら、ああなるんだ」
ヒソヒソと囁く声があちこちから上がり始めた、その時……。
「この婚約はなかったことにしましょう」
今まで静観の姿勢を貫いていたフロスト公爵が口を開いた。
「スティーブンと共に我が公爵家を継ぐには、シャーリー王女はあまりにも幼すぎた」
はっきりと言い切る公爵に、国王夫妻もシャーリーも項垂れるしかなかった。力なく、国王がシャーリーに話し掛けた。
「……お前は、この先どうしたい?」
その声は落胆しているものの、決して見放したものではない。シャーリーはしばらく唇を噛んでいたが、やがてゆっくりと国王の目を見て話し始めた。
「お父様、お母様……ごめんなさい。私は……」
そこでシャーリーは黙ってしまった。その目には涙が溜まる。が、シャーリーは決してその涙を流そうとはしなかった。
「私……遅いかもしれないけれど、学びたい。何を学べばいいのかわからないけれど、このままではきっと、また同じことになるわ」
シャーリーは力なく、しかし、しっかりと国王に言い切った。
国王夫妻は何も言えなかった。シャーリーが兄たちが通った学園に入学する年、娘可愛さに入学を許さなかったのは自分たちだ。まさか娘に必要なのが自分たちの庇護ではなく、教養と自立心だとはひとつも思わなかったのだ。
二人の視界に、まだ目を赤くして控えるメアリが入る。今さらだが、娘可愛さの余り、仕える者たちへの負担を考えてはいなかったことに気づかされた。
国王夫妻が困ったように顔を見合わせる。
娘を可愛がり過ぎている自覚のある招待客たちも、気まずそうに顔を伏せた。
見つめ合う国王親子の隣で、スティーブンはフロスト公爵に目を向けた。公爵は息子の意図が分からず眉を顰めたが、口は挟まなかった。しばらくしてから、スティーブンがシャーリーに向かって口を開いた。
「私は、来月からまた近隣の国に留学します」
シャーリーは、スティーブンが何を言いたいのかわからないという表情をして、ぼんやりとスティーブンを見た。
二人が目を合わせたのは、この時が初めてだった。
「シャーリー王女さえ良ければ、一緒に留学しませんか」
ぼんやりしていたシャーリーの目が見開く。周囲に空気がざわっとした。
「私が……」
「あなたが何かを学びたいのならぴったりの国です。あの国には、近隣各国の貴族や優秀な平民が学びに来る。そこには身分も何もない、ただ学ぶ姿勢が問われるだけです」
王妃が口を挟もうとしたのを、国王が止めた。
「私は、同じ留学生としてあなたを支えることができる。そこで、あなたは自分の生きる目的と将来の伴侶を探せばいい。私もそこで自分の妻となる人をのんびりと探します」
スティーブンの主張に、シャーリーは何も言えなかった。だが、その瞳には希望の光が差していく。
「……あなたには失礼なことばかりしているのに。こんな私の力になっていただけるのかしら」
おどおどと言うシャーリーに、スティーブンは満面の笑みを向けた。
「もちろん! まずは友人としてお願いします」
そう言いながら差し出されたスティーブンの右手を、シャーリーは力強く握りしめた。
国王夫妻が、スティーブン親子に深々と礼をする。ホールからは、拍手の代わりに優しい笑みが送られた。
高揚のせいか頬を赤くしたシャーリーがスティーブンに言い切った。
「今度こそ誰かの言葉ではなく、自分の目で見て、自分で考えます」
スティーブンは力強く頷いた。
帰りの公爵家の馬車の中。
フロスト公爵が向かいに座るスティーブンに疲れた様子で話し掛けた。
「間一髪で助かったな。あの王女では、うちの嫁は務まらん。いくら国王の頼みでも無理だ」
それを聞いたスティーブンは、ニコニコしたままで公爵に返した。
「そうですね。でも、あの方が化けたらどうでしょう。それこそ、私が欲しくてたまらなくなるぐらいにね」
公爵が顔をしかめる。
「お前、まさか初めからそのつもりで……」
スティーブンはただ黙って、楽しそうに馬車の外を眺めていた。




