王立治療院の先輩
王立治療院での勤務初日、早朝に王城を馬車で発った。おそらくここに戻ることはもうない。今日から晴れてマリアは一般庶民だ。
治療院は城下町の中心街にあり、王城からは馬車でほんの30分ほどで到着した。馬車から降りた足でそのまま院長室に挨拶に行く。院長である老聖女から簡単な励ましを頂戴した後、その隣に立っていた1人の男性が歩み出た。
「ようこそ、聖女マリア。私はクリストファー・ブラックリーです。あなたと同じ治癒魔法の使い手で、こちらに慣れるまでの案内は私がさせてもらいます。気軽にクリスと呼んでください」
「マリア・オカモトです。よろしくお願いします、クリスさん。私のことはマリアとお呼びください」
マリアはすかさず挨拶を返しつつ、不躾にならない程度にクリスを観察する。
柔和で気さくな雰囲気の男性だ。年頃は、マリアより3~4つ上に見える。短い金髪に青い瞳の、鼻筋の通った涼やかな顔立ちで、この国の男性にしては中世的。現代日本だったらアイドルにでもなっていたかもしれない。
クリスはマリアのことをどう聞いているのだろう。出来損ないだから適当に相手をしてやれ? 哀れだから面倒を見てやれ? 日本にいた頃の勤め先の先輩たちは、前評判の悪い新入社員のことは、先入観から徹底的に苛め抜いていた。
少なくとも今クリスがマリアに向ける笑顔に嘲りや苛立ちは含まれていない。よほどの狸か、それとも底抜けのお人好しか。いずれにせよ、彼にはここで相当お世話になるのだろうし、迷惑をかけるのはマリアの方だ。この人がブラック企業タイプでないことを祈るより他ない。
「ではマリア、まずは院内を案内しますので、私についてきてください」
「はい。よろしくお願いします。あの、もしよろしければ私に対しては敬語はおやめください。クリスさんの方が先輩ですし」
「そう? じゃあお言葉に甘えて。ええと、まずは裏方を一通り回って、最後に診察室に行こうか。今日は初日だから、そのまま僕の診察室でやり方を覚えてもらうね」
クリスの案内は丁寧でわかりやすかった。歩調をマリアに合わせてくれているのもわかって、少なくとも意味のないハラスメントを繰り出す人間ではなさそうだ。
案内の後は、実際にクリスが治療をするところを見学したり、少し手伝ったりさせてもらった。
マリアは王城で治癒魔法の練習はしていたものの、実際に治療を行おうとすると、教科書にはないコツが必要らしい。治癒魔法の力の大きさ自体はクリスとマリアはほぼ同等のようだが、使い慣れという意味ではクリスに一日の長があり、マリアはしばしクリスに師事しながら仕事にあたることになった。仮にも大聖女候補だったというのに情けないことだ、とマリアは自嘲した。
「ふう、今日の患者はこんなもんかな。お疲れ様」
「お疲れ様です。ありがとうございました」
「結構疲れたでしょ。治癒魔法って術者の体力をかなり消耗するんだよね。だから、はい」
クリスがマリアの額に向けて手をかざし、治癒魔法を発動した。短く光った掌から伝わる温かさがマリアの全身を駆け巡り、頭から足の爪先へと抜けていく。温もりの後には全身を包んでいた疲労感が消えていた。
「初日を頑張ったマリアに、ご褒美。今日は力が少し余っててよかったよ」
「あ、ありがとうございます。でも、これじゃクリスさんは余計に疲れちゃいましたよね」
「僕はここに何年もいるから、こんなの慣れっこだよ。さ、そろそろ帰ろう。マリアの家はどのあたり? よかったら送らせて」
「いえ、先輩にそこまで良くして頂くわけには……!」
「えー、いいじゃない、先輩面させてよ。まあ無理強いはしないけどさ、もう暗いし、この辺の土地勘もないでしょう? 普通に心配なんだけど」
悪戯っぽく笑うクリスに、マリアは戸惑ってしまう。こんなに親しみやすい、かつ優しい先輩なんて初めて出会った。芸能人と見紛う顔面でこれをやられたら、否応なしに心臓が騒いでしまう。マリアは1回深呼吸をして自身を落ち着けた。
「本当にありがたいお申し出ですが、私は宿舎に入りますので、ここのすぐ裏なんですよ。送っていただくほどでは……」
「え」
今度はクリスが絶句した。
「え、な、何か問題でしたか」
「僕もここの宿舎なんだ」
「えっ、そうだったんですか。お世話になります。あ、でも男女は別棟ですかね」
「いや、宿舎は1棟しかない。一応フロアで男女が分かれてる。そしてここからが問題なんだけど、昨日までの入居者は僕1人だけ。ちょっと大きくて部屋数が多いだけの一軒家だから、キッチンは共有だし、管理人とかもいない」
「つまり、帰ったら、クリスさんと私だけ……」
どうしよう。マリアは困惑する。部屋は離れていたとしても、さすがに今日知り合ったばかりの職場の先輩と寮で二人きりというのは気まずい。もし夕食の時間が被ってキッチンや風呂場で鉢合わせでもしたら、どんな顔をすればいいんだろう。
「さては院長、忘れてたな……。マリア、とりあえず僕は今日適当に宿をとるし、数日待ってもらえればどこかに引っ越すよ。荷物を取りに行くのだけ許してもらえる?」
「えっ、クリスさんが出て行くんですか!? そんなのダメです、私が出て行きます。どこの世界に先輩を追い出す新人がいますか」
「それを言うならこんな時間に後輩の女の子を外に放り出す先輩がどこにいるのさ。大体マリア、行くあてはあるの?」
「そ、それは……」
マリアはほぼ文無しで、知り合いも土地勘もなく他に住処のあてなどない。しかしここでクリスを追い出すのはマリアの良識が許さない。最悪治療院に泊まり込めばいい。
「ねえ、まさか治療院に泊まるつもりじゃないよね」
「えっ、いや、そんな、まさか」
「なんでだろう、今君の考えが手に取るようにわかったよ。うーん、そうだな……忌憚なく教えてほしいんだけど、マリアが気にしているのは安全面? それとも遠慮?」
「安全面……?」
「そこで疑問を呈されることに、僕は誇ればいいのか、落ち込めばいいのか。もちろん各部屋に鍵はついているし、ここらへんの宿よりむしろ造りはしっかりしていると思う。君が不快に思うことはしないと約束もする。けど、まあ僕もこんな形でも男だし」
こんな形でも、という言葉の真意はマリアには図りかねたが、大筋の内容は理解できた。しかしこんなに美男子だからこそ、そこそこ可愛いだけのマリアなど眼中に入らないだろう。
「いえ、クリスさんを信用していますし、問題はそこではありません。せっかく羽を伸ばせるご自宅に、知り合ったばかりの職場の人間がいるの、お嫌ではないですか」
「遠慮の方ね。そういうことなら、こういう手段はどうだろう」
「なんでしょうか」
「まず、このまま一緒に街に出る」
「はい」
「僕がちょっといい肉とワインを買う」
「はい」
「そして、宿舎に行って、共用キッチンで料理して、2人でおいしく食べる。マリアの歓迎パーティーだ」
「はい……?」
「食事が終わる頃には、僕らは友人になっている。友人なら、互いの家を訪ねても問題はない」
「無理がありませんか!?」
「やっぱりだめかあ」
妙案だと真剣な顔で策を披露するクリスに、マリアは思わず突っ込んでしまった。クリスはそれに気を悪くする様子もなく朗らかに笑っている。
ああ、この人、いい人なんだな。
本気でマリアの身を案じて、考え方も尊重してくれて、一生懸命考えてくれているんだ。こんなに温かい気遣いを受けるのはいつぶりだろう。こそばゆい感覚ににやける口元を隠し切れないまま、マリアは言った。
「そのプランには致命的に不足しているものがあります」
「何?」
「私からの手土産です。お友達の家にお邪魔するにも、お引越しのご挨拶をするにも、何かしらのプレゼントが必要でしょう? 品物は、そうですねえ……デザートのケーキでいかがですか」
「いいね。僕も甘いものは大好物だよ。味覚が合うのも友人同士には大切なことだ」
顔を合わせて、どちらともなく噴き出した。そして確信した。自分たちは、きっと気が合う。今日初めて会ったのに、ずっと前からこの人を知っているような、いや探していたような気すらする。話し足りない。もっと知りたい、この人のことを。
買い物の間も、料理している間も、クリスはマリアへの気遣いを忘れず、マリアはクリスへの信頼を深めていった。
2人で食べた夕食は、マリアがこの世界に来てから、いや人生で最も、鮮烈に美味だった。
お読みくださりありがとうございます。
もうしばし連続投稿しますので、マリアとクリスの行く末をご覧いただければ幸いです。
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