05『黒猫にご注意』
二人の猫鬼の争いは、一昼夜経っても終わることがありませんでした。互いに左腕を欠損。切断面の出血はとうに止まり、肉が少しだけ盛り上り傷口を塞いでいました。
「ぎゃあああ!」
「ぎゃあああ!」
鳴き声はやや、掠れていました。叫ばずに戦うという選択ができるほどの賢さがないせいで喉が傷んでしまったのですね。可哀想に。
「ぎゃあああ!」
「ぎゃあああ!」
その戦いを物陰より、声を出さずに眺めているもう一人の猫鬼がいました。黒い艶やかな髪から覗く真っ黄色の瞳は、まるで、幼い子どもが描いた月のよう。
「…………」
黒猫のような猫鬼はペロリと舌なめずりをすると、静かに爪を三センチほど伸ばします。
ヒュン
瓦礫の裏より飛び出した黒髪の猫鬼は、一瞬で一人の喉をむしり取ってしまいました。噴き出す鮮血、急速に脳から失われていく酸素。喉を抉られた猫鬼は、断末魔をあげることすらできずドサリと倒れて死んでしまったのです。
「あ? おまえ! もしかしてクロネコか!」
唐突に現れた殺し屋に、まだ殺されていない猫鬼が問いかけます。友達が死んだことに悲しむことも、驚くこともできないのは、戦闘を起因とする極度の興奮で頭が一時的に――少し――――おかしくなってしまっているせいですね。
「そう、僕がクロネコ」
見た目そのままの名で呼ばれ、見た目そのままの名を名乗った猫鬼は、まだ殺していない猫鬼の顔を、黄色い瞳でじいっと見つめました。
「殺ひゅっ――」
圧倒的な経験の差を感じさせる体さばき。黒髪の猫鬼『クロネコ』は、ほんのわずかな時間で二人の猫鬼を殺してしまったのです。理由なんて特にありません。ただそこに、それらがいたからです。
「クロネコ見ぃつけた!」
「!」
少し離れた場所にあった、もう百五十年以上前に動かなくなった車の影から飛び掛かってきたのは、銀の髪に――――ライトブルーとライトグリーン――――左右色違いの瞳を持つ新手の猫鬼でした。
「エリー、久しぶりね」
「久しぶりだね。クロネコ」
クロネコとも面識のある銀髪の猫鬼は、エリーという名前です。
「追いかけてきたの? さんざ痛めつけてあげたのに、あなたやっぱりどうかしているわね」
「そりゃあ、生きてたら追いかけるでしょ! 殺されてないなら!」
「話がつながっていないわ」
「つながってるよぉ! クロネコ殺す!」
軽やかに飛び跳ねながら戦いはじめた二人は、殺された猫鬼たちよりも遥かに優れた生物かのように見えました。そしてそれは事実でもありました。
「エリー、いい加減にしないと殺すわよ」
「クロネコには無理だよ! クロネコに俺は殺せない!」
人間に強化加工を施した猫鬼を、さらに強化したカスタム品。並みの猫鬼であれば、三十人束になって襲い掛かっても倒すことはできないほどの強さを持つ二人は、現世界において頂点捕食者と呼べる存在なのです。
「あなたにも僕は殺せないわ」
「殺せるよ!」
「殺せないわ」
銀髪のエリーが、クロネコを狙う理由は一つ。
「殺すよ! てっぺんは、二人もいらないからね!」
自分が一番強いと証明するためです。
「うるさいわね!」
「いたっ!」
クロネコの爪でエリーの小指が切断され、ピュンと飛んでポトンと落ちました。
「隙が多いわよエリー」
「あはは、そうかもね!」
出血は十三秒で止まります。キチキチと伸びはじめた骨とモコモコと盛り上がりだした肉は、カスタム品ならではの異常速度での自己再生。エリーは指一本くらいであれば一分ほどで元通りになる、凄い猫鬼なのです! 普通の猫鬼なら半日はかかるでしょうね。
「エリー、あなた今日なんかおかしいわよ。いったいぜんたい、なにを企んでいるのかしら」
クロネコは、訝しんでいました。エリーが戦闘開始早々に指を欠損するなどという鈍くさい真似をしたことに、違和感があったのです。
「なーんにも! 俺にあるのはクロネコを殺すことだけだよ!」
加えて前回エリーと戦った時……つまりは、三か月前の戦いに比べると、どこか動きに鈍さを感じます。
「そう、なら僕もエリーを殺すことを考えるよ」
「ぐぎゃ!」
クロネコはエリーが着地した瞬間を狙い足払いをして、ガバッと勢いに任せて組み敷いてしまいました。
「んぐぎ……」
エリーは思いっきり力を入れて、クロネコの腕を持ち上げ跳ねのけようとしましたが、ビクともしません。体格は同じくらい。どちらも、まだあどけなさがガッツリ残っている少女なのですが、大人と子どものような力の差があるのです。三か月前は、ほぼ互角であったのに。
「やっぱり弱くなってる…………エリーあなた、どうしちゃったの?」
「どうしちゃったんだろう。あはは。あれ? クロネコ、なんで泣いてるの?」
人体蝋化現象にも追いつかれずに生きることができる猫鬼は、生命の圧縮体。個体差はあるものの、ほとんどの猫鬼は十四、五年あたりで命が尽きてしまいます。
「エリーあなた……もしかして、死ぬのかしら?」
クロネコもエリーも、最も数多くの猫鬼が死ぬ年齢である十四歳になるまでには、まだまだ時間があります。でも、二人は人間の加工品である猫鬼をさらに強化した加工品の加工品。通常個体より寿命が短くなっても、おかしくはない…………と、クロネコは考えたのです。
「死なないよ。俺は、クロネコに殺されるんだ」
魂に圧縮をかけているからこそ力が強く、寿命に圧縮をかけているからこそ再生力も強い。いわば、彼女たちは人間の持つ精神エネルギーを高速再生しているような生物。
「ほんとに殺すわよ」
「クロネコには負けないけどね!」
平面化した世界だからこそ成り立つ、精神エネルギーを物理エネルギーに変換する肉体構造。不思議学の落とし子である猫鬼は、穏やかな死を望みません。死の直前まで自分らしく戦い抜くことで、生まれ変わりを願うからです。
「やめたわ……」
クロネコは体を起こし、エリーを解放しました。
「殺さないなら殺すよ? うぎゃっ!」
自由になったエリーはクロネコに飛び掛かるも軽くかわされて、後頭部を拳で強く叩かれ墜落してしまいました。
「いたた……」
「今のエリーには、僕は絶対殺せないわ」
「ごっ! がっ! あ!」
「あなた、とっても弱いもの」
「がっ! う! あ!」
銀色の髪を掴み顔面を何度もアスファルトにたたきつけ、弱さを自覚させる。クロネコはとても冷たい目をしています。
「いたた……なんか今日は痛いな」
再び解放されたエリーは、ぼとぼとと零れる鼻血を止めようと左手の指で鼻をつまみ笑いました。切断された小指の再生も、最後の最後のところで仕上がらずまごついていて……………………いつもならとっくに治っているはずなのに。
「今のあなたは、手足を千切ったら血が止まらなくなって死ぬかしら?」
猫鬼は通常の個体であっても、手足のどれかを千切られたくらいでは死にません。一撃で致命傷となるのは喉か、脳か、重要度の高いいくつかの内臓くらいでしょう。
「あはは、そうかもね」
クロネコは過去にエリーの手足を一つずつもぎ取ったことがありました。その時もエリーは、クロネコの顔の肉を喰い千切って逃げ、廃墟に隠れ手足を再生させ、約二か月後にリベンジを挑んできたのです。
「エリー、あなたは誰につくられたのか覚えていないのよね」
過去の戦いを懐かしむと、エリーが死んでしまう……そんな気がしたクロネコは話題を変えることにしました。
「うん、よく覚えてないよ。あとさ、それ、前も話したよね?」
人を猫鬼に加工するためには、単独での生命維持に必要な部位が完成し、なおかつ蝋化現象がはじまる前、つまりは、産まれる直前に圧縮処理を行なう必要があります。加工後は人間にはありえない急成長を見せるのですが……物心つく前にエリーは捨てられてしまったらしく、つくり手の記憶を持っていないのです。
「頭の中の本は、まだあるかしら?」
「本とかよくわかんないけど、前にクロネコが言ってた通りならあるんじゃない?」
対してクロネコは、五歳まで施設ですごしていました。猫鬼で五歳といえば、それなりに物事を理解し考えることができる歳。だからこそ彼女は、自分が通常の猫鬼より優れた身体能力と知能を有している理由を知っているのです。
「そう、わかったわ」
「なにが?」
「ルイス・キャロルを探そう」
「クロネコの頭の本を書いた人?」
唐突な提案に、エリーはポカーン。
「そうよ。僕がいた施設に、新しいアリスの本が届いたことがあるの。つまり、ルイスは今も書き続けているってこと。ルイスが最初の本を書いたのは、千八百六十四年、もう、大昔よ。だから、ルイスなら、長く生きる方法を知っているかもしれない」
クロネコの脳には、この不思議化した世界の礎ともいえるある本の原典が埋め込まれていました。本の名は『不思議の国のアリス』――――――――。
「俺の頭の本は、そんなにすごいの?」
「多分、あなたの頭の中にある本も、僕の本ほどじゃないけど、凄いと思うわよ。だから、僕と戦っても生き延びてこられた。そうじゃなきゃ説明がつかないでしょう?」
「クロネコは賢いね。俺とは全然違うや」
エリーは自分の頭の中に本があるなどという不思議な話を、クロネコ以外からは聞いたことがありません。
「賢くはないわよ。原典の話は、博士に教えてもらっただけだし、細かく教えてくれなかったからいろいろ曖昧だし……そうだ! 博士に会いに行けばいいのよ! 博士なら、ルイスの居場所を知っていると思うわ!」
「ねぇ、クロネコ」
エリーは、ようやく再生しきった小指をクロネコに見せつけるように広げて見せました。
「なに?」
「君は、俺に死んでほしくないのかな?」
「あなたが死んだら、あなたを殺せない。あなたみたいなやつは他にいないから、僕が殺せないのは嫌なのよ」
「あはは、残酷だね。いいよ、ルイスを探しに行こう」
鼻血はもう止まっていましたが、拭っていないのでエリーの唇は真っ赤に濡れていました。雨に打たれたバラの花びらのように、赤く、紅く、艶やかに。