第12話 異世界での新しい我が家
ガタン。
蹄の音がゆっくりと止まり、木の車輪がギシギシと軋んだ。
それまで流れていた景色も、雲も、時間さえも止まったような気がする。
御者は手綱を軽く引くと荷台から飛び降り、大きく背伸びをした。
「着いたぞ」
チョボが籠の中で「コッコッ」と小さく鳴き、首を左右へ振って辺りを見回している。
私も幌をめくって外を覗いた。
「……ここが、十勝の町」
目の前に広がる町並みは、オホーツク領とどこかよく似ていた。
石畳の道。
石造りの家々。
煙突から立ち上る白い煙。
広場の中央では噴水が涼しげな音を立て、獣人の子どもたちが服のまま水遊びをして笑い声を響かせている。
露店も並んでいた。
串焼きの肉を焼く香ばしい匂い。
焼きたてのパンの香り。
甘い果物の匂い。
市場は活気にあふれている。
でも。
「やっぱり……」
私は小さく鼻を鳴らした。
どこにも出汁の香りがしない。
昆布も鰹節も、野菜を煮込んだ優しい香りも漂ってこない。
この町にも、私の料理を待っている人がきっといる。
そんな気がした。
御者が幌をめくりながら、人差し指で一軒の建物を示す。
「お嬢ちゃん、着いたぜ」
日に焼けた笑顔で笑う。
「ここがあんたの新しい家だ」
「は、はい!」
慌てて荷台を飛び降りる。
目の前には二階建ての建物が建っていた。
青い屋根の上へ覆いかぶさるように、大きな椎の木が枝を広げている。
風が吹くたび木漏れ日が揺れ、葉擦れの音が心地よく耳に届いた。
「わぁ……大きい」
思わず見上げる。
外壁はところどころペンキが剥げ、木枠の窓も少し色褪せている。
それでも不思議と嫌な印象はなかった。
「十分」
私は頷いた。
店を開くまでにペンキを塗り直そう。
窓も磨こう。
看板も新しく作りたい。
少しずつ、自分の店にしていけばいい。
入口の脇にはテラコッタの植木鉢が一つ置かれていた。
「これかな?」
持ち上げた瞬間。
「ぎゃーっ!」
ダンゴムシたちが悲鳴を上げながら一斉に這い出してくる。
「ご、ごめんね!」
思わず謝ってしまう。
異世界では虫までしゃべるのかと思ったけれど、よく見ると悲鳴を上げていたのは一匹だけで、残りは慌てて逃げ回っているだけだった。
植木鉢の下には、小さな真鍮の鍵が隠されていた。
泥を払う。
陽の光を浴びた鍵には、可愛らしいマーガレットの花が丁寧に彫られていた。
「今日からよろしくね」
誰にともなく呟き、鍵穴へ差し込む。
右へゆっくり回す。
ガチャ。
鈍い手応えとともに錠が外れた。
真鍮のドアノブは太陽に熱せられ、ほんのり温かい。
私は深呼吸をひとつして、ゆっくりと扉を押し開けた。
ギィィ……。
長い間閉ざされていた店内から、埃と少し湿ったカビの匂いが流れ出してくる。
「窓を開けてもいいですか?」
「おう。その間に荷物を下ろしておく」
「ありがとうございます」
私は店の中へ入った。
床板は少し軋むものの、思ったよりしっかりしている。
窓という窓を開け放つ。
涼しい風が吹き抜け、重かった空気を少しずつ押し流していった。
二階へ続く木の階段を上る。
ギシ。
ギシ。
一段ずつ確かめながら歩く。
そこにはベッドが一つ置かれた小さな部屋があった。
蜘蛛の巣を払い、木戸を開く。
眩しい陽射しが一気に差し込み、光の中で埃が金色に舞い上がった。
「きれい……」
思わず見惚れる。
ベッドは少し古いけれど、マットレスとシーツを替えれば十分使えそうだった。
窓から見えるのは十勝の町並み。
遠くには畑が広がり、その向こうを川が流れている。
朝になれば気持ちのいい景色が見られそうだ。
私は手すりについた煤を払いながら一階へ降りる。
手をパンパンと叩き、腰へ手を当てて食堂を見回した。
風が通り抜け、さっきまでのカビ臭さはかなり薄れている。
「いいお店になりそう」
木製のテーブルが三つ。
椅子は十二脚。
決して広くはない。
でも、一人で切り盛りするにはちょうどいい広さだった。
ここで料理を作り、お客さんが「美味しい」と笑う。
そんな光景が自然と頭へ浮かんでくる。
キッチンへ足を運ぶ。
流し台は思ったより新しく、水道まで付いていた。
蛇口をひねる。
ゴボッ。
勢いよく飛び出したのは茶褐色の水だった。
「わっ!」
慌てて飛び退く。
しばらく流していると、少しずつ透明になっていく。
「ちゃんと使えそうね」
ほっと胸を撫で下ろした、その時だった。
「おーい!」
外から御者の声が聞こえる。
「はーい!」
蛇口を閉め、外へ出る。
そこには木箱が山のように積まれていた。
「これはどこへ運べばいいんだい?」
「……とりあえず、お店の中へお願いします」
「よし、任せろ」
私は一番軽そうな木箱を抱えた。
中では、お玉や木べらがコトコトと可愛らしい音を立てている。
御者は皿や寸胴鍋の入った重たい木箱を軽々と持ち上げ、慎重に店内へ運び込んでくれた。
何度も何度も往復する。
額から汗が流れ、首筋を伝う。
御者は布で汗を拭いながら笑った。
「いい汗だ」
「はい」
気付けば空は茜色から群青色へ変わり、一番星が静かに輝いていた。
最後の木箱を運び終えると、御者は大きく息を吐いた。
「爽子、頑張るんだぞ」
すると馬が私の肩へ優しく頬を擦り寄せてくる。
「きっと繁盛するさ」
その温もりに思わず笑顔になる。
「ありがとう」
「お嬢ちゃん、元気でな」
「ありがとう、これ......お礼です」
彼の手に金貨を二枚手渡した。御者は目を丸くして「いいのかい、こんなに」と驚きながらも笑顔で受け取り、腰に結んだ麻袋に入れた。
チャリン。
お別れの音だ。
チャリン。
寂しさがふと、胸をよぎる。
「またいつか、うまい飯を食べに来るよ」
御者は手を振った。
「待ってます!」
幌馬車はガタゴトと音を立てながら、札幌に向かって出発した。
私は見えなくなるまで何度も手を振った。
やがて町は静けさを取り戻す。
私は振り返り、新しい店を見上げた。
七泊八日の旅は終わった。
今日からここが、私の家。
そして――。
「ここが異世界北海道で、一番うまい食堂酒場が始まる場所」




