プロローグ
その手紙は、海を渡ってやってきた。
薄い青の封筒。角が少し擦れて、異国の香りがする。
宛名の文字は拙い日本語で、ところどころ形がゆがんでいた。
それが、彼女にとっての「世界」だった。
1950年の春。戦の傷がまだ街のそこかしこに残る頃、
千葉県の片田舎を走る小湊鉄道の沿線にも、少しずつ色が戻り始めていた。
枯れた土地に、菜の花が一面に咲いたのだ。
まるで、何もなかった時間を埋め合わせるように。
ガタンガタン…田舎の列車。
春子はその花畑を、毎朝、車窓から眺めていた。
瓦屋根の家々、遠くに霞む山、そして線路脇に揺れる黄色い海。
それが、彼女の心をやわらかく撫でた。
誰かにこの景色を見せたい――そう思ったのは、あの手紙を受け取った日だった。
「はじめまして。ぼくはリュカといいます。
フランスのブルターニュに住んでいます。
あなたの国のことを知りたいです。」
それが、最初の文通だった。
戦争が終わり、国と国が再びつながろうとしていた。
郵便局に勤めていた春子は、偶然その交換プログラムの名前を見つけ、
ふと申し込んでみただけだった。
けれど、その小さな封筒は、彼女の世界を少しずつ広げていった。
「わたしの町には、春になると線路のそばに
黄色い花がたくさん咲きます。
まるで、太陽が地面に降りてきたみたいです。」
その一文に、リュカは心を奪われた。
彼はいつか、その黄色い花畑を見に行きたいと夢見るようになった。
時は流れ、季節が何度も巡る。
便利なものが増え、世の中はどんどん速くなっていく。
けれど春子は思う。
「速さだけが、伝えることじゃない」と。
字から感じる、彼の人柄や想い、時間をかけてこそ、紙にしみていく。
にじむインクのように、ゆっくりと。
手紙を開くたびに、春子は世界を旅した。
それは郵便袋の中で交わされた、小さな奇跡の物語。
戦後という灰の中で咲いた、
たったひとつの「手紙」の記憶だった。