3話
「リオール、貴方、恋人はいないの? テレーサ以外で」
チェルナはリオールに尋ねた。
彼は眉をしかめて答える。
「僕は君と婚約しているんだ。君以外に恋人がいるはずないだろう」
「それは……私は、婚約を解消してほしいと手紙を送ったでしょう?」
「婚約解消は君の一方的な意見だ。二人の合意ではない。僕との婚約が解消されたと思っているなら間違いだよ、チェルナ」
「でも、私は婚約解消を望んでいるのよ、リオール・ダンフォード。婚約が解消されていないとしても、継続が難しい状況であるのは間違いないわ」
「僕はそれほど難しい状況だとは思わないね」
チェルナは焦っているのに、リオールは落ち着いた口調で返す。悪女の噂を知らないから仕方がないとはいえ、その余裕な態度は憎らしく感じるほどだ。しかし、ここで長々と語り合って他人に噂のネタを提供している場合ではない。
以前は対応に手をこまねいて手に負えなくなってしまったが、今度は早く手を打たなくては。覚悟を決めて、チェルナはリオールとの話を切り上げにかかった。
「送ってくださってありがとう。今日は疲れたので、もうお暇するわ。ごきげんよう、リオール・ダンフォード」
チェルナは彼に別れの言葉をかけた。二人の前方には玄関が見えている。とにかく馬車に乗り込んで、それから落ち着いて考えようと思った。
テレーサの今後の言動は気になるが、チェルナが姿を現さなくなれば、彼が悪く言われることはないはずだ。何と言っても、彼はダンフォード家の次男だから。ダンフォードはクインソー家よりやや上の家格なので、テレーサでもリオールを怒らせることまではしないだろう。ところが、リオールがチェルナを庇うような発言をすれば話は別だ。聡明なダンフォードのリオールではなく、悪女チェルナに絆された愚かなリオールになら、正気に戻すためと称した誹謗中傷偽証などなど何でも正義になりかねない。
ブツブツと考えながら馬車へ急ごうとするチェルナの腕をリオールが掴み、引き留めた。
「話はまだ終わっていない」
「今日はもう疲れたわ」
「では、送っていこう」
「送迎の馬車があるから、送らなくて結構よ」
チェルナが腕を払おうとしたが、ビクともしない。強く掴まれているわけではないのだが。
リオールもさすがに機嫌を害したのか、やや口調が素っ気ない。
「何処に泊まっているんだい? 近頃は王都に来ても義姉達のところには滞在しないそうだね」
「どこだって構わないでしょう?」
「言わなければ、このまま僕と一緒にダンフォード家に連れて行く。義姉エティナは君が他所に泊まるのを心配していたから、きっと喜んでくれるだろう」
リオールは少しも手を緩める気がないようだった。
まさか他家のパーティーで強引なことはしないとは思うものの、ダンフォード家に連れて行かれたくはなかった。姉に会って余計なことを喋るのは避けたい。
できれば早めに王都での用事を済ませて領地に引きこもりたいチェルナは正直に答えた。
「セントアン・ホテルよ。エティナ姉様が心配するような場所じゃないわ」
「まだ話したいこともある。そうだな、明日、ホテルを訪ねるよ。もちろん歓迎してくれるだろうね、チェルナ・ビスコーテ?」
「明日はお茶会に招かれているの。だから」
「僕もそのお茶会に出席する。君をエスコートするなら、構わないだろう?」
「構うわよ! そんな突然、主催の方に迷惑だわ」
「僕なら歓迎されるよ。それは君もわかっているだろう?」
「っ……」
「では、また明日。お休み、チェルナ」
「……また明日。おやすみなさい」
チェルナが了解の態度を見せると、リオールは腕を離して彼女の手を取りキスをした。
彼に見送られてホテルの馬車に乗り込む。彼は彼女の乗った馬車が走り去るまで見守っていた。
揺れる馬車の中で、チェルナは座席に背中を預けた。ガタガタと馬車の揺れにあわせて身体もぐらぐらと不安定に揺れる。ホテルに戻るだけなので、もう髪が少しくらい崩れてもかまわない。揺れるにまかせた。
リオールとのことを思い返すと、ため息が漏れた。再悪女騒動を防ぐ対策を考えなくてはと思うものの、やはりリオールと七年ぶりに逢ったことは大きな衝撃で、混乱して興奮もしていた。
彼がすっかり大人の男性になっていて、しかも、チェルナ好みの庶民くささの滲む容姿とは反則だと思った。彼女は上品で洗練された貴族男性より、庶民的な逞しい男性が好みなのである。それでいて、
『僕なら歓迎されるよ。それは君もわかっているだろう?』
という、そうされて当然と疑わない彼の発言。身分の高い家ならではの不遜な様子には、思わずクラっとした。とても悔しいが、テレーサや悪女騒動など一瞬で消し飛んだほどだ。
チェルナはどうしたいのかを自問した。どうするべきか、ではない。自分がどうしたいか、答えは、リオールにまた会いたいということ。
少し前までは、一刻も早く領地に戻って騒動にならないうちに社交界から遠ざかるべきだと考えていた。明日のお茶会も欠席する旨を伝えて、リオールが来る前にホテルをでるのが最善だと思っていた。
しかし、そうするとリオールには会えない。次に会えるのはいつになるかもわからないで…。
「明日、リオールがホテルに迎えに来る前に領地へ戻るべきよ、チェルナ・ビスコーテ。私は他人の婚約者や恋人を好んで奪うような悪女なのよ? リオールが婚約者を蔑ろにして悪女と浮気するような不誠実な男と笑われ貶められてもいいの?」
チェルナは声に出して自分に問いかけた。
彼がリオールと知らない時は、好みなのにと思いながらも彼とこの場限りとなることに迷いはなかった。リオールがチェルナの腕を掴んで引き留めるまでは、残念だけど騒ぎに巻き込まれるのを避けるために彼と距離を置く選択ができたと思う。
でも、今その選択はない。
チェルナはこういうスイッチの入り方をする時が以前もあった。自分を一番可愛く見せるドレスがほしいと思った時、貧乏なビスコーテ家を建て直そうと思った時、リオールと結婚の約束をしたいと思った時など。強く興味を魅かれたら、それに夢中になってしまう。
チェルナは車窓からホテルのアプローチに馬車が入っていくのを眺めながら呟いた。
「リオールが迎えに来るのに、逃げるのはないわ」
ホテルに戻った後、チェルナはいそいそと明日のための衣装を選びなおすことにした。静まりかえった夜だというのに迷惑な話である。
翌昼過ぎ、セントアン・ホテルにリオールが迎えに来た。
報せを受けて、チェルナは美しいドレスに身を包み、ロビーへの階段をゆっくりと降りる。
ロビーには宿泊客の他に、訪ねてきた人もいて人が多い。その中に、茶髪で体格のいいリオールが立っているのを見つけた。何気ないのだが、その立ち姿は目を引く。
実際、彼に視線を送っている女性が二組ほどいるのに気が付いた。お近づきになりたいとソワソワしている様子が手に取るようにわかる。しかし、既知でない身分の高い人物に直接声をかけることはできない。そこで諦めて眺めるだけで終わるか、アクシデントを起こして話すきっかけを作るのかは人それぞれ。
チェルナが自分ならと想像しながらロビーに降り立つ頃には、リオールが彼女の前で手を差しのべていた。
「迎えに来たよ、チェルナ・ビスコーテ嬢。昨夜のドレス姿も美しかったが、今日のドレスも本当によく似合っている。とても綺麗だ」
「リオール・ダンフォード様、迎えに来てくださってありがとう」
チェルナは彼の手に自分の手を預ける。羨ましそうな女性の視線を受けながらリオールに答え、ホテルの外へと向かった。
今日のお茶会が開かれる屋敷はホテルから近いため、馬車ではなく徒歩で行くことにする。
「このドレス、エティナ姉様が贈ってくださったのよ。お姉様がデザインしたドレスは本当にいつも素敵。布を選んでくださるのは、お義兄様だったかしら? お姉様にもお義兄様にもとても感謝しているわ」
ホテルの前の大きな通りは人通りも馬車も多い。昨夜とは違い明るい騒々しさの中、二人は話しながら歩いた。
チェルナは自分の悪女の噂について話すきっかけを探そうとしたが、なかなか切り出せない。リオールとの会話が楽しく、わざわざ暗い話をするのもと思ってしまったためだ。
「そのドレスの生地を選んだのは僕だ。義姉エティナは注文が多くて探すのが大変だったんだが、こうして君のドレスに仕立てられた完成品を見ると、僕の苦労も無駄ではなかったらしい。本当によく似合っているよ」
「まあ、これをリオールが選んだの!? 布や糸の貿易をなさっているから、てっきりお義兄様だとばかり思っていたわ」
「僕もダンフォード家の仕事に携わっているからね。今では義姉の注文は僕がこなしているんだ。兄より僕の方が義姉の要求を満たしているらしい。それが兄は不満そうで、時々、夫婦喧嘩のネタになってるよ」
リオールが語る様子は生き生きとしており仕事も順調のようだった。姉夫婦の仲睦まじい姿も垣間見え、チェルナの口元に笑みがこぼれる。
「お義兄様は少し好みが偏ってらっしゃるから」
「兄は豪華派手好きだからね」
「そう! でも、品のいい派手さだと思うわ」
「義姉のおかげで『品のいい』の範疇に納まってくれているんだ。僕は一生義姉に感謝し続けるよ。僕の少年時代に兄の豪華派手好みを矯正してくれたことを」
「リオールはすごい服を着ていたんですってね?」
結局、チェルナは楽しい会話に終始して、悪女の噂についての話は後回しにした。それが良かったのか悪かったのか。
お茶会の催されるベノジェム別邸で、先客の中にテレーサ・クインソーの姿を見つけ、チェルナは自分の下した選択を少しだけ後悔したのだった。