07『ナイルの花』
生まれて初めて誰かとともに旅をしているクロネコとエリーは、素晴らしく美しい景色を発見しました。
「うわああ。これ全部花? 花?」
「ナイルの花ね。食べすぎに注意しなきゃだめよ」
「なにそれ?」
倒壊した巨大ビルの裏側にあった空き地をびっしりと埋め尽くしていた、黄緑色の素心花。葉は一枚もなく、花と、花を支える軸だけがありました。
「エリーあなた、なにも知らないのね。この花は、紙の材料になるの」
「紙を食べるの?」
「紙にする前なら、食べられるわ。あなた、ヘケトを飲んだことはある?」
「ヘケト?」
「お酒よ」
「ないよ。蜂蜜のお酒ならあるけど」
周囲を包む甘い香りに、エリーは蜂蜜の甘さを思い出しています。
「なら、口に合わないかも」
クロネコが雑に花弁を千切り、エリーの口に差し込みます。
「ぺっ! え、なにするの?」
「よく噛んで食べてみて」
「口に合わないのに?」
「合わないかも、よ」
エリーは少し納得できない顔で、さっき吐き出した花弁を拾い口の中に放り込み奥歯ですり潰してみました。
「んー。可も不可もなく」
じわっとしみ出した汁は香りは良いけれど、味はいまいちです。
「僕は好きだけど」
クロネコは五枚重ねで、花弁を食します。
「食べすぎるとやばいんじゃないの?」
「まあ、食べすぎるとべろべろに酔うわね。大丈夫、僕は酔い慣れてるから」
「あはは。クロネコはいつも、自分に酔ってるもんね」
「はぁ?」
ちょっとした冗談が、クロネコの怒りを買ってしまいました。
「ぎゃっ! ぐっ! うぎっ!」
馬乗りになり、何度も何度もエリーの顔を殴りつけるクロネコ。その黄色い瞳は、怒りで血走って、まだ鶏の体内にある段階の卵のようです。
「痛いっ……クロネコっ……痛い」
血が跳ねて、濁りのない黄緑色の花を汚していきます。
「痛い……死んじゃうって、ば」
「あ……」
死んじゃう。その一言で、クロネコはエリーを死なせないために旅をしていることを思い出し拳を止めました。
「ごめん……ね」
クロネコ、人生初の謝罪でした。
「いいよ」
集中的に殴られた右頬の骨はグズグズに崩れていましたが、発音への影響は意外と少なく済みました。痛いのを我慢すれば、普通にしゃべることができるのです。
「痛く、ない?」
「痛いよ、なんか、治るの遅いし」
「そっか、ごめんね」
二度目の謝罪をしたクロネコは、両手で周囲の花をガシガシとむしりとります。
「もがっ! むぐっ」
「いっぱい噛んで。そうすれば、痛みは和らぐから」
強制的に嚙み潰させられた花弁からしみ出した汁が、喉の奥へと落ちていきました。
「んん……」
痛みは、和らがず。むしろ、無理矢理口に詰め込まれたせいと、急に酔ったせいで血管が脈打ち、痛みを増幅させている気すらします。
「ごめんね」
三度目の謝罪。どうしていいかわからなくなってしまったクロネコは、ペロリとエリーの頬の傷を舐めました。
「んっ……」
生臭い唾液が、傷口にしみます。
「エリーって、花と同じ味がするんだね」
そんなことはない――――――――口の中いっぱいの花弁と、口腔内に溜まる血液の味の違いをはっきりと感じていたエリーは、クロネコのことを今すぐ殺してしまいたいと思いました。手を出せなかったのは、ナイルの花のにおいで頭がぐらぐらとしていたせい。
エリーの傷が完全に回復したのは、真上にあった太陽が北東のほうに沈みかけたころでした。
「僕はさぁ、エリーとお話してみたいとぉ、思っていたわけぇ!」
「嘘だぁ! 目があったらすぐ殺しにかかってきたじゃん!」
花弁を食べすぎた二人は、完全に出来上がっています。
「僕のほうが強いのにぃ、一回も殺さなかったでしょぉ! それに、意外とお話したこともあるしぃ!」
「俺の腕引っ張って取ったのに? 脚も取ったことあるよね? 首だって三回ぐらい取ろうとしたでしょ?」
「そうかしら?」
「そうだよ! 話だって、俺のこと殴りながらするばっかりだったし!」
二人は、次々に花を千切って口に放り込みながらしゃべり続けます。
「そんなことないわよ」
「えー。絶対殺す気しかなかったって!」
食べれば食べるほど、気持ちが良くなっていく。血中を駆け巡るアルコールに類似した成分に二人はとても上機嫌! まあ、ナイルの花に含まれる成分はアルコールよりもだいぶきついものなのですが……………………この二人なら大丈夫かな?
「殺す気はなかったんだけど…………」
太陽が沈みきり、あたりは真っ暗。でも二人はお互いの顔が良く見えていました。大きく開いた瞳孔がわずかな光を上手くとらえているのです。
「絶対あったし……あっ!」
なんとなく見上げた空。複数の星が、天頂を中心とし放射状に広がります。
「あら、花火星。久しぶりに見たわ」
「綺麗だね」
「そう……ね。綺麗よ」
南南西から勢いよく姿を現した、握りつぶした銀紙のように輝く月が、エリーの横顔を照らしていました。
「もう一回見たいなぁ」
「馬鹿ね。花火星はそうそうあるものじゃ、ないでしょう」
銀の髪に――――ライトブルーとライトグリーン――――左右色違いの瞳。エリーの全てが、クロネコの目に反射していました。
翌朝、いつの間にか眠っていた二人は最悪の気分とともに目を覚ます――。
「うえ……吐きそう。っていうか……吐く」
甘ったるいにおいで満ちた花畑のど真ん中。
「僕もダメそう……あ、おなかもだめかも」
昨晩あんなにもそそった香りは、今の二人にとって最悪の刺激物となっていたのです。