プロローグ
雨の匂いが、夜の街に沈殿していた。
六月の夕方、湿度を孕んだ風が、遠くで鳴る救急車のサイレンを流してゆく。
警視庁捜査一課・氷川涼真は、車内の窓に映った自分の目を、ぼんやりと見つめていた。
その瞳には十年前の残像が、いまだに焼き付いたままだ。
——白鷺町集団行方不明事件。
警察内部の記録では“事故と失踪が重なった未解決事件”と処理されている。
だが実際は、何か違う。
多くの証拠が消え、捜査にあたった刑事たちの記憶の一部が欠落していた。
あの夜何があったのか、本当のことを知る者は誰一人いない。
そして、失われた記録の一部には、涼真に酷似した“少年の特徴”が残っている。
だが涼真自身には、十年前の記憶がほとんど無い。
それでも、胸の奥には常にひっかかる痛みがある。
何か大切なものを、どこかに置き去りにしたような。
その痛みが疼き始めた時、助手席から軽い声が落ちてきた。
⸻
「おい涼真、また暗い顔してんの? 雨の日だけ既に“事件の真相に近づいた主人公の顔”になる癖なんとかならない?」
捜査一課・相棒の桐生啓太が、チョコバーをかじりながら言う。
「お前の昼飯はそれで終わりなのか」
「いや? これはデザート。ちゃんとご飯はさっきコンビニで買った“カロリー爆弾おにぎり”だし」
「健康診断の数値、そろそろ殺人事件よりヤバいだろ」
「大丈夫大丈夫、人はそう簡単に死なないって」
「そのセリフ、捜査中に言うやつなかなかいないぞ」
涼真の皮肉に、啓太は平然と肩をすくめる。
「まあ、俺が不健康なのは置いといて。早くしないと現場、鬼島課長に怒られるぞ? また“氷川ァ!!”って怒鳴られる。俺の心の鼓膜が死ぬ」
「お前の鼓膜は心じゃない」
「うるさい! メンタル鼓膜なんだよ!」
くだらない会話。
しかしその軽さが、涼真をぎりぎり現実へ引き戻してくれる。
⸻
二人が向かっているのは、都内で起きた連続猟奇殺人の最新の現場だ。
今月に入ってすでに四件目。
どの被害者にも共通して残されているのは——
喉元に刻まれた十字傷。
十年前の事件にも、その傷が記録されていた。
だから涼真は嫌でも、過去を思い出す。
今回の通報は、近隣住民ではなく、通りがかった配送ドライバーからのものだった。
「人影が倒れている」とだけ伝えられ、詳細は不明。
だが早くも現場には黄色い規制線が張られ、鑑識が走り回っているはずだ。
殺人事件の現場に向かわなければならない理由は明白だ。
だが涼真にとって今回の事件は、それ以上の意味を帯びている。
十年前の“記録から消された事件”と同じ傷。
何かが、また動き出している。
その確信があった。
⸻
パトカーのライトが揺れる。
啓太の車が路地に滑り込むと、鑑識たちの姿が見え始めた。
「ほらな、課長が睨んでる。今日絶対機嫌悪いって」
「いつもだろ」
「確かに」
二人が車を降りた瞬間、異様な静けさを感じた。
雨音が急に遠のいたような——
空気の密度が変わったような——
その中心に、ひとりの少女が立っていた。
薄い雨の帳の向こう側で、涼真は“吸い寄せられるように”目を奪われる。




