第1話 咬傷死体
奇妙な死体が出た。
まだ若い。十代の女性だ。昨日まで元気そのものだったのに、急に死んでしまった。なんの予兆となく、唐突に息絶えたのだ。
父親は救急に電話すると「ゲームの即死魔法みたいに急に倒れた」と言った。
母親は娘が倒れた瞬間を「死神のノートに名前を書かれたみたい」とふり返る。
医師の診断は急性の心筋梗塞。
これだけでも奇妙だが、その遺体の首すじには咬傷があった。牙で噛まれたような傷だ。
「まるで吸血鬼にやられたみたいですね」
若い研修医がそういった。
ベテランの医師は笑う。
「キミは咬傷が死因と関係あると思うのか?」
首すじの傷は浅い。軽く出血したくらいで死亡原因とは思えない。
「ないです。トロポニン陽性。それに心筋の壊死。心筋梗塞です。ほかに外傷も無いですし、首の咬傷は友人と悪ふざけしたとか、性行時についたと考えるのが自然です。なんですけど、さすがに不気味じゃないですか? 今日だけで三人っていうのは」
心筋梗塞で死んだ若者が三人。
三体の咬傷死体だ。
「偶然だろ?」
「でもなんか……」
「気にしてたらきりがないぞ。昨日ガンで入院した患者も、水子の祟りだって騒いでたろ」
「それなんすけど、水子ってなんですか?」
「流産や人工中絶で死んだ胎児のことだよ」
「ああ。殺しちゃった我が子の呪いで病気になったって思い込んでるんすね」
「よくある話さ」
病院は生死に関わる場所だ。死を目前にした人は「納得できる理由」を探したがる。そして「霊だ」「祟りだ」と言い出すのだ。
しかし研修医は納得しない。
「でもっすよ、こんな遺体はあんまりないと思うんすよね。まだ18歳。それが三人でしょ?」
医師はため息をつくと、こう言った。
「あるんだよ」
「え?」
「この街ではよくあるんだよ。原因不明の突然死って運ばれてくる。死因は急性の心筋梗塞。首すじに咬傷がある。被害者は18歳か19歳の女性。一日に六人ってのもあったな」
「それって、本当にいるんじゃないですか? 吸血鬼じゃないにしても、連続殺人みたいな」
研修医の瞳が輝いている。
「キミね、調べてみようとか考えるんじゃないよ。それは医者じゃなくて警察の仕事だよ」
「でも人が死んでるんすよ? 親御さんの気持ちを考えたら、無視はできないっすよ」
医師は再びため息をつく。
「ならひとつ昔話をしてやるよ。もう5年くらい前になるかな。オレの同僚で、仮にAさんとしよう。Aはこの不審死を個人的に調べることにした。もちろん連続殺人を疑ってたわけじゃない。心筋梗塞を引きおこす、未知の感染症なんかを疑っていたみたいだ。だから感染経路だな、患者が死ぬ前の行動を調べてたんだ」
研修医は大人しく話を聞いている。
「Aはあるナイトクラブに目をつけた。被害者の数名がそこに行ったようだった。オーナーに連絡して、営業していない昼間に中を調べさせてもらえることになった」
狭い階段を降りて、重い扉を開ける。待ち合わせをしていたオーナーは、Aにむかって「キミは誤解している」と言った。
「葦船の会は何も隠していない。希望すれば説明するし、入会も受け付けている」
Aにはその言葉の意味がわからなかった。ただ、なんとなく嫌な予感がした。考えごとをしながら道を歩いていて、ふと気がついたら見知らぬ道を歩いていたような焦燥感におそわれた。
オーナーがダンスフロアにつづく扉を開ける。薄暗い照明のガランとした部屋。窓のない地下室に充満した酒の匂いがする。
その瞬間、子供の頃の記憶がフラッシュバックした。裏庭の石を動かしたら、その下からムカデやダンゴムシが這い出てきた記憶だ。
おぞましい気配を感じる。昼の太陽から隠れて、この小さな地下室で「夜」に包まれ、息を潜めている怪物の気配だ。
そして、目の前に怪物が現れた。
「紹介しよう。ムリイカだ」
月の光のように白く、怪しいオーラのある人物だった。美しいが、男か女かわからない。年齢も不明だ。
「ムリイカさん?」
ムリイカがうなずく。よくわからないが「どうも」と軽く挨拶をした。
するとオーナーが「お礼をいいたまえ」と言うのだ。
「これからムリイカが教えてくれる」
教えてくれる?
ポカンとしていると、今度はムリイカがこう言った。
「この娘には、ムンバウズの葦船に乗ってもらう」
無機質な声。
ムリイカが背後を指す。フロアの中心には寝台が置かれている。誰かが寝ている。
Aの娘だった。
小学校へ行っているはずの娘が、なぜここに?
娘の首すじには、咬まれたような傷があった。
Aは混乱してあたりを見回す。クラブは閉店時間のはずなのに客がいる。顔をマスクで隠した客がフロアの壁沿いに5人、中央の寝台を見守っている。オーナーも仮面を被って、見物の列に加わった。
嫌な予感がする。
ムリイカが船を持ってきた。枯れ草を編んで作った船。子供が小川に浮かべて遊ぶような簡単な船だ。
その船を、娘の腹の上に置いた。
ビクビクと娘が痙攣する。目、耳、鼻、口の穴から黒い霧のようなものが漏れ出ている。足の間からもだ。
「うあああああああああ!」
叫びながら娘に突進し、腹の上から葦船を叩き落とした。船が床に落下するとパチャンと音がして黒い水しぶきがあがった。どこにも水なんか存在しないのに。
「やめてくれ! やめて、殺さないでくれ。許してくれ。娘は許してくれ。なんでもする。なんでもする!」
ムリイカに縋りついた。
ジョークやトリックを疑う気持ちはなかった。これは危険な儀式だ。絶対にヤバい。
娘の身体はまだガクガクと痙攣している。
「安心しろ。生贄は若すぎてもいけない」
その言葉に身体が勝手に従ってしまう。急に心が冷えて、手足が重く感じる。ヤバくない、大丈夫です。安心しました。
ムリイカはうっすら笑っている。瞳は赤い。木炭の熾火のように、ジリジリと赤く輝いて見える。不思議な瞳だ。
目が離せない。心が奪われる。焚き火を囲んだ夜のように、静かな気持ちになる。
生贄。死んだ女たちは生贄だった。殺したのだ。
被害者は決まって18歳か19歳の女性というのを思い出した。この年齢に意味があるのだ。娘はまだ小学生、だから若すぎるのだ。
なぜ、そんなことを?
いったい何が起こっているんだ?
「だから、それを教えてやる。生贄の御霊は肉体を離れ、ムンバウズの葦船に乗った」
ムンバウズの葦船?
「そうだ。おまえの娘には、葦船を見に行かせている。御霊はすぐに戻る。むこうで何を見たのか、話を聞けばすべてわかる」
どうして?
オレの娘が?
「おまえが知りたいと言ったからだ」
オレが不審死を調べたいと言ったから?
クククとくぐもった笑い声。仮面の見物人たちが笑っている。
そしてゲホゲホと娘がせきこんだ。
目を覚ましたんだ。
ムリイカの言った通り、娘は大丈夫だった。
感謝の気持ちが湧いてくる。
娘を抱き寄せる。
真っ青な顔。身体はまだブルブルと痙攣している。
娘の名前を呼びたかったが、声が出ない。
かわりにムリイカが娘に聞いた。
「船は何艘あった?」
娘は答えない。目から涙がボロボロとこぼれた。
「葦船はいくつあった? 3か? 4か?」
ふたたびムリイカが問う。
「どうした、早く答えなさい」
ムリイカを待たせてはいけない気がして、娘をせかした。
娘が口を開ける。
「ハッ…ヒッ…ハヒッ…」
しばらく空気だけが漏れ、息を吸って、また空気が漏れるのを繰り返していた。
それから大きく息を吸って。
「アああアアああああアあああアアああ」
まるで警報のサイレンのような絶叫。
気が狂ったみたいに泣き出したのだ。
「いや、大変だったよ。あまりの恐怖で心が壊れてしまったみたいでね。でも4艘だった。みんな喜んでいたよ。それが今はもう6艘だ。あと1艘でムンバウズの葦船が揃うんだ」
そう言うと、医師は黙ってしまった。話はこれで終わりのようだ。
いつも頼りになるベテラン医師だったのに、いまは別人のように虚ろな表情をしている。悪い夢の中に心を置き忘れてきたような顔だ。
「えっと…… その…… なんていうか」
研修医は反応に困る。
「ジョークだよ。ジョーク。なんだ? ビビッたのか? 嘘に決まってるだろ」
変に明るい声で笑った。
ただの嘘とは思えない。咄嗟にひらめくような話じゃない。不条理がすぎる。それに、いくつか腑に落ちることがある。
この医師がいつも身につけているペンダントだ。納豆を包む藁の束みたいなデザインだと思っていたが、そうじゃない。あれは葦船のペンダントだ。食前に祈っていた。
それに娘だ。高校生。白杖をついていた。5年前に「事故で両目を失明した」と言っていた。
すべてが繋がるような気がする。
しかし、これ以上は知りたがってはいけない。そんな気がするのだ。
「なんだ、ジョークだったんですね。いやー、ビビりました。正直、チビるかもって。ハハ。遺体の前で怪談なんて、ヤバすぎますよ。ハハハ」
それでもこの研修医は、ただ沈黙していることはできなかった。自分の胸にだけしまっておくことはできなかったのだ。
ネットのとある心霊系の掲示板にこう書いた。
「浜津市で医者をやってる。若い女性の心筋梗塞。首すじに咬傷あり。今日だけで3人も。なんか怖い」
ひとりだけなら偶然かもしれないが、今日だけで3人だ。絶対におかしい。
だが研修医は知らなかった。咬傷死体は3つだけではなかったのだ。
最終的に警察が確認したのは6人。
警察にも知られず死んだ女もいた。
そして、そのうちのひとりが目を覚ました。