第3話 満月の狂気王
「真実だけを話せよ」
「本当だって。吸血鬼に狙われてるんだ。嘘じゃない」
テーブルと椅子くらいしか家具のない殺風景な部屋に男がふたり。どちらの男も「真っ当な職業」には見えない。ふたりとも黒いスーツを着ている。
「ともかく、嘘は言わないと誓え」
そう言った男はフォーマルなスーツに黒いネクタイをしめている。日本人ではない。長い黒髪の美しい顔立ち。浅黒い肌。座っていても腰の細さが際立つメリハリのある体型。その容姿をひと言で説明するなら、誇り高き野生のオオカミみたいな男だ。
彼の本名を知るものは少ない。ルア・シェイアのロウコ。ロウコと呼ばれていた。
「誓うよ、誓う。神に誓う」
もうひとりはホストのような派手なデザインのスーツをきている。ヤザワという、夜の仕事をなりわいにしているチンピラだ。綺麗な顔をしているが、ひどく疲れて見える。
「家族の名前に誓えるか?」
ロウコにとって家族の名前は神に等しい。アペリードを守るためなら命をかける。その家族とは「ルア・シェイア」のことだった。
ルア・シェイアとはポルトガル語で「満月」という意味の言葉。そして、ロウコの同胞たちのことでもある。
日本の法律はガイジンには冷たい。法が守ってくれないなら自分たちで守る。ルア・シェイアは同胞たちを守るための組織だが、暴力や犯罪にも手を染めている。「南米系の犯罪シンジケート」と言った方が正確かもしれない。
ロウコはまだ若いが、そのルア・シェイアの指揮官という地位についている。この街でトラブルが発生すると、ロウコの所に話がいくのだ。
「本当に吸血鬼なんだ。信じてくれよ」
ヤザワは吸血鬼に狙われていた。眠っていると女の吸血鬼が現れるのだ。それも毎日。
気がつくと青白い顔の女がベッドサイドに立っている。じっとこちらを見下ろしている。
ヤザワは金縛りにあって身体を動かせない。逃げることも、話しかけることも、命乞いもできない。
女が口を開ける。長い牙が冷たく輝く。
動けないまま、首に噛みつかれる。気が狂うほどの激痛だが、金縛りで叫ぶこともできない。
痛みで気を失う。そして目が覚める。女は消えている。
自分の首を調べても傷はない。夢かと思ったが、身体に力が入らない。足がフラフラして、頭もぼんやりする。まるでエネルギーを奪われたみたいに。そんなことが毎日のように続くのだ。
ともかく家から逃げ出そうと、友人たちに「泊めてくれ」と頼みこんだ。誰でもいい。どこでも構わない。一晩寝かせてくれ。そんな生活を続けていたところ、南米系の知り合いからロウコを紹介されたのだ。ルア・シェイアなら呪いや悪霊のトラブルも解決してくれると。
祈祷師や祓い屋のような職業は現代の日本では廃れてしまったが、昔と同じように暮らす田舎には伝統を残している村もある。ルア・シェイアは南米から移住してきて、自分たちの伝統を守って暮らしている。呪術の知識を残しているらしいのだ。
「その吸血鬼は、黒マントで魔法をつかうドラキュラみたいなやつか?」
ロウコからそう言われ、ヤザワが反論する。
「ちがう。そんな子供だましの話じゃないんだ」
「わからんな。もっと具体的に言ってくれ」
「とにかく本物だ。ドラキュラみたいなやつじゃない。死んだはずの女が現れて、オレの血を吸うんだ。寝ていると現れる」
ロウコは少し考えて、こう答えた。
「それはバンパイアかもしれないな。バンパイアってのは『死んで蘇った人』って意味らしい。墓場の死体が蘇って人間を襲う、ゾンビみたいなやつだ。ドラキュラは小説だが、バンパイアの話は本物というか、アヴォが言うには、アヴォってのはババァのことな、昔は本気で信じられていたらしい。死体がバンパイアにならないように心臓に杭をさしたり、口にレンガをかませて埋葬していたようだ」
ヤザワは黙って話を聞いている。
「ほかに情報はないか?」
ロウコがそう質問すると、ヤザワは少し考えたあとで首を横にふった。
「吸血鬼と聞いて、なにか思い浮かばないか?」
ヤザワは考えてみたが、やはり首を横にふる。
「なんでもいい。身の回りで気になること、怪しいやつ、とにかく話してみろよ」
今度はすぐにこう言った。
「疑ってるのか? 信じられないと思うが、マジなんだ。たぶんそのバンパイアってやつだと思う」
ロウコはポリポリと頭をかいた。
「疑ってはいない。おまえは命を狙われてる。それは確かだろう。ただ相手が本物の怪物とは限らない。バンパイアのふりをして、おまえを騙している可能性もある」
「コスプレ野郎だっていうのか? いや、あんたの立場もわかるが、あいつはマジのマジだぜ」
ヤザワの声のボリュームが上がる。ロウコは大きくうなずきながら、こう言った。
「すまん。言い方が悪かった。そうじゃないんだよ。正直にいうと、オレたちルア・シェイアも吸血鬼を探しているんだ」
「あんたらも吸血鬼を?」
「オレたちが追いかけてる吸血鬼事件と、おまえを襲っているバンパイア。もしかしたら裏で繋がってるかもしれない」
ヤザワが身体をのりだす。
「マジかよ。どんな事件だ?」
「口外しないと誓えるか?」
「もちろんだ。聞かせてくれ」
ロウコはヤザワの顔をじっと見つめる。
それから長い話をはじめた。
「ある夜のことだ。オレのケイタイにビデオが送られてきた」
ロウコが受けとったビデオは奇妙なものだった。
真っ暗な映像に、口笛の音がはいっている。ビデオの撮影者が吹いているようだ。知っている曲。子供の頃に歌ったことがある曲で、その歌詞を思い出すことができた。
ワンリル ツーリル スリーリルフォーリル ファイブリル インディアンズ ボーイズ
十人のインディアンという曲のコーラス部分だ。
撮影者があかりをつける。撮影につかっているケイタイのライトだ。画面が少し明るくなって、そこがキッチンだとわかった。
まな板の上に、草で作った小舟が並んでいる。半分に切ったピーマンくらいのサイズの小舟が、ぜんぶで7つ。
すぐ横のシンクに水がはられている。撮影者は口笛を吹きながら、小舟を掴んでシンクに浮かべる。
プカプカと小舟が揺れ、水面に波紋が広がる。一艘、二艘、三艘と浮かべていく。
ワンリル ツーリル スリーリルフォーリル ファイブリル インディアンズ ボーイズ
6つ浮かべたところで手を止めた。まな板には、ポツンとひとつだけ草舟が残っている。それを掴むと、撮影者はキッチンを出る。
ワンリル ツーリル スリーリルフォーリル ファイブリル インディアンズ ボーイズ
廊下を歩いて扉を開ける。
薄暗い寝室。ベッドに女が寝ている。知っている顔だった。ルア・シェイアの身内の女だ。
その女の腹の上に、小舟が置かれた。
女の身体がビクビク痙攣する。
そこで映像は終わる。
意味のわからないビデオだ。
ビデオを送信してきたアドレスは、女のものだった。まぎらわしいので、この女をMとしよう。Mとは日常的に連絡を取りあう関係ではなかったが、ロウコのアドレスはルア・シェイアの身内なら誰でも知っている。何者かがMのケイタイでビデオを撮って、ロウコに送信したのだ。
すぐMを探すことにした。仲間のケイタイから着信があって、その相手が第三者という場合、ロウコには最悪の想像がはたらく。ようするに「仲間を人質にした」みたいな状況だ。
ひとまずビデオのことはふせて、Mの身内に聞いてみる。「まだ帰宅していない」という。Mは夜の仕事をしていた。帰宅が遅いのは珍しいことではない。
Mの仕事仲間にも聞いてみたが「客と一緒に店を出た」ということだった。
そうこうしているうちに夜が明け、Mが帰宅したと連絡があった。すぐに顔を見に行く。
「なにか、変わったことはないか?」
そう聞いた。こちらからビデオの話題は出さなかった。必要ならMのほうから言うはずだと思ったからだ。
「べつに?」
Mはなにもないという。
見たところ異常はない。少し元気がない気もするが、朝帰りでピンピンしている方が変だ。
ビデオはなにか手違いで送信されたのだろう。そう思って別れた。
ところがその日の夜、Mは急死してしまったのだ。仕事中にいきなり倒れて、そのまま息を引き取った。
医師の診断は急性の心筋梗塞だ。
「本当に殺されたのか?」
ヤザワが疑問をなげかける。単に急病で死んだ可能性を指摘しているのだ。
「十人のインディアンは殺害予告で有名な歌らしい。それにMの首に、こう、咬まれたような傷があった。小さな傷だ」
ロウコは自分の首筋を指でさす。
「それでバンパイア?」
「医者からは、他殺の可能性はないと言われた。首の傷は皮膚が破れただけで血管には届いてない。少し出血したくらいで死因とは無関係だと。Mは客と朝まで一緒だった。つまり、そういう傷だろうって。殴られたり、抵抗したあともない。警察も事件性はないと判断した。それでもオレは殺されたと確信している」
ロウコが言葉をきる。ヤザワは「それで」と続きをうながした。
「あの夜、Mを連れ出した客、ふざけたビデオを送ってきた野郎だ。ともかく、そのインディアン男を探すことにした」
ロウコはMと同じ店の同僚たちに話を聞いた。
十人のインディアンの男、仮にXとしよう。Xは3人組で店に来た。なじみの客ふたりがXを店に連れてきたのだ。
Xは東京出身で、仕事は医療関係だと自己紹介した。若い好青年で、常連客の紹介でもある。怪しい感じはしなかったようだ。
その日は怪談話で盛り上がって、Xは怪談はできないと言ったが「仕事の関係で聞いた実話なら」と前置きして、こんな話をした。
昔の人は不思議なことを目にすると、幽霊や怪物のせいにした。
たとえば吸血鬼。昔は死体をそのまま埋めていた。死体は内蔵から腐る。すると口から黒い液体が出ることがある。腹にガスがたまって膨らむこともある。それを見た昔の人は、死体が蘇って血を飲んだと勘違いしたのだ。
科学が発達して、不思議なことの正体が説明できるようになると、幽霊や怪物を信じる人は減った。
しかし、その逆もある。科学の発達によって怪物が発見されることがある。
米国のとある病院で、心筋梗塞で死んだ女がいた。その首筋にはまるで吸血鬼に咬まれたような傷があった。
死因は心筋梗塞。それは間違いない。事件性はない。だから首の傷を調べる必要はなかった。
ただなんとなく「この女がどんな男と寝たのか」という悪趣味な好奇心で、歯型をデータベースで検索してみることにした。
最近ではコンピューターやネットワークが普及して、性能も大幅に上がった。数年前までは歯型を検索するなんてことは気軽にはできなかった。
つまり科学の発達と、小さな好奇心が、本物の怪物を発見してしまったのだ。
検索結果は、同じ歯型のついた遺体が数千件。全米のあらゆる地域、バラバラの時期、まったく接点のない遺体に、同一人物の歯型があったのだ。これは明らかに異常だ。
米国では年間三百万人が死んでいる。だから過去数十年の記録から数千件というのは微々たるものだ。だから、これまで横のつながりに誰も気がつかなかった。個人では一生かけても調べきれない膨大なデータを、コンピューターが分析したことで本物の吸血鬼を発見してしまったのだ。
この怪物にFBIがつけたあだ名は「ブラッドサッカー」。シンプルに「吸血者」という意味だ。
追加の調査によって、不自然な歯型はひとつではなく、他にもあることが判明する。ブラッドサッカーは少なくとも世界中に十人くらい存在しているようなのだ。
事件を公表していないのは、咬みついただけで殺したという証拠がないからだ。もしもブラッドサッカーを捕まえたとしても罪には問えない。
「偶然だと思うか?」
ロウコの瞳は「オレには証拠なんか不要だ」と言っている。
「そいつと一緒に店に来たっていう常連ふたりは?」
「ふたりともそいつとは初対面だった。お互いに相手の連れだと思っていたんだと」
つまりそいつは、見ず知らずの人間に友達のふりをして近づいた。そして完璧に友達を演じてみせたのだ。
人間社会に紛れこんで、誰にも気づかれずに殺しを続けるブラッドサッカー。
なるほど。事情は理解したが、ヤザワには提供できそうな情報がなかった。
「あんたには悪いが、たぶんオレの話はそいつと無関係だ。オレを襲ってるバンパイアは、知ってる女なんだ。オレの女だった」
「いまは違うのか?」
「び、病気で死んだ」
ヤザワが言い淀んだ。
ロウコは見逃さない。
「どうした? 恨まれるようなことでもしたのか?」
「ああ、そりゃあ、自分の女だぜ? 少しくらいはあるだろ? たぶん、恨まれてると思う」
ロウコは「ふうん」と笑っているが、納得しているようには見えない。肉食の獣が獲物を見るような、感情のない瞳をしている。
息苦しい。部屋が狭く感じる。
ロウコから疑われるのはまずい。
「わかった。言うよ。金づるにしてた女だ。結婚をエサに金を引っ張ってた。オレは既婚だ。ガキもいる。結婚する気はない。それがバレて、自殺したのかもって考えてた」
「念のため聞くが、おまえがマリアを殺したわけじゃないな?」
「オレが? マリアを?」
ロウコはヤザワの表情を観察する。「意味がわからない」とでもいうような、不思議そうな顔をしている。嘘ではなさそうだ。
それでもロウコは、もう一度聞くことにした。
「マリアを殺してないんだな?」
「なぜ殺す? マリアが死んじまって一番悲しんだのはオレだ。金をくれる女だぜ? それに抱かせてくれる。身体の具合も良かった。ヤバい喧嘩をするような関係でもない。っていうか、チョロいヤツだぜ。いつも『あんたなんか大嫌い』『これで最後だ』って言うんだ。でも少し優しくすれば、泣きながら『大好き』『あなただけ』って奉仕してくれる。しゃぶらせるとねちっこくてさあ。たまんねえよな。わかるだろ?」
ヒヒヒと笑う。これがヤザワの本性。ゲスな男だが、本心を語っている。都合のいい女を殺す必要はない。筋の通った話だ。
「わかった。もういい」
そう言うが早いか、ロウコはヤザワの髪を掴むと顔面を殴りつけた。軽いパンチに見えたが、恐ろしい威力であった。まるで電柱に頭をぶつけたみたいな重たい衝撃。ポタポタと血が滴り落ちる。顔全体が焼けるように熱くなり、どこから出血したかもわからない。
熱さが引くとジンジンと痛みが襲ってくる。その痛みに耐えていると、もう一発同じ場所にパンチが飛んできた。
視界が真っ白になる。
逃げようともがくが、髪をつかむ手はびくともしない。
殺される。
「やえお、やえ、やえて、やえ、ゆゆして」
命乞いをする。
あまりの恐ろしさに涙がこぼれた。
「ひはう、ひが、ちがい、ます。オレじゃないです。オレは、無関係なんです」
ロウコは犯人を殺すつもりだ。疑いを解かないと本当に殺されてしまう。
しかしロウコの目的は違っていた。
「知ってるよ。おまえはマリアを殺していない。命は助けてやるが、オレの家族を侮辱した罪は償ってもらう」
家族を侮辱した罪?
髪をつかむ手がわずかにゆるんだ。
「見ろ」
冷酷な声。
顔をあげると、ロウコが次のパンチを繰り出そうと腕を引くのが見えた。
手で頭をかばって身構える。
次の瞬間、これまでにない強烈な痛みが腹部に突き刺さった。頭を殴られるとばかり思っていた。完全に無防備になっていたボディに、ドスンと体重の乗った蹴りがめり込んだのだ。
全身の筋肉が痙攣するような痛み。
息もできない。
まるで焼かれたイカのように、身体を丸まめながらギュウギュウと縮んで、そのまま床に横たわった。
ロウコが部屋を去る。
痛みに耐えていると、だんだん頭がはっきりしてきた。
「マリアが……殺された?」
急病だと聞いていた。たしか一昨日だ。一昨日?
ケイタイで日付を確認する。間違いない。マリアが死んだのは一昨日だ。じゃあ、マリアが吸血鬼になって現れたのはいつなんだ? 毎晩のように現れていたのに……
いやおかしい。オレは夜の仕事だ。昼に寝ている。
そうだ、オレはルア・シェイアに拉致されたんだ。
いきなり屈強な男に囲まれて「一緒に来い」と言われた。拒否しても無駄だ。従うしかない。
ルア・シェイアと敵対したおぼえはない。オレになにか仕事をさせるつもりか? 危険な仕事はごめんだ。上手く乗り切れるといいが。そんなことを考えていた。
車にのせられルア・シェイアのアジトへ連れていかれた。マリアから「絶対に近づくな」と言われていたフェンスに囲まれた一角だった。あそこは怖い所だからと。そうか、マリアはルア・シェイアのメンバーだったのか……
ここから記憶がおかしくなる。頭がぼーっとして眠気におそわれた。たぶん薬だ。出された水に薬を入れられたんだ。
それから怪しげな老婆があらわれて、囁くみたいな声で話しかけてきた。
「おまえは寝ている。視線を感じて目を開ける。女が立ってる。おまえを見下ろしている。知っている顔だ。マリアだ。吸血鬼になって、おまえを呪いにきたんだ」
そんな話を繰り返し繰り返し聞かされた。頭がぼんやりして、とにかく眠かった。
「おい、起きろ」
叩き起こされる。いつの間にか眠っていた。
「指揮官が相談に乗ってくれる。正直に話せよ」
そう言われて、部屋に通された。
ロウコの姿はとても頼もしくみえた。誰よりも強くて優しい。どんな相談でも乗ってくれる。けして裏切らない。男の中の男だと。
「ルア・シェイアにようこそ。オレはロウコ」
握手を求められて、両手で握りかえした。
「ヤザワです。あんたの力を借りたい。実は吸血鬼に襲われていて……」
良かった。これで助かる。オレは安堵した。
やっぱり変だ。ルア・シェイアのロウコといえば、何を考えているかわからない、気まぐれに暴力のスイッチが入る危険な男。だから「狂気」という意味のロウコと呼ばれているのだ。ロウコを頼るなんてありえない。
そうか。すべてわかった。
「催眠術か……」
吸血鬼はいない。そう思い込まされただけ。
マリアは殺されたのだ。その報復のためにルア・シェイアは犯人探しをしている。ロウコはヤザワを疑って、尋問のために薬と催眠をつかったのだ。
騙された。オレがマリアを殺すわけがないのに、勝手に疑って、何度も殴られた。
しかし怒りは湧いてこなかった。
「マリアは殺されたのか……」
ヤザワの目から涙がこぼれた。
尋問を終えたロウコは、後始末を部下に命じて部屋を出た。
頬に当たる風が生ぬるい。長い髪が湿気をとらえ、重くなったように感じる。
変な夜だ。いつもより感覚が鋭くなっている。
見上げると、まるで虫食いの黒布を広げたような空だ。東の方角にひときわ大きな穴があいている。その穴から射しこむ光が大気中の塵芥を反射して、夜の一粒一粒まで感じとれるような、そんな気持ちになる。
不思議な感覚だ。心が昂ぶる。しかし頭は冴えている。
ライバがいなくなった、あの夜と似ている。
自室に戻る前に、教会に寄ることにした。もう一度、マリアの顔を見ておこうと思ったからだ。
まるで眠っているような綺麗な顔だ。夜が明けたら「おはよう」と起きてきそうな気さえする。
ほかの参列者も同じ気持ちなのだろう。呼びかけたら答えてくれるような気がして、みなマリアの名前をくり返し呼んでいる。
「マリア…… ねえ……マリア……」
マリアはロウコより少し年上で、男女の違いもある。親しかったわけではないが、悪ガキだったオレにも姉みたいに接してくれた。オレの誕生日にホットケーキを焼いてくれたことがあった。中学の制服が似あわないと、笑われたこともあった。マリアが、兄のライバを好いていたことも知っていた。
ヤザワという男とつきあいだしたと知って「マリアはあんな男のどこが良いのか?」とライバに聞いたことがある。
「赤ん坊と同じだろ? 女は何もできない生き物の世話を焼くのが好きなんだよ。誰かに必要とされることが、自分の存在価値だと思い込む」
マリアは赤ん坊の世話を焼きたいだけ。おまえに優しくしてくれたのも、赤ん坊みたいに思っていただけ。おまえはヤザワを下に見ているが、おまえも同じだと。そう言ってるように聞こえて腹がたった。
「ねえ、ロウコ」
呼ばれてふりかえる。幼稚園児くらいの女の子。ルア・シェイアの兄弟の子供で、よく知っている顔だ。
「マリアにあげていい?」
草でできた小舟を持っている。マリアの棺桶に入れたいようだ。
近くにいるマリアの母を見ると、このやりとりを見ていたようで「いいよ」とうなずいた。
棺桶の中に小舟を入れられるように、抱きかかえて手伝ってやる。
「マリアはもう起きないの?」
「旅に出たんだ。長い旅に」
死を説明するべきか迷って、そう答えた。
「知ってる。お船に乗ったんでしょ? カミリを迎えに行ったんだって」
「カミリ?」
「カミリは最後のひとりなんだって。タレクが言ってた」
タレク? アラブ系の名だ。身内じゃない。
カミリというのも馴染みのない名前だ。
女の子が外を指さす。
「あそこ、車椅子の」
たしかに、教会のすぐ外に車椅子が見える。角度的に顔は見えない。
「学校の友達か?」
「ううん」
「どこから来たって?」
「タレクは空から落っこちて、足がダメになっちゃったんだって」
心がざわつく。
こんなときロウコは直感にしたがう。教会の外へ出た。
「まてロウコ!」
ロウコの目の前に男が立ちふさがった。
丸顔で背が高く、ガタイがいい。ボラッシャだ。ロウコの部下だが、歳は向こうが少し上だ。ルア・シェイアの兄弟を10人ほど率いている。みなロウコの采配に不満があるようだ。顔を見ればわかる。
車椅子の子供はあきらめて、ボラッシャの相手をすることにした。
「なぜ敵を討たない?」
「あいつはマリアの敵じゃない」
ロウコはボラッシャの目を見て答えた。
「か、関係ない。やつはクソ野郎だ」
「そうだ。許す必要はない」
血気盛んな連中だ。仲間の敵討ちをしなければ気がすまない。公平な裁判なんか期待していないのだ。
そもそも薬と催眠を用意したのは、ヤザワを有罪にするためだ。殺しの犯人でなくても、マリアを玩具にしていた男だ。許す必要はない。無理やりにでも「自分が殺した」と自白させて、ヤザワを有罪にしてしまえばいい。やられたらやり返す。殺されたら殺す。それでルア・シェイアの面目はたもたれる。誰も口にしないだけで、そうやって手間を省くのが暗黙の了解だったのだ。
しかしロウコは「ヤザワは犯人じゃない」と計画を変更した。あくまで真犯人を探す。ヤザワから情報を引き出すための計画だったが、仲間の理解は得られなかったようだ。
この兄弟たちは「またディレトルの気が触れた」と思っているのだ。催眠をつかって無罪を確認しても、誰も喜ばないのに。
「ライバなら、こんなことはしなかった」
そうかもしれないな、とロウコも思う。
でもオレはライバじゃない。ロウコだ。
「安心しろ。オレに喧嘩を売ったこと、必ず後悔させる」
ロウコがそう言うと、みな黙ってうなずいた。
「どうやって?」
「秘密の計画がある」
ボラッシャの質問にそう答えたが、本当は計画なんかなかった。
ロウコは直感で動く。このときも鼻の奥がムズムズするような、わずかな臭いを感じていた。
まだ小さな違和感でしかないが、この臭いの先に何かある気がする。
理屈じゃない。言葉にもできない。他人には説明できない。理解もされない。いつものことだ。
「それよりおまえら、車椅子の子供を見なかったか?」
みな首を横にふる。
「車椅子?」
怪訝そうな顔。
「ついさっき、ここにいたはずだ」
「ここに?」
ボラッシャが首をかしげる。
「中から見たんだ」
「見間違いじゃないのか?」
ボラッシャたちはロウコと話すため、教会の前で出てくるのを待っていたのだという。嘘ではなさそうだ。
「またはじまった」
誰かのささやく声が聞こえた。なるほど、またオレが狂ったと思っているのか。
ひとまず無視する。
「車椅子の子供を見かけたらオレに報告しろ。他の兄弟にも伝えろよ」
そう命令してボラッシャたちと別れた。
「ライバがいれば……」
去りぎわに背中で聞いた。
「ハハハ」
なぜだろう。愉快でたまらない。
あの日、どうしてライバが消えたか、オレは知っている。オレだけが知っている。
それを話したところで、誰も信じないだろう。
この歪んだ世界をありのままに受け入れなければ、真実を知ることはできない。
誰もが見たいものを見て、聞きたいものを聞く。感じたいように感じている。印象だけで世界を切りとっている。
見ろ。空の穴から光が射しこんでいる。光の波が、夜の粒子と混ざり合う。世界の輪郭が溶けていく。
「オレだけが特別なんだ」
気分が良い。
こんな夜は、見えるものすべてに手が届くような気になる。不可能はない。
さっき感じた臭いの正体も、だいたいわかった。理屈で説明できないが「こいつをぶん殴れ」と囁く声が聞こえる。それで事件は解決するだろう。
ロウコが部屋にもどる。
「……ようするに、この計画っていうのは尋問のシナリオ。虚言ってこと」
「じゃあ、本当に吸血鬼が真犯人だと思ってるの?」
「さあ? オレもさっき聞かされたばかりで、ちょっと信じがたい話だと思っていたけど……」
ニャベンタの声が聞こえる。オンナの声もだ。猿ぐつわをして出たはずなのに。二人で喋っている。
リビングに入ると、ニャベンタは会話を中断して「おかえり」と言った。
見ればオンナの手錠は身体の前側になっている。猿ぐつわも外され、かわりに目隠しがされている。ずいぶんリラックスした様子だ。
「なんだこれは?」
「色々だよ。試行錯誤の結果だ」
眼鏡のせいで表情は読めないが、ニャベンタに悪びれる様子はない。
「なにを喋ってた?」
「こっちの事情はだいたい」
「喋っていいと言ったか?」
「喋るなとも言われてない。どうせ話すだろ?」
ロウコがため息をつく。ボラッシャだけじゃなくニャベンタまで、ディレトルの方針に不満があるようだ。
「で、オンナの話は聞いたのか?」
「まだなにも」
「なら尋問だ」
ロウコは椅子をつかんでオンナの前に置くと、それに座る前にオンナの顔面を殴った。完全な不意打ちだ。オンナの身体が床に転がった。
ロウコはゆっくりと椅子に座る。
オンナは黙って上体を起こす。腕がガクガクと震えている。強いダメージを受けると脳はアドレナリンを急速に分泌する。心拍と血圧が上昇して、過剰に興奮した筋肉がガクガクと震えるのだ。
さて、ロウコとニャベンタは尋問のプロだ。ギャングのトップにノルマのような仕事はない。仲間からの相談、情報収集、喧嘩の仲裁といった「人から話を聞く」ことが仕事の大半となる。会話で情報を引き出すのが仕事、つまり尋問のプロだ。そして意外かもしれないが拷問はやらない。プロだからこそ、尋問中に暴力をふるったりはしないのだ。
人間は嘘を言うときストレスで心拍や血圧が上がる。嘘を隠そうとしても、声が震えたり呼吸が荒くなる。そこを観察すれば嘘を見抜くことができる。なのに暴力でダメージを与えてしまうと、嘘とは無関係に心拍と血圧が上がってしまう。真実を喋っても声が震えるので、嘘をつきやすくなってしまうのだ。
効率よく尋問するなら、まず相手をリラックスさせる。ヤザワを尋問したときのように、仲間みたいに会話して安心させる。そこでキーワードを小出しに聞かせたり、ふいに「おまえが殺したのか?」と質問をして、動揺していないか観察する。暴力をふるうのは尋問が終わった後だ。
それに無意味な暴力で相手を怒らせると、仕返しに嘘をつかれる可能性がある。そしてこの嘘は見抜くのが難しい。暴力のダメージで声が震えているのか、区別がつかないからだ。プロなら絶対にさける非合理なのだ。
まさしくこのとき、オンナは理不尽な暴力に怒りをおぼえていた。
ニャベンタは驚いたが、あえて何も言わなかった。長いつきあいだ。ロウコを信頼している。
するとロウコはオンナに向かってこう言った。
「さっきはもっと闘志を感じたが、いまは腑抜けて見えるぞ。どうした?」
そんな理由で殴ったのか?
いかれたヤツ。
そう思ったが、オンナの心に復讐の火が灯った。ギャングの縄張りに単身突入した理由を思い出したのだ。自分を殺した吸血鬼と、自分を売った元恋人を探し出す。それが目的だ。
ルア・シェイアはマリアを殺した犯人を探している。犯人には吸血鬼の疑いがあるようだ。わたしとロウコの目的は同じかもしれない。
このロウコという男は最悪だが、それで構わない。恋人や友達にするわけじゃない。この力を利用できるなら、むしろ頼もしいくらいだ。
オンナは壁に体重をあずけて座りなおすと、深呼吸して震えをおさえる。
「どうぞ」
落ちついて言ったつもりだったが、声はまだ震えていた。