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孤独であるがゆえにヒーロー

作者: 綿柾澄香

 ついに四十になった。

 結婚はしていないし、子供もいない。


 両親は最近他界した。


 きょうだいもいないし、親戚付き合いもないから、俺に身内はひとりもいない。仕事先でも友人と呼べるような相手もいないし、ご近所付き合いもまったくない。


 つまり、明日、俺がこの世の中から消え去ったとしても、誰も悲しむ人がいないということ。


 なにかを成し遂げたわけでもなく、なにかを残せたこともない。この世界に俺の生きた証を残すことなんて叶わず。この先も今まで通り、なにも変わらずに生きていけばきっと、俺はこのままひとりきりだ。


 孤独で、(おぼろ)で、(うつ)ろで、曖昧(あいまい)で、空っぽで。

 なにも残らない人生。


 それはつまり、俺の命に価値はない、ということを意味する。

 無価値で無意味で無益(むえき)で無駄で無味無臭(むみむしゅう)で毒にも薬にもならない塵芥(ちりあくた)


 ――ならば。


 それならば、俺はスーパーヒーローになろう。

 と、そう決意したのだ。


 価値のない俺の命なんて、いくらだって賭けられる。

 この無価値な命で世界を変えられるのならば、安いものだろう?


 だって、もともと無価値なのだから。価値のないものを利用して、価値のあるものを救うことができればそれ以上ないくらいに最高のコストパフォーマンスじゃないか。そして、もしもそれが叶わずにすべてが終わってしまったとしても、ただ無価値な愚か者がこの世界からひとり消えるだけ。そこにリスクなんてものはない。


 そしてかすかな可能性だけれども、もし仮にたったひとりだけでも人を救うことができて、その人の人生を変えることができたのならば、なにもない、からっぽの存在だった俺の人生にも意味があった、と言えるようになるのかもしれない、なんて期待も少しはあった。


 ――だから、俺はスーパーヒーローになるんだ。


 それからは日々ただ善き行いのための積み重ね。困っている人を見かけては声を掛け、手伝い、空いた時間にはただひたすらに身体を鍛えた。困っている人なんて、そうそう見つかることもないし、ほとんどはただ筋トレを続けるだけの日々だったけれども。


 もちろん、普通の人間がどんなに体を鍛えたところで、超人的な肉体を手に入れることなんてできないだろう。ましてや、四十代に差し掛かった人間の肉体なんて、もはや下り坂だ。


 こんなものはただの徒労で、自己満足に過ぎない無駄な行為。

 の、はずだった。


 ある日、目の前にひとりの少女が現れるまでは。


 それは夕暮れ時、空はたそがれ色。雲ひとつないのに、どこからか遠雷が鳴り響く河川敷の歩道だった。


 いつもならば、下校する近所の高校の生徒や、散歩やランニングをする紳士淑女が多く行き交い、いろんな人々とすれ違うはずこの場所で、その瞬間だけはなぜか、人っ子ひとりいなかった。


 目の前に立つ少女を除いて。


 まるで、この世界に俺と、その少女しか存在しないみたいに、嘘みたいに空虚な空間。すぐ横を流れる一級河川の流れまでもが止まってしまっているように見える。


 そんなところで出会った少女が平凡な人間でないことは明白だろう。


 ――その正体は神か、悪魔か。


 彼女は無邪気に微笑んでみせて、一歩俺に近付く。


 ――魅力的な笑顔が得意なのは悪魔だったか。


 俺は、そのあまりに現実離れした光景に眩暈を覚えそうになる。けれどもそんなものはお構いなしに少女はさらに一歩踏み出す。


 遠雷が鳴る。


「やあ、はじめまして」


 と、少女は右足を引いて履いてもいないスカートを持ち上げるような仕草をしてみせる。舞台役者が閉幕後に挨拶をするような、大仰な仕草。


 それがあまりに堂に入っているので彼女の年齢がわからなくなる。普通にその容貌を見れば十五、六歳といったところだろうけれども、その所作が加わることで、成熟した大人のヴェールを羽織ったように見える。


「知ってるよ。ねえ、きみ。ヒーローになりたいんだろう?」


 なんの前置きも口上もなく、彼女は突然そう言い放つ。誰も知らないはずの俺の願望を晒しながら。


「どうしてそれを?」


「それくらい知ってるさ。僕はきまぐれな神様みたいなものだからね」


 と、少女はカラカラと笑う。魔的に美しく整った容貌から発せられる『僕』という一人称も、なぜか違和感はなかった。それよりも、きまぐれな神様、というワードのほうが気になった。


「神様?」


「みたいなもん」


「それは神様じゃないってこと?」


「だから、みたいなもんだって」


「じゃ、悪魔とか?」


「ひどいな。でもまあ、悪魔みたいなもんでもあるかもしれない」


 なんて、曖昧(あいまい)飄々(ひょうひょう)と答える。自身の正体を明かす気なんて毛頭ないのだろう。結局、彼女の正体がなんなのかはわからない。けれどもまあ、彼女が神様であっても、悪魔であっても、そう大差はないか、と、特に気にもならなかった。


「で、その神様や悪魔みたいなキミが俺にいったいなんの用なんだ?」


 そう訊ねると、少女は小さく頷く。


「うん、ちょっとね、キミに興味があるんだよ」


「俺に?」


「そう、キミに」と、少女は両腕を後ろで組む。「キミはさ、どうしてヒーローになりたいの?」


 それは、あまりに下らない理由だ。とはいえ、目の前の少女をそれを知りたいという。ならいいさ。べつに減るもんでもないし。


 と、俺は彼女に向けて端的に語る。


「たいしたことじゃないんだよ、本当に。ただ、俺は孤独だっただけ。孤独だったから、己の存在に価値を見出せなかった。だから。だから、人助けを始めたんだ。無価値な俺が、価値ある命を救えたのならば、それは最高の結果だろう?」


 そう言い終えると、少女は「はっ」と短く息を吐いた。それはあまりにも愚かな俺をバカにした嘲笑か、それとも道化を前に思わず漏れた愉快な笑みか。彼女の表情を見るに、どうやらそれは後者らしかった。


「はは、なんだそれ。自分の命は無価値であると認識していながら、なおかつ絶望するわけではなく、それを有効活用しようとするだなんて、お前、クレイジーだよ」


「そうかな?」


「そうだよ。どうせ死刑にするのなら、その死刑囚で存分に人体実験して命を有効活用してやろう、と目論むマッドサイエンティスト並みに狂っているよ、お前は。しかもその実験に使用する命は自身のものときた。マッドサイエンティスト以上にマッドだよ」


 そう言われればそうか、と思わなくもない。けれども、悪いことをしているわけではないのだから、少なくとも彼女の挙げた例ほどひどくはないはずだとは思うのだけれど。


「でも、どうしてそんなことを聞くんだ? キミは神様みたいなものなんだろう? ならそういった俺の事情もわかるもんじゃないのか?」


「言ったでしょう? みたいなもん、って。完全な神様ってわけじゃないんだから、知らないことだってあるさ」


「俺がヒーローになりたいって知ってるのに、ヒーローになりたい理由は知らないのか?」


「だって、ヒーローになりたいって下手くそな文字を自分ん家の部屋の壁にバンと張り付けてるじゃないか。あんなものは見ればわかるでしょうよ」


「あ……」


 そうだった。ヒーローになると決めたその日に、小学校低学年の時に得た書道四級の腕前で『目指せ、ヒーロー!』と目標を書き上げて部屋の壁に貼り付けたのだった。


 そういった、目で見てわかるものならば、たとえ室内のものであっても知り得るけれども、人間の心の中のような、見えないものに関しては把握できない、というのが彼女の力の範囲ということなのだろうか。


「で、キミは結局なにがしたいんだ?」


 そう訊ねた俺に、少女は待ってました、と言わんばかりに破顔する。


「僕はね、キミの願いを叶えてあげようと思うんだ」


「俺の願いを……」


 それはつまり、ヒーローになりたい、という自分でもどうかと思うくらいに子供じみた願いのことだろうか、と思わず首をかしげてしまう。


「……でも、どうして?」


 と、そう問いかけてから、彼女が本当にその願いを叶えることができる力を持っている、ということを疑っていない自分がいたことに気付く。それが可笑しくて、思わずふっと笑ってしまう。そんな俺を無視して、少女は口を開く。


「キミに興味があるんだよ。四十を過ぎて、これまでに成し得た功績も、残したものもない、自らを無価値と言い切り、それでもヒーローになろうとした。そんなキミが本当にスーパーヒーローのような力を得て、行動を起こせば、世界はどうなるのか。なんだか面白そうじゃないか? ま、純粋に好奇心ってやつだよ」


「なるほど。で、それを望めば俺は力を得られる、と?」


「そ、僕にはその力がある。嫌なら無理強いはしないけどな」


 そう言って、少女は右手を差し出す。その手を取るということは、彼女の提案に乗るということなのだろう。それは、神の思し召しか、悪魔の誘惑か。


 彼女の目を見る。


 少女は変わらずに微笑みを浮かべたまま。それを見て、俺はどうするべきか? なんて、自問自答するまでもなかった。


 これが、少女のただの悪戯ならば、それでいい。ただ哀れな大人が子供にからかわれただけのこと。もしも彼女の言葉が本当で、俺に力が与えられるのならば、それもいい。むしろ、そうなれるのならば本望だ。その力で、本物のヒーローになってみせる。


 強いて悩むことがあるとするのならば、そこにリスクがあるかどうかだった。彼女が神であろうと、悪魔であろうと、その取引になんらかの代償を必要とするのならば――たとえば、力と引き換えに魂をよこせ、なんて言われれば、少し考えなければいけない。だって、せっかくの力を得ても、自分が自分でなくなってしまうのならば、意味がない。その力で人々を救いたいのに、自我を失い、暴れ回るような自分になってしまえば本末転倒だ。


「ないよ、そんなものは」


 そんな俺の心を見透かしたように、少女は言う。そんなもの(リスク)はないよ、と。彼女は人の心までは読めないんじゃなかったか、と思ったけれども、こんな状況で悩む人間の思考なんて、考えるまでもないくらいに明白か、と自己解決して納得してしまう。


「はっ」


 と笑ってみせたのは、せめてもの強がりか、それともすべてがどうでもよくなった自暴自棄の発露か。


 まあ、そんなものはどちらでもよかった。


 いいさ、彼女の言葉を信じよう。どうせこのまま生きていたってジリ貧で、なにも残せずに死に行くのだろうし。ならば、彼女の言葉に乗らない手はなかった。リスクも、あったらあったで、その時に考える。


 そう自分自身を鼓舞してそっと手を伸ばす。そして、少女の手を取る。


「ああ、いいね。そうこなくっちゃ」


 少女はそう呟いてニタリと笑って、俺の手をぐっと握り返した。

 その瞬間、契約は交わされたのだろう。


 さっきまで遠くで鳴っていたはずの雷鳴がすぐ近くで轟いた。


 その音に驚いて、またたきをした次の瞬間にはさっきまで人っ子ひとりいなかったはずの周囲に多くの人々が現れ、少女は消えていた。直前に轟いた雷鳴が嘘のように空は晴れ渡っている。右手は彼女の手の感触を残したまま虚空を掴んでいた。


 まるで、狐にでもつままれたような気になるけれども、その手に残った感触が、少女との出会いが夢ではなかった、と証明している。


 その手を開いてみる。


 そこには、いつもと変わらない自分の手のひらがあった。けれども、そこにいつもとは違う予感があった。手の平、指の先を流れる血管の中の血液。その脈動を力強く感じる。いや、それどころか細胞の一つ一つが蠢くのがわかる……ような気がする。


 顔を上げる。


 そこを行き交う人々がいる、というのは特別な光景ではない。ただ、俺の目にはいつもと違って見えた。人々の表情はやけに鮮明に目に飛び込んできて、莫大な情報量が脳内に溢れる。


 その情報は視覚からだけではなく耳からも。人々の歩く靴音だけではなく、その関節の軋む音、筋肉のしなる音、風に揺れる草木の一本一本の音に、川を流れる水の音、そしてその川の中を泳ぐ魚が水を切る音までもが聞こえてくる。


 ありとあらゆる音が濁流のように流れ込み、あまりに膨大な音の重複は、やがて無音へと変わっていく。


 明らかにこれまでとは違う感覚が全身を覆っている。鋭敏すぎるほどに研ぎ澄まされた五感。それは、異常ともいえるほどの精度で脳内に圧縮されていく。けれども、それによって脳の容量があふれ返るわけでもない。脳の機能までもが向上している。


 ――今ならば。


 と、不意に根拠もなく()()()、という確信が胸の中に飛来する。


 ぐっとかがみこみ、両脚に力を込める。あとはただ単純にそのエネルギーを発散させるだけ。そうして俺は――


 そうして俺はまるで本物のヒーローのように空を舞う。


 いや、その日、俺は本物のヒーローとなったのだ。少女から与えられた力は、俺をまさにスーパーヒーローにした。


 音速を遥かに超える速度で空を飛び、肉体は弾丸をも弾き、拳を振るえば海を割る。その超パワーで実際に多くの人々を救えるようになり、気が付けば俺は原初にして唯一無二のヒーロー、ザ・ワンと呼ばれるようになり、崇め奉られるような存在になっていた。


 これが俺がヒーローとなったいきさつだ。

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