愛されてると思ってました
お読みいただきありがとうございます。
満月シリーズ二作目です。
「お母様……」
母の部屋で、十四歳のユゼファは骨が浮いた手を握り涙を流した。
「ユゼファ……ごめんなさいね、貴女を残してしまうことを」
「そんなこと気にしなくて良いの。お父様がいるもの」
今は仕事でどこかへ行ってしまっているが、父が母を想っていることはユゼファが一番知っている。彼は定期的に滋養に富むとされる茶葉を送ってくれるのだ。採取するのも困難だと頭を掻きながらボヤいているのに。
その時口の端が浮かぶのを見るのが、ユゼファは好きだった。
握っていた手がスルリと落ちそうになって、慌てて抱え直す。母の命の灯火は尽きかけている。
「いや、いや……。お母様言っていたでしょう? 三人で行きたいところがあるって。連れて行ってくれなきゃ嫌よ」
母はなにも言わず、ただぐっと唇を噛み締めた。
眦から涙が零れシーツを濡らす。
ユゼファは父と母を愛していた。
夏の日、三人で手を繋いで歩く。ユゼファの白いぼうしが風に攫われ、父の頭上を通り過ぎ川に落ちてしまった。
母が慌てて川にザブザブと入っていく。釣られてユゼファも入って、二人共足を滑らせずぶ濡れになって。父は苦笑を浮かべ助けてくれて。
そんななんでもない日が大好きだった。
「お母様……愛しているわ」
母の目に銀砂が散る。
すぐに零れ落ちる。
瞼がゆっくりと下がり、もう彼女は目を開けない。
ユゼファの号哭だけがただ響いた。
◇◇◇
葬儀はすぐに執り行われた。
黒いドレスに身を包み、母が収まった棺桶に土がかけられていくのを見つめる。
「お父様……」
隣にいる父に体を寄せる。
「すまない。挨拶に行かなくては」
「あ、ごめんなさい……」
だがすぐに父は身を翻し他の人の下へ言ってしまった。支えを失くした体がよたつく。
父は母の死後、まだ一滴も涙を見せていない。笑顔を浮かべている。
きっと心の整理がつかないのだろう。だから父が泣く時、必ず隣にいよう。そう誓った。
全てが勘違いだなんて、今のユゼファは知らないで。
◇
一ヶ月後。
その日は空を白に近い灰色の雲が覆っていて、雨が降るだろうと窓を見上げていた。
部屋がノックされ、執事に父が応接間に来るよう呼んでいると告げられる。
思えばその時気づくべきだったのだ。
――執事の声が震えていたことに。
黒いドレスを指で摘み、駆け足で応接間に向かう。淑女失格と言われようと良かった。だって父が葬儀の後初めて来るのだ。
「お父様!」
扉を開けた。
父が知らない女と少女の隣に座っていた。
時間が止まる。
「あぁ、ようやく来たか。座れ」
父の声は、驚くくらい冷たかった。体が固まる。
「聞こえなかったか? 早く座れと言ったんだ。ふん、あの女の子どもらしい愚鈍さだな」
震えながら、父と向かい側の席に座る。足を組んだ父は、ふんぞり返りながらユゼファを忌々しそうに見ている。
息もできず、目を見開いたままユゼファは父の言葉を待った。
「お前の新しい母と妹を紹介する」
「ちょっと、私はこれからこの屋敷の女主人になるけど、こんな愛想もない不細工の母なんて嫌よ。私の娘はエマーリーだけだわ」
「まぁそう言わないでくれ」
「そうよそうよ、ママ。そんなこと言ったら可哀想だわ」
少女が愉悦で表情を歪ませた。
新しい母と娘だと名乗る人は目に痛いくらい豪奢なドレスを着ているが、品のない所作から元は平民だったことが察せられた。
そして、娘エマーリーの色彩は父と同じ青い髪にオレンジの瞳だった。母の色彩を一身に受け継いだユゼファの茶髪と水色の瞳を小馬鹿にしたように彼女は鼻を膨らましている。
目の前が真っ暗になる。
――彼女たちは、父の愛人でその間にできた子どもだった。
いつから? 母はそのことを知っていたのだろうか?
エマーリーの年齢は自分とさほど変わらないことに気づき、嫌悪感が込み上げる。口元を手で押さえた。
それは今まで積み上げた世界の崩壊を意味していた。
「なんで……お父様とお母様は、愛し合っていたはずじゃ……」
「は? そんな訳ないだろう。あの女に無理矢理結婚させられたんだ。俺は被害者だったんだよ。あいつが死んで、もうなににも俺は縛られない。ようやく自由になるんだ!」
母はよく聞かせてくれた。学園で父が熱烈にアプローチしてきて、だから結婚したのだと。
幸せそうにはにかんだ笑顔が真っ黒に塗り潰される。
知っていたのだろうか? 自分を愛してくれていたと思った人が浮気をし子までもうけていたことを。
もうそれを確かめる術はない。けれど母は、出かけていく父を一度も引き留めなかった。
「嘘、お父様は嘘をついています……。お父様が最初にアプローチしたって……」
「やっぱりあの女そっくりだな。融通がきかなくて冗談も真に受ける」
父は隣に座るむせ返るような香水を纏った女の腰を引き寄せる。
「少し気のあるフリをしたら結婚させられた、が正しかったかもな。どっちでも良いが」
「そうよぉ、パパが迷惑がっていたのは本当なんだから」
「うふふ、彼ったら私みたいな可愛い女が好きなんだもの」
女は童顔に見合わない豊満な体を見せびらかすように体をくねらせた。
父だったものが手を叩く。
「それで、エマーリーにこの侯爵家を継がせようと思うんだ」
「……え。なぜですか」
「逆にどうしてお前に継がせなければならないんだ」
キョトン、と告げられ背筋が凍る。彼は心底不思議そうにしていた。
「で、ですが私には婚約者もいますし……」
「それなら問題ない」
手を叩く。それを合図に一人の青年が入室した。
それは紛れもなくユゼファの婚約者であるトールだった
「トール様」
「俺を馴れ馴れしく呼ぶな。俺はもうエマーリーの婚約者なんだからな」
彼は以前から、深い茶色の髪に水色の瞳という特別珍しくもない色彩に平々凡々な顔と体型のユゼファを嫌っていた。
お茶会はすっぽかされ舞踏会でも最低限のエスコートだけ。父に何度も訴えたが、その度窘められて終わり。
父は元からユゼファとトールを結婚させる気はなかった。可愛いエマーリーと結婚させ家を継がせる算段だったのだから、仲を取り持つ気もなかった。
「トール様。そんな風にしちゃ可哀想よぉ。母娘揃って他の女に好きな人盗られるなんて、ねぇ? 目も当てられないわ」
エマーリーがトールに垂れかかる。
――ここに、ユゼファと母の居場所も味方もいなかった。
急速に腹の底から冷えていく。けれど頭だけは異様に熱い。
「……お父様は一つ勘違いをなさっていますわ」
小さな呟きは届かない。
やらなければ。自分にできることはまだある。
自室に戻り、机の引き出しを引く。とびきりお気に入りの便箋に文字を書き連ねる。
夜が更けていく。
◇◇◇
三日後。
忙しなく動き回っていたユゼファは父に呼び出された。
食堂で彼らは楽しそうに食事をしていた。あれ以降同じ席での食事は許されなくなったし、自分自身一緒にとる気は到底起きなかった。そのためユゼファはキッチンでシェフたちが心を込めて作ったご飯を食べている。
そんな彼らに呼び出され、警戒心を最大値まで引き上げながら食堂に入室した。
「なにか御用でしょうか?」
「お前に新しい結婚相手の話があるんだよ」
差し出された紙に書かれた名前は、好色だと噂の伯爵卿でユゼファを三人目の後妻にという話だった。
「私が言い出したのよ! 貴女も寂しいだろうと思って」
「えぇそうね。うふふっ」
愛人の女がエマーリーの頭を撫でる。
「まぁそういうわけだ。一月後には結婚だ。荷物を纏めておくように」
「その辛気臭い面もようやく見納めって訳か」
「……その前に、お客様がいらっしゃっています」
父が片眉を上げた。
そこで扉が開く。
白髪混じりの髪の男性が立っていた。隣にフードを深く被る若い男を連れて。
「こんにちは、娘の葬式で会ったぶりだね」
彼はユゼファの母の父――つまりユゼファの祖父であった。妻に先立たれた彼は背筋をピンと伸ばし穏やかな微笑を浮かべていた。
父は見るからに汗をかいている。
「それで……我が家になんの用でしょうか」
「なんてことはない。可愛い孫にお茶を飲もうとせがまれていてね」
「はい、そうなんです。私、お母様がいなくなってやっぱり寂しくて……それでお呼びいたしましたの」
「そうだったのかい」
笑う父の顔は引き攣っている。
「では私はお茶を淹れてきますね」
外に出てキッチンに向かう。
ユゼファはお湯を沸かすため、やかんに水を入れた。
使用人に渡された乾燥した葉を入れた缶の蓋を開ける。
これが、彼らを破滅させると知っているから。
◇
「いや、それにしてもこの屋敷には見知らぬ顔が集まっているようだね」
「あ、いえ……。彼らはその、なんというか……そう! 道で困っていたので我が家に招き入れたのです」
「そうなのかい?」
「はい、放っておくわけにもいかず、我が家で面倒を見ようかと。お義父さんにこう言うのは非常に憚られるのですが、この一ヶ月妻を亡くし悲しむ私を慰めてくれて、私は彼女と共にいたいと思ってしまいまして」
ユゼファの祖父はそう、と頷く。
「……そろそろユゼファが茶を淹れ終わった頃かな?」
キッチンがある方に視線を向ける。
ユゼファはティーポットに乾燥した葉を入れ、熱い湯を注ぐ。昔からずっと淹れてきた方法。百度の湯で淹れ、十五分蒸らす。
この熱さではないと葉の成分が出ない、そう父が昔教えてくれた。
教えを忠実に守り茶を淹れる。
それを皆の前まで持っていった。
祖父の前。そして若い男の前にティーカップを置く。
父が目を見開く。
「それは……」
「せっかくこの屋敷に来てお茶をするなら、お母様が飲んでいたお茶を是非飲んでみたいって」
「はは、君が娘のために調達してくれたとつい先日聞かせられてね」
「その話を私も聞き、是非飲んでみたいとね」
隣の男がフードを取る。
あらわになった顔は、王太子殿下その人だった。
父の顔が固まるが、エマーリーなんかは顔を見たことがないのかただ頬を染めているだけ。
横目に見ながらニッコリと微笑む。
「お父様に厳命されていて私も一度も飲んだことはないので王太子殿下にお出しできる味かは分からないのですが……」
「良薬口に苦しなんてよく聞く話だ。構わないよ」
王太子殿下がティーカップに手を伸ばす。
――ガチャンッ!
だが父がティーカップを手で払った。床に打つかり粉々に割れる。
父は荒い息を吐き、ブルブルと震えている。
「……おや、どうしてこんなことを?」
「そ、それは……」
祖父が目を眇めた。
「まるで、飲んではいけない物を王太子殿下が飲みかけていたような必死な態度ですね」
「…………」
――ユゼファは考えた。父のあの口振りと態度、ただ母が弱っていくのを待っていたというよりは、弱らせたような言い方だった。
そして思い出してしまった。父が滋養に富んでいると言っていた草の存在を。父が一回もユゼファに飲ませてはくれなかった、そのお茶を。
祖父に相談し、内密に国に草の調査を頼めば、薬草に似た毒草という結果が返ってきた。長い間摂取し続ければ死に至ると。
胃に石を詰め込まれたように苦しくなる。
じゃあ、母に茶を渡す度父が笑っていた理由は……――
結果を見てすぐに逮捕しようと動こうとする祖父たちに縋り付き、彼女は叫んでいた。
「お父様はもしかしたら薬草と間違えていただけなのかもしれないわ……。少しだけ待ってください……」
自分でも馬鹿だと思った。そんなことあるわけないと。
信じ続けてきたものの崩壊にまだ縋りたかっただけだ。
だが祖父たちは静かに話を聞いてくれ、一つの作戦を考案した。
それは王太子にお茶を飲ませるフリをすること。ノリノリの王太子自身の提案でもあった。
結果、父は王太子に茶を飲ませなかった。中に入っていたのは普通のお茶だったというのに。毒草で作られたお茶は淹れた後、国から派遣された研究員の方の手に渡った。
騎士たちが部屋に押し入り、父と愛人たち、そして婚約者だったトールを捕縛する。
「クソッ! ユゼファめ、俺を嵌めやがって! お前は父に対する愛情というものはないのか!」
「いやっ、なんで私たちまで逮捕されなきゃいけないのよ!」
騒ぐ彼らとは対照的に落ち着きを払い微笑さえ浮かべている王太子が紙を掲げる。
「そなたたちにはレイジェン侯爵家当主殺害及び、次期当主を正当な理由なく降ろしたというともすれば国家反逆罪に相当する罪の嫌疑がかかっている。連れて行け!」
「「「はっ」」」
騎士たちが一糸乱れず彼らを連行しようとする。父が叫んだ。
「待て! 侯爵家当主殺害とはなんだ!」
「――おやおや、婿入りした身の君がそう言うのかい?」
祖父は冷たい目をしている。
「随分と好き勝手振る舞う中で、忘れてしまったようだね。本来の当主はレイジェン前当主である私の娘で、次期当主はユゼファだ。婿入りの身分の君がどれだけ種を蒔いたとて、全く意味がないんだよ」
「……ッ、あの女と出会ってからロクなことがない! 可哀想な被害者は俺じゃないか!」
引きずられていく。
それを真顔で見守る。
「なぁ、おいユゼファ! 俺を助けろ! お前の唯一の父じゃないか!」
「ちょっ、なに一人だけ助かろうとしてるのよ!」
「ママぁ、助けてよ……!」
「俺は関係ないだろ! 俺も嵌められたんだ! 助けてくれユゼファ、本当に愛しているのはお前だけだ!」
小さな口を動かす。
決して大きな声ではないが、凛と伸びる声はこの屋敷に響いた。
「――お母様はいつもいつも、貴方がどれだけ自分の下を訪れなくても笑顔で待ち続けた」
お茶を飲みながら。
愛が離れていくことを感じていた母が縁にしていたそのお茶こそが自分を蝕む毒だとも知らないで!
「人殺し! お母様を返してよ、人殺し! もう貴方なんか、お父様でもなんでもない!!」
父ではなくなった男はもうなにも言わなかった。
険しい表情を浮かべ何度も人殺しと叫ぶ娘だった少女を見つめ続け、連れて行かれた。
◇◇◇
罪人がいなくなり、王太子たちも調査を終え帰る頃には屋敷は静まり返っていた。
ソファに深く腰掛け、心ここにあらずな状態のユゼファの肩を祖父が優しく叩く。
手紙を秘密裏に送り動いてくれた祖父は少し老けたようであった。
「ユゼファ」
「……あ、お祖父様」
「疲れてしまったようだね」
労る眼差しに曖昧に笑みを返す。
「良かったら、これから二人で行きたいところがあるんだが付き合ってくれるかな?」
「勿論です」
愛人たちに簡素なドレスを着せられていたユゼファは、侍女たちの手で鮮やかな黄色のドレスを身に纏う。
最後に髪を編んで貰ってから改めて祖父の前に出れば、彼は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「凄く可愛いよ」
「ありがとうございます」
祖父にエスコートされ馬車に乗ってから、ユゼファは気になっていたことを質問する。
「あの、それで……どこに行くんですか?」
祖父は片目をつむった。
「娘が君たちを連れて行きたがっていた場所だよ」
◇
着いた先には、草原があった。小高い丘のようになっていて、一本の木の周りには草が生い茂るだけ。
ユゼファは首を傾げてしまった。
空気が綺麗なところだがそれだけで、本当に母はここに自分たちを連れてきたかったのだろうか?
「あの木の下でね、娘――フェネはいつも一人で泣いていたんだよ」
祖父は語りだした。
母を幼い頃に亡くした彼女は寂しかった。内向的で友達もおらず、父は仕事で忙しい。
そんな彼女はよくここに来て思いの限り泣いていた。
父は迎えに行く度に娘の姿に胸を痛めていた。
「結婚式の前日だったかな。フェネが言ったんだ。子どもが生まれて幸せの絶頂というところで、皆であの場所に行くと」
「そう、ですか……」
祖父に断りを入れ、一人でその辺を散策する。
この場所を訪れる度、ユゼファは父の裏切りと抱えきれない悲しみを思い出すのだとふと思った。
――あぁ、だから母はまたこの場所を訪れようとしたのかもしれない。一人ではなく皆で。辛い記憶を上書きするために。
「……悲しい場所じゃなくて、幸せな思い出いっぱいの場所にしたかったんだよね、お母様」
空を仰ぎ見る。
夕焼けの反対側では既に藍色のヴェールが空を覆っていて、星が瞬いていた。
◇◇◇
一週間後、ユゼファはまた学園に来ていた。
とりあえず成人するまでは祖父が当主代理として執務をすることとなった。
だからユゼファの目下の目標は婚約者を探すであった。
元婚約者トールはあの後侯爵家当主殺害にはなんら関与していないことが明らかにされ返されたらしいが勿論婚約は解消。
今回は我が家の非も十二分にあったため痛み分けということで双方に慰謝料は発生しなかった。
だが彼は親に酷く怒られ、成人を迎えると共に勘当されるらしい。
ユゼファはため息を付く。
心無い噂も飛び交っているであろう今、自分と結婚してくれる者はいるのだろうかと。
だが気にしても仕方がない。
頬を叩く。
「……あ、いた。ユゼファさん」
声をかけられ振り返れば、丸い眼鏡をかけた新緑の髪と目を持つ男子生徒が立っていた。
有名人なためすぐにピンとくる。学園で王太子に次ぐ頭脳を持つハレット侯爵家の次男クリスだった。
温厚な性格で、目を引くほどではないが整った顔立ち。おまけに勉学に秀でていて婿入りさせたいランキング(令嬢たちによる密かなもの)で首位を陣取っている。
女子生徒から密かに人気を博している生徒だった。
「私になにか御用でしょうか?」
「いや、なんと言うか……」
同じクラスだが彼とはあまり話したことがない。内心困惑しきっていると、彼が風を切るような速さで頭を下げた。
「王太子殿下から、君が婚約解消したと聞いて居ても立ってもいられず来たんだ! 今はまだ心の整理がつかないと思うけれど、新しい婚約者候補に僕を入れて貰えたら嬉しい」
「……え、――えぇっ」
耳まで真っ赤なクリスに釣られユゼファの頬も真っ赤になる。
「私で、良いのですか?」
「貴女が良いんだ」
じわじわと嬉しさが込み上げる。
「……ごめんなさい、すぐには答えられません」
しかし脳はすぐに冷えていく。
彼はあの男と同じかもしれない。ユゼファと結婚し、侯爵家当主として振る舞いユゼファを殺すのだ。
一度浮かんでしまえばその考えは簡単には振りほどけない。
「うん、それで良い。――だからデートしよう! 憐れな僕にチャンスをくれないか?」
「……一回だけなら」
「十分だ!」
ぱっと笑う彼の笑顔は太陽みたいだった。
ユゼファは手の甲をつねった。痛い。
◇
デート当日。
クリスが馬車に乗ってやって来た。シンプルなシャツに明るい色のベストを着ている。黒いズボンは彼の足をスラリと見せていた。
本当にデートするのだと恥ずかしくなり、白いツバのぼうしを深く被る。
「じゃぁ行こうか」
手を差し出され繋げば大層嬉しそうに微笑まれた。
「今日はピクニックに行こうと思うんだ」
「ピクニック、ですか」
「うん。小川が流れていて美しいところでね、大きな樹の下は僕のお気に入りなんだよ」
この間から思っていたが彼は意外にも饒舌らしい。普段あまり話しているところを見ないから新鮮である。
「? 僕の顔になにかついている?」
「いいえ、とても嬉しそうだから素敵な場所なのだと思って」
「あはは」
丸い眼鏡の奥の目。じっと観察するが作り笑いなのかどうか判別はつかなかった。
他愛もない会話をしていたらほどなくして目的の場所に着いた。
見渡す限り自然で溢れかえっていた、どこか母の思い出の場所と似ている。
ふっと皮肉めいた笑みが零れる。
「さぁ、もう日も高いしご飯にしようか。シェフが腕によりをかけて作ってくれたサンドイッチを持ってきたんだ。卵サンドとベーコンサンド、どっちから食べる?」
「では卵サンドを」
受け取った卵サンドはゆで卵を潰しマヨネーズを和えたものがぎっしりと入っていて重かった。
食べればホロリと固茹での黄身がほぐれる。濃厚なマヨネーズも美味しくて、気づけばパクパク食べてしまっている。
クリスはベーコンサンドを食べていて。みずみずしいトマトときゅうりも挟まれたそれもとても美味しそうだった。
ご飯を食べ終え落ち着いたところで手を取られ立ち上がった。
小川の上に架けられた橋を歩く。
「風が強いから気をつけてね」
「はい」
ぼうしを押さえ歩くが、一際強い風が吹く。
白いぼうしが空を舞った。
「わっ」
瞬間、クリスが橋から身を乗り出しぼうしをキャッチした。
だが体を支えきれず川に落下する。
派手な水しぶきが舞った。
「……っ」
ユゼファは慌てて橋を渡り浅瀬からザブザブ入っていく。ドレスは進みづらく時折転び、気づけば頭からつま先までずぶ濡れになっていた。
浮上したクリスは悲惨な様子のユゼファに目をぱちくりさせた。
破顔する。
「ユゼファさんまで濡れる必要なかったじゃないか。そんなに濡れて。風邪を引いてしまうよ」
ケラケラ笑いながらぼうしを抱えている彼に、ユゼファも気づけば笑っていた。
何度も声を上げて笑い、次第に笑い声に鼻をすする音が混じる。ユゼファは泣いていた。ぎょっとしたクリスの顔が青ざめていき慰めようと手をワタワタさせた。
「怪我でもしたのかい? ……あー、すまない、ぼうしが濡れてしまったからだね」
「いいえ、違うんです」
涙は止まらない。
気づいてしまった。クリスが本当にユゼファを愛していることを。父が本当に、一秒たりとも母とユゼファを愛した瞬間はなかったのだと。
父は母の飛ぶぼうしを見送るだけだった。川に入った母に慌てて自らも入ったりはしなかった。当時はなんの意味もなかった筈の行動が、今ようやく解ってしまった。
うわあぁん、と声を上げ泣く彼女を、クリスは謝ってから横抱きにした。
芝生の上にユゼファを下ろし、乱れた髪を撫でて整える。
夏の日差しで溢れる中で。クリスはユゼファが泣き止むまで黙って側にいてくれた。
◇
その後クリスが侍女たちに知らせて、すぐに馬車をかっ飛ばしレイジェン侯爵家へ帰った。
祖父はびしょびしょ姿な二人に顔を白くし、侍女たちに矢のような指示を飛ばす。
ようやく落ち着いた時。ユゼファとクリスは季節外れの轟々と燃える暖炉の前でココアを飲んでいた。
「……っくしゅん。夏といえどやっぱり冷えますね」
「そうだね。風邪に気をつけないとだ」
穏やかな笑みに頬が熱くなる。
「……クリス様」
「うん?」
「私も、行きたいところがあるんです。今じゃなくて、もっと遠い未来で」
その未来は、途方もなく遠いかもしれない。けど案外近いかもという予感がユゼファの胸中にあった。
「一緒に行ってくれますか?」
「……勿論だ!」
赤くなった顔を隠すように顔を伏せる。
今しがた告白されたとも知らないクリスは、穏やかな顔で呑気にココアを飲んだ。
◇◇◇
それから三日後ユゼファは風邪を引いて。
娘の件でひっそりと男性不信に陥っていた祖父は、風邪を引いた彼女を看病しながら二人の結婚に大反対した。
ユゼファとクリスが祖父を宥め結婚し、またあの場所を訪れるのにはもう少し時間がかかるだろう。
ここまでお付き合いいただきありがとうございます
少しでも面白いと思ったら★★★★★押していただけると大変励みになります。
また次の満月の日(5/2)にお会いしましょう。
また『【連載版】貴方はこの結婚生活の終わらせ方を知っている』が完結しました。是非よろしくお願いします!
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