言葉はいらない
口元を押さえて俯いたクリスの表情はマリアには見えなかった。あえて覗き込むこともしなかった。少し一人になりたいだろうか、マリアは気を遣って一度急患外来を見てくると告げた。
崩れた本を簡単にまとめて重ねて、スカートの埃を払いながら立ち上がる。歩き出そうとした時、くんっと手を後ろに引かれた。振り返ると、目元を赤く染めて、眉尻を下げて、困ったような、それでいて嬉しそうな顔で、クリスが見上げていた。
「ありがと」
短い言葉の後、すぐに手は離れる。
でも、気持ちは確かに届いた。相手にも、自分にも。
ぶわ、釣られてマリアの顔も熱くなる。触れられた手がじんじんする。細かい説明はいらない。言語化は難しい。
居ても立っても居られず、マリアは足早にその場を去った。クリスは追いかけなかった。
まだ午後の患者受付が始まる前の、誰もいない病室にバタバタ入り、後ろ手にドアを閉める。マリアにしては少し大きめにバタンと音を立ててしまった。
何あれ、何あれ何あれ!
もうすぐ仕事が始まる。表情を取り繕わなければ。わかっているのに、クリスの顔が頭から離れない。
嬉しい。恥ずかしい。切ない。誇らしい。
胸がくるしい。
***
この胸のざわめきが何なのか、マリアにはまだわからなかった。恋だと確信するには、2人は似すぎていた。気持ちが通じたあの瞬間、マリアが見ていたのはクリスだったのか。それとも自身だったのか。
何度考えても答えは出なかった。だから、マリアは結論を避けた。これまでの人生で自分の中途半端さに嫌と言うほど傷つけられてきたから、中途半端な気持ちで近づいてクリスを傷つけるのを何より恐れた。
その日から、自然と別々に仕事をするようになった。マリアの治療技術はもういっぱしのもので、クリスとペアでなければならない時期はとうに過ぎていたから、問題はない。かと言って気まずさはなく、職場でも、宿舎でも、クリスは変わらず声をかけてきてくれたし、マリアも努めて普段通りに返した。
「おはよう、マリア! コーヒーいる?」
「おはようございます、クリスさん。いただきます!」
いつもと変わらない温度とほろ苦さ。いつもと変わらない屈託ない笑顔。いつもと変わらない距離感にほっとする。自分の気持ちに答えは出ていなくとも、このまま傍にいたい。ここに来られてよかったと思うその気持ちだけは疑わずに大切にしたい。
どちらからも距離を詰めることはしなかったが、今まで以上に気持ちが通じ合っているのを、互いに自覚していた。多くを語らずとも分かり合える。隣に互いがいると息がしやすい。今までの人生で不足していたピースが嵌まったような気持ちだった。
阿吽の呼吸で副院長室もすっかり片付け、クリスのデスクはもちろん、補佐役としてマリアの席も用意した。患者が途切れた時は2人で書類仕事に勤しむ。
「マリア、これ」
「終わってます。あっ、クリスさんのサインが必要な書類が……」
「これでしょ? やってあるよー」
交わす言葉の絶対数は、限りなく少ない。だが、2人にはそれで充分だった。
***
ある日、静かで暖かなその空間に、王宮からの伝令が騒がしく駆け込んできた。
「副院長さま! 異世界の聖女マリア氏を伴って、急ぎ王宮にお越しください! 異世界からの聖女さまがもう一人お見えになりました! 詳しいお話は道中にいたします」
マリアとクリスは目を見開き、顔を見合わせてすぐに参内の準備をする。
王宮に向かう馬車に伝令にも同乗してもらって話を聞いた。
「もう一人の大聖女候補さま、ヒマリ様とおっしゃいますが、ヒマリ様は実はおよそ半年も前にこの国へいらしていたらしいのです。恐らくはマリア殿と同じ儀にお応えくださったのでしょう。しかし、何らかの理由で神殿の祭壇ではなく国境周辺の村にご降臨されてしまったとのこと」
「何らかの理由とは?」
「推測になりますが、神官の力不足です。2人の大聖女候補を同時にお呼びするような前例はありませんでしたから、お一人ぶんのご案内が途中で終わってしまったのではないかと……」
「なぜ今まで隠れていた?」
「転移の際の衝撃で記憶を失くされておいででした。記憶喪失の旅人として村長が保護しておりまして、つい先日に身を寄せていた村が魔物に襲われた時、見事浄化魔法で撃退なさったそうです。そこから中央が存在を把握しました」
クリスがいろいろと質問して話を進めてくれる間、マリアは話を聞きながらも、馬車の外をぼうっと眺めてまだ見ぬ女性へ思いを馳せていた。
もう一人の大聖女候補、いや、もう浄化魔法が使えるらしいから、大聖女か。うっかり私が混ざったせいで、誰も知らない土地に記憶すらない状態で一人放り出されていた、偉大な本物。
マリアの時は、神殿所属の聖女が教育係兼主治医として紹介された。彼女も立派な治癒魔法を使ったが、マリアの目にはクリスもそれに勝るとも劣らない治癒魔法使いだ。加えて王立治療院の副院長職の肩書であれば、クリスは大聖女さまの侍医か聖なる魔法の教育係として呼び出されてもおかしくないだろう。
しかし、ただの聖女でしかないマリアも一緒に呼び出されるとはどういうことだろうか。
もしかしたら、大聖女の召喚を失敗させた異分子として咎められるのだろうか。もしもマリアが大聖女の地位を狙って企てたなどと邪推されたら。大聖女になり損なったマリアの味方なんていなくて、すぐにでも投獄されてしまうだろう。
マリアはこの馬車から飛び降りたくなった。両親から逃げて、ブラック企業から逃げて、大聖女になれなかった負い目から逃げて、ようやく見つけた居場所をまた失うのかと思ったら目の前が真っ暗になった。
その時、そっと、恐怖で凍り付いた指先に温かな感触。
体の横、馬車の座席の上で固く握りしめていたマリアの右手に、クリスの左手が重なってきた。
温もりと驚きで強張った全身がほぐれる。
たぶん向かいに座る伝令からはマリアのスカートとクリスの外套に隠れて見えていない。クリスは何事もなかったかのように伝令と会話を続けている。マリアもクリスの方を向くようなことはしなかった。クリスの手は一度だけぎゅっとマリアの手を抱きしめて、すぐに離れていった。
そうだ、味方ならいる。悪いことはしていないのだ、せめて堂々と前を向いていよう。
マリアが覚悟を決めると同時に、馬車が王宮に到着した。
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