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手紙の舟  作者: 木蓮
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はじまりの封筒

2025年3月下旬 ― 現在


「お母さん、おばあちゃんの遺品整理進んでる?」

春子の娘、菜々子と孫の菜央が春子の家を片付けている。


都内に住む菜々子と菜央は、春子の遺品整理のため、久しぶりに千葉の家を訪れた。

窓の外では、春の風が庭の椿を揺らしている。


「あらやだ、古い手紙。なにかしら」

菜々子が缶を開ける。そこには、何通にもわたる外国との文通が入っていた。


「ラブレターだったりして」菜央がニヤッと笑う。


「そういえば、お母さん。前に外国の方と文通していたこと、話してくれたわ。

大切な思い出だったって言ってたような…」


「これ見てもいいかな?」


「ダメって言っても、見るでしょ。」菜々子は少し呆れながらも、懐かしそうに微笑んだ。


菜央は缶を大事に抱えて、縁側に腰を下ろした。

陽だまりが、古い便箋をやさしく照らしている。


紙の匂い。少しだけ黄ばんだインク。


封を開けた瞬間、ふっと風が吹き抜けた。

その風の向こうに、二人の優しい声が聞こえた気がした。



時は遡り――1950年


朝の郵便局には、まだ人の気配がなかった。

かすかに漂う紙とインクの匂い。

窓の外では、菜の花がゆっくりと風に揺れている。


春子は、木の床を雑巾で拭きながら、掲示板に貼られた一枚の紙に目を留めた。

「海外の友人と文通しませんか――国際友好文通プログラム」

小さな活字が、日に焼けた掲示板の隅に静かに光っていた。


――文通。


その言葉を目で追った瞬間、胸の奥が少しだけざわついた。

海の向こうなんて、自分には一生関わらないと思っていた。


戦争が終わって五年。町にはまだ瓦礫が残り、誰もが「今日を生きる」ことで精一杯だ。

それでも、電車の窓から見える菜の花のように、人の心の奥にも小さな色が戻りはじめている。


春子は指先でその紙をそっと撫でた。

「応募者の中から、世界の子どもや若者と一対一で文通を行います」と書かれている。


遠い国の誰かの声が、かすかに聞こえたような気がした。


「春子さん。あなたの町は、どんな色ですか?」そんな問いかけが、耳の奥で響いた。


春子は笑って首を振った。

馬鹿げている。知らない国の、知らない人に何を伝えられるというのだろう。


英語も他の言語もできない。

学校を出てからは毎日、郵便を仕分け、配り、暮らしを支えるだけの毎日。


けれど、なぜかその日だけは、心の奥がそわそわした。

昼休み、同僚の洋子が声をかけてきた。


「春子さん、どうしたの? なんかぼんやりしてる。」

「ううん、ちょっと……変な紙を見つけただけ。」


「変な紙?」

「外国の人と手紙を書くっていう募集。文通の。」


洋子は目を丸くした。

「へぇ、そんなのあるんだ。春子さん、やってみたら?」

「え?」


「だって、春子さん、手紙書くの上手じゃない。あの、年始の回覧のときの文とか、私好きだったよ。」

「……そんなの、ただの決まり文句よ。」


「でも、やってみたら面白いかもよ。戦争も終わったし、世界と仲良くする時代なんでしょ?」


洋子の何気ない一言が、春子の背中を押した。

夜、仕事を終えて家に帰ると、ちゃぶ台の上に置かれた筆箱を開いた。


新品の便箋を取り出し、ゆっくりと名前を書いてみる。

「Haruko Sato」


ローマ字で自分の名前を書くのは、少し照れくさかった。

まるで知らない誰かに、心の秘密を見せるような気がした。


翌朝、出勤の電車の中で、春子は窓の外を眺めた。

線路の両側には、まぶしいほどの黄色が広がっている。

朝の光を受けて、菜の花が波のように揺れていた。


――もし、この景色を遠い国の誰かに見せられたら。

そんなことをふと思った。


そして昼休み、春子は一枚の応募用紙を記入し、そっと封筒に入れた。

切手を貼る指が少し震えた。

投函口の前で、一瞬だけ立ち止まる。


――誰か、見知らぬ誰かと、心が通うなんてことが本当にあるのだろうか。


それでも、春子は封筒を入れた。

カタン、と乾いた音がした。


それが、後に彼女の人生を変える「青い封筒」へとつながる始まりだった。

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