01『チェシャーの猫たちへ』
私がこれからあなたにお話する、或る歴史には、幾らかの、幾らかの暴力が含まれているかと思います。でも、だからこそ、暴力を嫌悪してしまうあなた自身を嫌いにならないでほしいのです。そしてどうか、どうか、あなたの、その、そこはかとない優しさで暴力に生まれた者たちを愛してあげてほしいのです。
たとえあなたが、自分自身を赦せなかったとしても。
三十センチメートル以上にもなる熱を帯びた爪は蝋人間を切断するのに、とても、とても、適していました。
ゴトリ、ゴツン、ゴロ
整った造形の頭が、砂埃の積もったアスファルトにぶつかって転がります。目も口もなにもかも、全て蝋になってしまっているので、表情の変化はありません。
「鼻取れちゃった! ま、いっか」
ぽっきりと折れてしまった、高い鼻。そう! たった今、この蝋人間は首を斬り落とされてしまったのです! でも、悲しまなくてもよいのですよ。昔から、蝋になってしまった人間は、痛みも、苦しみも、感じることはないと言われていますから。
「お、この頭、なかなかの重さだね。けっこう、中身が詰まっているんだなぁ」
切断したのは、凶器以外のなにものでもない爪と、収音に適した大きな獣耳をもつ少女らしき存在でした。ふわふわの髪、大きな瞳。少女と猫の良いとこ取りをしたような、可愛らしい猫少女です。
「うーん。よいしょ! はぁ、これ以上カバンに入らないよ。首から下、どうしよう」
猫少女が蝋化した人間を切断したのは、カバンにしまいやすくするためでした。横幅約一メートル、縦幅は約七十センチメートル、微妙に濃さの違う薄橙色の革を継ぎはぎしてつくられたカバンの中には、彼女が自分の爪でバラバラにした蝋人間がぎっちり。今、無理矢理押し込めた頭一つで、もう、限度いっぱいギリギリなのです。
「まあいっか、いっぱい集めたし」
どうやら蝋人間の首から下を持ち帰るのは、あきらめたようです。
「これももういらない」
猫少女は鋭利な歯が並ぶ口で自身の長い爪をまとめて咥えると、バキベキバキンとへし折ります。爪が長いままではカバンの持ち手を切断してしまう危険性がありますからね。
「ぺっ!」
吐き捨てた爪は、まるで柄のない片刃のナイフのよう。
「はぁ、つかれたなぁ」
地面に散らばる、素手で触れるとスパッと肌が裂けてしまいそうな恐ろしい爪は、合計五本。当然ですよね、猫少女の手は人間と同じく指が五本なのですから。どうして十本じゃないの? と思った方もいるかもしれませんが……………………その答えは簡単! 長く伸びていたのは右手の爪だけなのです。
「んん? んんん?」
頭のなくなった蝋人間の首の断面に鼻を近づけクンクン、クンクン、クンクンクン。なにやら、気になるにおいがするようです。いったい、なにがあるのでしょうか?
「ふんふん、ふんふん……ふんふんふん。うむうむ、うむうむ。うんうんうん! うん!」
だんだんとにやけてくる顔が、とっても可愛らしい! これは、そうとうに良いものがあるに違いありません。
「うん。ふんふん……うん! うん! やっぱり! これはすごいよ! すごいことだよっ!」
廃墟の街に、猫少女のやかましい喜びの声が響きました。
「やったあ! すごくやったあ!」
とってもとっても、大喜び。へたくそな踊りまでして……ちょっと馬鹿みたいですね。
「やったああ!」
でも、猫少女が喜ぶのは当然のことなのです! 彼女の全身が喜びを表現してしまうことは、仕方のないことなのです! だって、蝋人間の背骨の中から、ほのかに生の香りがしたのですから!
「ふう、にゃあ」
ざらついた舌で骨の中央を舐め取ると、蝋の無機質な油っぽさの中に、滑らかで深みのある脂っぽさが感じられます。これは、完全に蝋化してしまった人間からは、絶対に感じられない味です。
「はああ、ああ」
舌にまとわりつくような滑らかな味わいに猫少女の体はゆるゆるに緩んでしまい、たらたらと排尿がはじまってしまいました。太腿の内側を伝う熱い液体と、香ばしいにおいのする生暖かい湯気。でもそんなことどうでもいい。どうでもいいのです。漏らしていることなど気にならないほど、骨の中身がたまらないのです!
ちゅるちゅるちゅるり
ぺろぺろぺろり
ちゅるぺろり
ちゅちゅちゅるぢゅるり
舌を押し込んでスプーンのように使ってみたり、丸めてストローのようにしてみたり。猫少女は背骨の中にあるわずかなプルプルを、できるだけ多く摂取しようと頑張ります。
「んむう」
脚と足元がおしっこでびしゃびしゃに濡れようとも、止まらない、止められない。
「ふあっ」
舌の表面が蝋化した骨で擦れて、傷ついてしまいました。生の状態を維持している髄はほんのわずか。なかなか上手に食べることができないのです。
がんばれ
がんばれ
がんばれ
がんばって!
猫少女は必死に、蝋人間の首をしゃぶり続けます。
「んんう! はぁっ!」
それから約七分後のこと――――猫少女は、ようやく舌を止めました。生の味が完全にしなくなってから、三十秒ほど舐め続けた後に。
「んん! おいし! かった!」
歓喜の叫びが、無人の街にこだまします。今、ここにある人のようなものは、猫少女と、切断面を舐め回された蝋人間だけ。
「すごく! おいしかった! おいしかったぁあああ」
興奮に体を震わせた猫少女が小さな右手にグウッと力を入れると、爪がニュウウウウウウと伸びだしました。それはまるで、溶けた飴を冷えた空気の中に押し出していくかのよう。
「はぁああ」
実は……もっと素早く爪を延ばすこともできるのですが、舌に張り付いた脂の味わいがあまりにも甘美で、いつものように力むことができなかったのです。人の骨髄って、そんなにも美味しいものなのですね。
「もっと……食べたいよぉ。うん! 私は食べるんだぁ!」
二十センチほどまで伸びた小刀のような爪で、蝋人間の首を一センチほど削ぎとります。それから鼻を近づけてクンクン、クン。クンクン、クン。まずは香りから楽しもうとした猫少女でしたが…………。
「ああ! ちくしょう!」
なぜか突然、激怒してしまいました。
「ちくしょう! ちくしょう!」
猫少女が怒るのは、当然のことです。だって、わざわざ爪を伸ばしてまで覗いた首の奥は、完全に蝋になってしまっていたのですから。
「ぎいいい!」
怒りにまかせ、首のない蝋人間の体を蹴飛ばし、踏みつけ、蹴り上げ、踏みつけ、めちゃくちゃに壊していきます。
「ぎー! ぎいいい!」
どれだけ壊そうとも、怒りはおさまりません。蝋には旨味が、微塵もないからです。
「ぎゃああ! ぎいゃああああああ!」
カバンもいっぱいですから、砕いた蝋人間を持ち帰ることもできません。つまりは…………とても悲しく残酷な事実ではありますが、猫少女は今、すごくすごく無駄な労力を使ってしまっているのです。
そして、もっと悲しい事実があります。
美味しい骨髄を含む首の切断面がもう一つあることに、猫少女が気づいていないということです。早々にカバンの中にしまってしまった、斬り落とした頭。そちらにもちょびっとだけ生の骨髄が残っているのですよね……。