シャンプーの香りと柔らかい指先
僕は緑山中学校というところに通っているんだけど、その校舎はいつも灰色に見える。義務教育の年齢だから仕方なく通っているが、この学校にはまったく親しみというものがわいてこないんだ。クラスメイトとワイワイ楽しくやっていた小学生のときとはまるで違う。
なんていうか、この中学校にいると、やらされている感がすごい。勉強にしても、部活にしても、イベントにしても、どんなときも「指導」と言う名の命令に縛られ続けて息がつまりそうだ。特に勉強も運動も人並み以下の僕にとってはツラい以外の何者でもない。
百歩譲って勉強や部活なら、それでもいいだろう。
しかし2週間後に迫った遠足までもが、つまらなさ満載だ。目的地はおなじみの地元の滋賀養鶏センター。誰もが10回は行っており飽き飽きしている。予定を細かく立てられ、各生徒に細かい役割が与えられる。そのうえプリントに遠足に関する「私の課題」まで書かされる。行きたくもないのに無理やりそんなものをひねり出すのは、まるで意味のない修行をさせられているようなものだ。
ちなみにこの遠足で、僕に与えられた役割は「レク係」だった。「レク係?」なんだそりゃ?
しかたなく就業前のホームルームで、僕は先生に声をかけた。
「教えてほしいことがありまして…」
「何だ? 遠藤」
と僕の名を呼ぶ担任の先生。名前は内野誠二だけど、みんなは陰で「ツルベ」と呼んでいる。落語家の笑福亭鶴瓶に似ているからだ。しかし本家とは違って、話は面白くなく常に笑顔でいるわけでもない。おまけに自分のことを織田裕二に似ていると勘違いしている。どこがだ! ともあれ僕はこう質問をした。
「レクってなんですか?」
「レク、ああ、遠足の役割のことか」
「はい。何をしたらいいかわからなくて」
するとツルベは
「遠藤、『レクリエーション』って言葉を聞いたことがあるか?」
と得意げに聞いてきた。
「いいえ、初めて聞きました」
すると遠藤は黒板に白いチョークで、
〈recreation〉
と英文字で書き込んで、こう言った。
「休みの日や空き時間にゲームやスポーツなどをして楽しむことだ。みんなで何をするか考えるのが、おまえの仕事だ」
僕は心の中で、
「じゃあ『お楽しみ係』とか日本語で書いてくれよ」
と思ったが、もちろん口にはしなかった。
放課後のチャイムが鳴って、掃除を終えて、教科書や書類をカバンに入れていると、遠足のプリントが目に入った。さっきの「レク」の話が頭によみがえってきた。ユウウツな気分だ。
僕はイスに座り直し、机に両ひじをついてプリントを広げて考え込んだ。
すると真横の席に白い肌の女の子がすべり込むように座ってきた。かすかに甘いシャンプーの香りがする。大きな目と柔らかなエクボがまぶしい。
彼女は「小泉のん」だ。僕はその名前を知っている。クラスの中でもベスト3には入るであろうルックスで、可愛い系ではナンバー1ではないかと僕は思っている。でも普段の言動や服装は派手ではなく、髪型も目立つわけではないストレートのセミロングだ。だから校内イチのイケメンや、野球部のエースから狙われるようなタイプではない。そのぶん、うだつの上がらない底辺層の男子には秘かな人気を集めている。
でも僕自身は小泉さんのファンではない。なぜなら一度も話したことはなく、僕には縁のない存在だと思っていたからだ。
中2の4月にクラス替えになってまだ1週間、僕はもちろん小泉さんのことは知っていたが、小泉さんは僕のことなど知るはずも、認識しているはずもないと思っていた。だけど今、こうして僕の隣にいる。
「ねぇ、今、難しい顔してたでしょ」
小泉さんが話しかけてくる。
「あ…うん」
それぐらいしか言えない。僕は緊張している。そんな僕に小泉さんは弾けるような笑みを浮かべて、
「いつも笑顔、笑顔」
と僕のほっぺに人差し指を当てて、口角を上げさせた。
「うん、わかった」
俺は3歳児か。ドキドキしながら、こんな返しをするのが精一杯だ。
「お母さんからの教え。いつもスマイルね。それが幸せを連れてくるんだって」
いい子だ。だから小泉さんは人気があるのか。
「で、遠藤くんは何を悩んでたの?」
「遠足の空き時間で、みんなで楽しめることを考えなきゃいけないんだけど、何をすればいいのか思いつかなくて…」
「一生懸命考えなくても大丈夫だよ。みんなが参加できて、嫌な気持ちになることがないような遊びでいいと思うよ」
「そうか、何かありそうだね。考えてみる」
「思いつかなかったら、私も一緒に考えるから」
「いいよ…悪いし」
僕がそう答えると、小泉さんは一瞬、寂しそうな表情を浮かべた。気のせいかもしれないけれど。僕も悲しい気持ちになる。
すると小泉さんは、
「江藤くん、手見せて、赤切れになってない?」
小泉さんが突然そう言って、僕の手をとった。確かに手の甲が少し乾燥してひび割れていた。でも痛みを感じるほどじゃない。
「でも、そんなにひどくないから」
「ダメだよ。私、ハンドクリーム持っているから」
そう言って小泉さんは自分の席に戻って、カバンから小さな容器を取り出し、僕の横に戻ってきた。
小泉さんは僕の右の手のひらを両手で取って、
「塗ってあげるね」
と言って、僕の手のひらを両手の白い指で優しく包んでくれて、ハンドクリームをするすると柔らかな指先で僕の手の甲に滑り込ませてくれた。その感触がすごく心地よい。
小泉さんは穏やかな表情で僕の手の平にもハンドクリームを塗り込んでくれた。彼女の小さな手のひらと僕のゴツゴツした手のひらが合わさっていく感触は、とてもドキドキした。
僕らは何も言葉をかわさなかったけど、僕はだんだんリラックスしていた。
小泉さんは左手も同じように丁寧にハンドクリームを塗り込んでくれた。彼女の髪のフルーティな香りと、やわらかな唇の表面のつややかな輝きに夢心地になってしまった。極端に言えば、僕はもう人生、ここで終わってもいいと思っていた。
そのとき、彼女の友達2人が掃除を終えて、教室に入って来た。作田梨花と高山美智だ。彼女たちが小泉さんに声をかける。
「ノンチ、一緒に帰ろ!」
ノンチというのは小泉さんの愛称だ。彼女の名前「のん」に「ちゃん」を付ければ「のんちゃん」。それを省略すると「のんち」になる。女の子たちは彼女をそう呼んでいる。
それを聞いた小泉さんは、さっと彼女たちの方を向くと、
「オッケー、すぐに準備するね」
と立ち上がった。
高山さんが、
「あっ、江藤くんとお話中だった?」
と聞いたが、小泉さんは、
「でも、話はもう終わったから」
と僕の方を見て一瞬ウィンクした…ように見えた。
僕は完全にぼうっとしていた。帰っていく女の子3人の後ろ姿をただ見送るだけだった。