殺人の最後に何が残るか知っているか
「君は人を殺したことがあるか」
私はある。
「君は目の前の惨状を想像できるか」
私は出来る。
「君は息をしているか」
私はしている。
午前三時、ある一室が狂気に染まった。
「殺人の感触を知っているだろうか。私は知っている。人肌が冷えていくのを感じた事があるだろうか。私はある。刃とは簡単に人体に傷をつけて、血液を流させることができる。首にあててみればどうだろうか。傷の深さによっては大事ないが、当然深ければ死ぬ。この手を見よ。刹那に感じた温かみが消え、冷たさと拭っても取れない赤がこびり付いている。感触、そうだ、私は感触の話をしている。あまり力がいるものではなかった。得物を振るい、柔らかい皮膚を切り裂く。そうしてからまた強く押し付けて命尽きるまで血液を放出させる。いつの間にかすべてが終わっていて、ふわりとした夢の様な感覚に魘される。そんなものだ。」
男はずっと、独りで喋り続けていた。絞首台に上り、縄が掛かってから口を開いて、混乱でも錯乱でもしているのだろう。合わない瞳で狂笑を浮かべている。
一月前だ、男についていた看守が死んだ。最初から普通の男ではなく、異様と異質が混じって生まれた異形のような人間だと口々に言われていたが見ていた方がおかしくなるとは。
看守が死んでから、どういうわけか俺が担当することになった。
男はうわ言の様に繰り返す。君は~私は~という一人劇を。
それがおかしいと思っているのになぜだか、惹きつけられる。一度、目を合わせれば何かが心臓を掴んでしまって離さない。男が不気味に笑いかけてきて、その瞳が気に食わなくて、警棒を振った。それでも男は口を閉じなかった。こちらが罰だと手を挙げても、奴は蚊でもとまったのかという様子で、姿勢を崩すことはなかった。
その異様さに。その異質さに。慣れるどころか、取り込まれていく。徐々に徐々に。遅効性の毒が体を、脳を蝕んでいく。それでも抵抗はする。飲み込まれれば、俺だって仕事を失ってしまうのだから。冷酷に、冷静に。この身に住み着こうとする蛇を食い潰す。この異形に取り込まれないように。
男は狂わずに狂っている。その伝染力とでも言おうか、男の狂気に中てられないように息をする。
『朱に交われば赤くなる』つまりはそう、交わらなければ、変わらない。感染源に触れなければ大丈夫なんだ。変わろうと内から食い破ろうとするモノを律して淡々と仕事をこなす。耳も目も入る情報は全てシャットアウトだ。俺は正常。いつもと変わらない、何ら変わっていないはずなのだ。
外からの煩い声をよそに男はまた、口角を上げる。
「君は助けるだろうか」
次にくる言葉は分かっている。
「「私は知っている」」
……あぁ、いつからだろうか。移ってしまった。目の前で今にも命絶えそうな、生涯を終えさせようとされている男の口癖が。
向こうに立ち、こちらに目配せする同僚に笑いかけた。やつの顔には恐ろしさと動揺が見えた。
帽子のつばを掴んで少し下げる。狭まった視界、映るのは膝をつく男のみ。首を絞める帯を緩め、体に添わせて手を下へ。胸から腹腰を撫でて、ホルスターに手をかける。鼓動が早まる感覚に頬を染めてホルスターの中身に触れる。
向かいの同僚の顔はもう真っ青だ。男の顔は自分と同様、赤らんでいる。
耳鳴りが起こるほど大きな音の後に地に肉が落ちる音が鈍く広がった。
今自分の中にあるのは何だ、ドクドクと脈打つ感覚、首筋に走るピリついた、心地い電撃の様な、恍惚とした反吐が出るような笑みだろうか、ゾクゾクとした刺激が快楽を生み出して、目を蕩けさせる。あまりの良さに膝から落ちた。
男が耳元で囁く。
「殺人の最後には何が残るか知っているか」
俺は答えた。
「快楽」
男は闇を落とした瞳で真っすぐに見て来た。さっきまで目を合わせられていたはずなのにできない。その考えの全てを理解できていたはずなのに読めない。指先から冷えていく。熱は移動して一点に集約される。……喉の奥が焼けるように熱い。瞳に首までもが揺れる。どこからかひゅーひゅーと風の音が……重く鉛の様な体。
「……」
口を動かしても声が出ない。それどころではない。この喉から笛の音が聞こえる。
男はかけられた縄をとり、見下した。
嘲笑だ。蕩ける瞳に鋭い牙の様な歯が顔を見せる。
「違うな。最後に残るのは『』だ」
その手にはピストル。銃口からは煙が上がっている。秒が伸びる。僅かに感じていた温かさが抜けていく。音が遠のいていく。目の前に立つ男は何か問いかけていた。だが、なんと言っているのか屍になりかけている身では分からなかった。
あぁ、死が、やって来る。